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紡ぎ人アルヒ  作者: 大森亜澄
第二章 うしなわれた姫の影
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五. 罠の手のなか


 アルヒの体はひどく重く、指を動かすことすら大儀に思えた。


 ノーシの話を聞きいっていたアルヒはごく自然な仕草で布団に腰をおちつけた。今から思えば急激に両足が重く感じられたせいだったが、そのときは一日歩きとおしたからだと思えた。ひさしぶりに、術だって使ったのだ。


 それから、頭が重くなった。全身がうっすら熱っぽく、眠くもないのにまぶたが重くなる。ひたいに手をあてたとき、とうとう閉じたまぶたは開かなくなった。そのまま重くなった体を横たえ、アルヒはめまいが過ぎ去るのをじっと待つ。しかし体にのしかかる倦怠感は重みを増すばかりで、過ぎ去る様子を毛ほどもみせなかった。


 話を切ったノーシがこちらに気がついたのを感じたとき、アルヒは声をあげたかった。それでも、声は出せなかった。ノーシが去っていくのをなんとかひきとめようと手を伸ばしたつもりだったのに、できたのはわずかな身じろぎのみだ。


 こんなのは、あきらかにおかしい。


 疲れのためだとは思えなかった。それにしては意識がいやにはっきりしていたし、わずかな音や、体に触れる布団の感触がなぜか体に響く。


 アイレのように霊体で体からぬけだそうにも、なにかが魂をしばっているのを感じる。術に集中しようとすると、粘着性のあるくもの糸のように意識にからみつくものがある。術が縛られている?


 アイレの姿がずっと見えないことがふいに気がかりになった。ここが森の奥の隠し宮のように場を支配する術が使われているのなら、術士を縛る力によって霊体の…いわば術の力を身にまとった状態のアイレには立ち入ることができない。…アイレの姿が見えなかったことに、もっと気を回せていれば。


 けれど、だとするなら…この場所で、絲の術を使う者がいることになる。このような状況に落とし込んだ者が、アルヒを罠にからめとるつもりで術をはったとすれば、それは…


 ふいに、きぬずれの音が近づくのを聞いた。すべるように裾をさばく、複数の足音。


戸があけられる。暗がりの部屋にゆらめく灯火がもちこまれたことがまぶたの裏に伝わった。そして、甘ったるい香りがたちこめる。複数の気配のうち、ひとりがすすみ出てアルヒの足もとで立ち止まった。


 あまりに、アルヒは無防備だった。叫びあばれだすことを望んだとしても体に力が入らない。


 アルヒの足もとに立った人物が、満足げにつやっぽい息をつく。


「このときを、ずっとずっと、お待ちしておりました…」


 くゆらせた香りよりももっと甘く、ねっとりとした声だった。


(ミリクさん…?)


 するすると帯をほどく音に、ぱさりと重たげな布が床に落ちる音が続く。


 ミリクは、アルヒの足もとにひざまずいたようだった。


「ふふふ…」


 その手が、アルヒの足に触れた。毒蛇がはうように、その手は下腹部から胸をつたい、アルヒの両頬をつつみこむ。いとおしげに前髪をなで、顔を近づけるのをアルヒは感覚した。そして、そのやわらかいくちびるはひたいに触れ、鼻のあたまに触れ、最後にアルヒのくちびるにかさねられた。


 なまあたたかい他人の舌をみずからの口内に感じ、アルヒはとびあがるような思いをした。


 アルヒにまとわりついた重苦しい膜をミリクがぬぐいさったように、ミリクの顔がはなれるときにようやくアルヒにわずかな体の自由がうまれる。それでも重いままのまぶたをゆっくりと開けた。


 そこには顔を上気させたミリクがいた。夢見心地の人がするようにわずかに頭をかたむけて、てらついたくちびるを半開きにしている。背から火明かりをうけていても、その顔色が赤らんでいるのは知れた。なのに、ひとみはどこかさえざえとして無防備に横たわるアルヒを獲物でも品定めるように見すえている。


「どうし、て…」

「名乗ってくださらなくとも、わたくしは存じております。絲の神に愛されたかた」


 うっそりと、深くミリクはほほえんだ。


「わたくしの産む子も、愛されたいのです。絲の神に、深く…ふかく」


 ほおに触れていたミリクの手が迷うように、どこか遊んでいるように、あごをなでて首筋をたどり、鎖骨のかたちを確認する。そのくすぐったさにうめいて体をよじらせながら、アルヒはミリクの肩ごしにふたりの侍女の姿を見た。


