足音が聞こえない
今日も通勤ラッシュの駅は人でいっぱいだ。
人身事故があったらしく、行き交う人々の顔も殺気立っている。
僕はこういうラッシュ時の人ごみが苦手だ。
社会人になって、もう5年ほどたつけど、まるで戦争みたいな殺伐とした雰囲気に、今でも時々心が折れそうになる。
そういう時、僕がいつもやることがある。
いつも通勤で、大手町駅から東京駅へ向かう地下の通路を通るのだが、そこで歩く人々の足音に耳をすますのだ。
どの音がどの人の足音か。
それぞれにいろんな音があって、飽きない。
サラリーマンの革靴の音。
学生のスニーカー。
わかりやすいのは、女性のハイヒール。
視線を足下に落としながら、そんなことに没頭していると、一瞬違う世界に来たような気になって、少しだけ心がゆるやかになるのだ。
そんなことを続けていたある日、僕は時々、足音の聞こえない人がいることに気付いた。
最初は勘違いかと思ったが、やはりどう耳をすませても、足音のしない人がいる。
歩き方のせいだろうか。
もしくははいている靴の問題?
今日も、足音に耳をそばだてながら歩いていると、足音のない人をみつけた。
自分のすぐ前を歩くこの女性。
少し小柄で、紺のオーソドックスなブラウスを着ている。
みたかんじ、ごく普通の会社員。
スーツやカバンのかんじからすると、新卒や就活の学生にもみえる。
その彼女の履いている黒の地味目なパンプス。
そこから聞こえてくるはずの足音がまったくしなかった。
なんだろう?
どうしてだろう?
出勤時間まで少しだけ余裕のあった僕は、方向が違うのにも関わらず、つい彼女の後ろについて歩いてきてしまった。
JR東海道線のホーム。
電車を待つ彼女のすぐ後ろに立った。
立ち止まっているのだから、足音がしないのはあたりまえだが、それでもなにか違和感がある。
どうにも目が離せずに、後ろから彼女の様子を伺っていると、ホームのアナウンスの合間に、彼女がなにかをつぶやいているのが聞こえた。
ブツブツ、なにかつぶやいてる?
ホームに電車が来る。
たくさんの人が、彼女を避けて降りていく。
一通りの人が降りていき、彼女が乗りこむかと思ったら、なぜか立ち止まったまま、動かない。
とまどう僕の後ろでサラリーマン風のおっちゃんが、チッと舌を鳴らして、乗り込んでいった。
たくさんの人で電車が埋まり、扉が閉じる。
その扉の前で、彼女はずっと、なにかをつぶやいたまま、立ち尽くしていた。
乗れないんだ。
僕はそう思った。
実は、同じような経験が僕にもある。
会社に行かなきゃいけないんだけど、どうしても行けない。
頑張って、歯をくいしばって、家を出てきたけど、スーツ姿の人で満員の電車の中に入ろうとすると、気分が悪くなって、歩けなくなる。
たぶん、この子も同じなんじゃないだろうか。
そうだとすれば・・・。
また、別の電車がホームに入ってきた。
彼女の小さな背中が、少しだけ揺れる。
あ。
彼女のパンプスが音もなく、黄色い線を踏み越えた。
電車の警笛が鳴る。
僕は身じろぎすらできず、ただそれを見ていた。
目の前を電車が通過し、彼女がペタンと座り込む。
警笛が遠ざかり、電車が停まり、人が降り、また乗り込む。
紺色のスーツを着て座り込んだ彼女が、道ばたに捨てられたポリ袋みたいだ。
誰も気にもとめない。
係りの人間がやってきて、そのうち片付けるだろうと思っている。
こういう時、本当は周りの誰かが声をかけるべきなんじゃないのか?
こんなに人がいっぱいいるのに、ひとりとして声をかけようとはしない。
僕の後ろもすぐ人でいっぱいになるが、みな、なにもないかのように並んでいく。
あ、というか・・・これはむしろ、僕・・・か?
すぐ後ろにいる僕が声をかけなきゃ、なのか?