 ひとりは灯火をかかげ、ひとりは香炉をたずさえている。香炉から立ちこめる甘い香りは、夕餉で口にした果実茶によく似ていた。


 ミリクのくちびると手はアルヒをはだけさせながら、目的をもって下腹部をめざす。ミリクも肌襦袢に体の線を透かし見せていた。そのゆたかな乳房がアルヒに触れたそのとき、アルヒは体の芯に熱を感じ、同時に強烈な不快感におそわれた。


「きみ、は…」


 息をつきながら、アルヒはミリクをにらみつける。


「どうして、姉が、どこへ行ったのかも、わからないのに…そんなに、平気で、いられる」


 かろうじて言葉をつむいだアルヒを不思議なもののように見つめたミリクの表情は、手をそめる行為とはうらはらにあどけなく見えた。その顔がくしゃりとゆがみ、少女のようにミリクは笑いたてる。


「おかしなことをお聞きになりますのね。姉をなくした悲しみなど、すぐに癒えはてるというのに。ええ、すぐにですよ。だってわたくしがこの身に宿すのだもの、いとし子を」


 笑い疲れたように肩で息をして、みだれた髪をミリクがかきあげる。


「姉のような先祖返りのまがいものじゃない。絲の一族の直系の子!それはさぞかし、皆もよろこぶことでしょう。わたくしも、誇らしいことですわ。わたくしは絲の力をもつ子の生母となるのだもの…姉上だって、草葉の陰で祝福してくださる」


 ミリクの灰色のひとみは青みを増して妖しげにかがやき、さながら闇夜に狩りをする獣のようだった。逃げなくてはいけない、その手をはらいのけなくてはいけないとわかっていても、くゆる香りが鼻腔をつきぬけるたびに、アルヒの抵抗の力も心もうばわれていく。


 心のどこか弱い部分がこのまま流されてしまうことを吹き込む。けれどそれを上回る汚辱感がアルヒの腹の底から嫌悪の叫びを形成し、抵抗をあきらめるなと強くゆさぶっていた。


 それでも、方法はなかった。大きく声をあげることすらままならず、こうして体も自由がきかない。


「神官さまは、ただただ身をまかせてくださればよいのです。わたくしがすべてを、成しましょう。さあ、気持ちの良いことをいたしましょう…」


 吐息まじりに耳もとで蜜をたらすようにささやかれ、背筋を悪寒がかけぬけた。もうだめだとアルヒがきつく目をとじた、そのときだった。


 まぶたに感じていた明かりがなぎはらわれ、壁にたたきつけられる音がした。


 アルヒが体に感じていたミリクの体重がさっと引く。つづいてがしゃんと香炉が落ちて、どさりと侍女が倒れる音がする。


「おまえは…ぐっ」


 うろたえ口開いたミリクの声がつぶれる。アルヒのそばにいたミリクの体が転がって壁にたたきつけられるのを、アルヒはかろうじて見た。背中をうちつけたはずなのに、ミリクは体をくの字に折って腹部をおさえ、はげしく咳込んだ。

 だれかが、そのミリクにゆっくりと歩み寄る。ミリクの前髪をつかんで無理やり顔をあげさせると、その人物は片手にかまえた短刀をふりかざし…


「やめろ」


 アルヒはなりふりかまわず叫んだつもりだったが、大きな声にはならなかった。とはいえ、ミリクののどを斬り裂くぎりぎりで刃はぴたりと止まる。


 その人物はうしろで倒れるふたりの侍女とおなじ服装をしていた。ゆっくりとアルヒに顔をむける。


 それは見覚えのない女だった。それにかかわらず、アルヒはよく知った彼女の名前を呼ぶ。


「セラタ、やめるんだ」


 よくととのえられた黒い髪、あらゆる色をふくんでよどんだ混濁の色のひとみ。歳はアルヒよりも五つも六つも上に見える女性のすがた。それがセラタだと、アルヒは直感でわかった。セラタがそうやって見知らぬ者のすがたでアルヒの前にあらわれることはまったく珍しくないことだった。