いざ、自分が行動をとらなきゃと思うと、なんだか急に不安になってきた。
大手町から後をつけてきたみたいになって、変に思われないだろうか。
変に騒ぎ立てて駅員を呼んだりされるより、むしろそっとしておいてもらいたいんじゃないだろうか。
そうそう。経験上、僕だったら、そっとしておいてほしい・・・。
三度目の電車の乗り降り。
彼女は座り込んだままだ。
そして、僕は後ろで立っているままだ。
・・・。
扉がしまり、窓にへばりつくようにしているサラリーマンと目が合った。
とっさにそらす。
はー。
・・・覚悟を決めた。
勇気を振りしぼって、声をかけてみる。
「・・・あ、あの・・・」
反応がない。
雑踏の騒音で聞こえないのかもしれない。
少しだけ、声をはってみる。
「あ、あのー!・・・す、すいません!」
びくっと、彼女の肩が動いた。
ここまできたら、もう引き返せない。
「だ、だいじょうぶですか?」
座り込んだまま、ゆっくりと彼女が振り返った。
呆けたように見上げるその顔。
かるく開いた口。
うるんだ瞳にたまった涙。
お互い言葉を発することもできず、見つめ合った。
しばらくして、彼女の頬を、涙がこぼれ落ちた。
う、うわあ・・・。
彼女が号泣し出した。
さすがに周りの人たちがざわつきだす。
みなが、僕らのことを遠巻きに見ている気がする。
ち、ちがうんですー!
ぼ、僕が泣かしたんじゃないんですー!
心の中でそう叫ぶ。
ハンカチでも差しだそうと思って、ポケットをまさぐったが、こういう時に限って、洗濯してなくて、しわしわだ。
うわあ。どうしよう。
周りの目が気になって、あせる。
「あ、あの・・・と、とりあえず、ホームの中の方にいきませんか? ・・・ここだと目立つ・・・というか、あ、危ないですし・・・」
手で顔をおさえて、泣き続ける彼女。
電車が停まり、また扉が開く。
もう何度目かの人の入れ替わり。
「・・・待ってた」
最初、その声はあらぬ方向からとんできたように思えて、僕はあたりを見回した。
そして、そうかと思って、ゆっくり彼女の方をみた。
「わたし・・・待ってたんです。あなたみたいな人・・・」
彼女が立ち上がった。
「こんなにたくさん人がいるのに・・・誰もわたしのこと、気にしないんです。・・・あなたがはじめて。わたしに声をかけてくれたのは」
そう言って、彼女が僕の正面に立った。
泣きはらしたせいで少しむくんでいるが、大きなくりっとした瞳。
少しはにかんだような表情が、こんな時に不謹慎だけど・・・ちょっと・・・かわいい。
「わたし・・・会社に行かなきゃいけないんですけど・・・。ダメなんです。今日もあの職場に行くことを思うと・・・どうしても足がすくんでしまって・・・」
やっぱり、そうだった。
最近、多いんだなあ。こういう人。
僕も人のこと言えないわけだけど。
「あの・・・それ、わかります。僕も前にそんなかんじになった時があって・・・結局、辞めちゃったんですよ、その会社。・・・あの、ちょっと差し出がましいようですけど、もういいと思いますよ。・・・無理に行かなくても、いいんじゃないですかねえ・・・」
ついさらっと、本音を口走ってしまった。
でも、彼女が少しだけ笑顔になるのをみて、ほっとする。
この子、笑うと・・・やっぱり、かわいいなあ。
「ありがとうございます・・・。やさしいんですね・・・」
そう言って、彼女が一歩だけ僕のそばによってきた。
ん? 今? 聞こえた?
足音・・・。
彼女が・・・一歩踏み込んだ・・・足音。
「わたし・・・やっぱりひとりだとさみしくて・・・。もう1年以上も前から、毎朝、こうしていたんです」
一歩、また一歩と彼女が近づいてくる。
あれだけ騒がしかった駅のホームが、今ではシーンと静まりかえり、彼女の足音だけが高く大きく響いてくる。
「・・・待ってたの。わたし、あなたみたいな人」
電車がホームに入ってくる。
彼女が僕の手をにぎり、この世のものとは思えない力で僕を引っ張った。
「いっしょに・・・いこうね」
鳴り響く警笛の中で、そうつぶやく彼女の声がはっきりと聞こえた。
背中から、線路へ落ちていく彼女。
引っ張られる僕の右手。
電車のフロントガラスの先に、ひきつった運転手の顔が見えた。
・・・。
今日も通勤ラッシュの駅は人でいっぱいです。
ついさっき人身事故があったみたいで、行き交う人々の顔も殺気立っています。
わたしが駅のホームにあがると、ちょうど事故現場だったみたいで、警察らしき人が周りの人に話を聞いていました。
「若手のサラリーマン風の男性でした」
「いや、なんかひとりでぶつぶつ言ってたと思ったら、突然・・・」
かわいそうに。
最近、ブラック企業だとかパワハラとかで、こういうことが多いような気がしています。
かくいうわたしも、最近、職場の上司からセクハラまがいのことをされていて、会社にいくのがつらかったするのですが。
なんか生々しすぎて、いたたまれない・・・。
わたしはそこで電車を待つのがいやで、別の場所から乗ろうと駅のホームを歩き始めました。
そして、気がついたんです。
前を歩くサラリーマン風の男性。
その足音が聞こえないことに。