「台下の身の上を思えばこの女のしたことは万死にも値します。それでもこの女をおゆるしになると?」


 いっさいの感情もまじえない冷たい声だった。


口寄士くちよせしさまの裁断をあおぐことはない。この女は、台下を…だれと知っていなかったにしても、穢そうとした。これを見逃しては私の顔が立ちません」

「俺が、ミリクにつけこませた。そのミリクを殺してしまえば、俺が殺したも同然だ。俺が『殺生をする』ことは、最大の禁忌なんじゃないか?」


 鏡面のように硬質のひとみを見開いていたセラタは、その言葉に顔をピクリとも動かさず前髪をつかんでいた手だけをはなした。


 床にひれ伏したミリクはがちがちとふるえながら、あえいでセラタをにらみつける。


「化けもの…おまえは、人間ではない。おまえからは、人間の息吹を感じない」

「やめろ、ミリク…」

「姉上よりもけがらわしい!おまえは化けものだ!絲に巣食うマガツモノめ」

「よく知っている」


 セラタが立ちあがると、ミリクはヒッとのどを鳴らしてあとずさった。


「私が絲の化けものならおまえはあさましい袖乞いだ。与えられること、奪うことでしか手に入れることを知らない。満たされることばかりを望んで、哀れをさそうことにしか脳がない。二度と台下の前にあらわれるな。次に同じことをしたときには、そのはら斬り裂いてくれる」


 セラタはミリクから目を離さないままで短刀をおさめたが、その向けた殺意は今も視線に渦巻いていた。


 気がつけばこうのにおいはいつしか消え、部屋にはきな臭いいやなにおいが充満していた。落とした灯火が床を焦がしはじめ、敷物にその火をひろげている。


 それに凝視していると、すばやい動きでセラタがアルヒの目前に膝をついた。


 今のすがたでも女性にしては長身だったが、その肩、手首、手の甲が筋張り、首がひとまわり太くなる。侍女の服装もいつの間にか動きやすい衛士の服へと変わる。男に姿を変えたのだった。


「遅参つかまつりました。さあ、ここを出ましょう」


 低い男の声だったが、声音はさきほどミリクにかけたものとはまったく似つかず、凱風がそよぐようにアルヒへかけられた。


「薬をふくまされたのですね。もう大丈夫です」

「あ、ああ…」


 セラタの腕は軽々とアルヒをかつぎあげた。そんな風にかつがれたのは幼年以来だったので気恥ずかしくもあったが、まだ体の自由が効かない身である。文句を言う筋合いはなく、おとなしく従うことにした。


「…あなたは、やはり、高貴のかたですのね」


 床に落とすようなミリクの言をアルヒは拾った。ミリクへと顔を向ける。


「そんなことはないさ。見てのとおり、無力な存在だ」

「ならば、わたくしにお恵みをくださいませ。わたくしはただ、愛し愛されたいだけなのです。わたくしはあなたを神のようにあがめ、たてまつりましょう。あなたはわたくしという信徒を得て、その力を」

「もうやめよう、ミリク」


 一時は激しく突き上げた不快感は、すでに夕闇に焼かれたあとの山の端よりもむなしく沈んでいた。


「信徒がほしいのはきみなんだろう。人間は神じゃないから、あがめられて得られるものでは、心を満たせられないんだ。それを理解できないかぎり、きみは姉のかわりにはなれない」


 ミリクは口もとをわななかせ、乾いたひとみをいっぱいに開いていた。興味をうしなったセラタが身をひるがえし部屋をあとにしても、体をこわばらせアルヒの横たわっていた布団を見つめていた。




 館の透かし渡殿を、アルヒを抱えたままのセラタはすばやい足さばきでぬけていった。途中で女中に出くわしたらどう申し開きすべきかとアルヒは構えていたのだが、不思議と誰にも遭遇しなかった。


 よくよく耳をすませてみると、遠くから人の騒ぎたてる音がする。


「ずいぶんと手薄のようだが、向こうでなにかあったんだろうか」

「お気になさらず。陽動です」


 セラタはさらりと言ってのけて、アルヒは目をみはった。よくよく見てみれば、煙を上げているのは飛び出してきた客間ばかりではないようだ。


「…大胆なことをするな」

「性懲りもなく、絲の一族を食い物にする輩です。これくらいの灸はすえなくては」

「食うに困っていたとしてもか」

「アルヒ様」


 ぴしゃりとセラタが名を呼ぶと、わずかに速度をゆるめてアルヒへ目を向けた。


「アルヒ様は、お優しすぎます。なぜあのような袖乞いをかばったのですか?

それにあの言い分はなんなのです。アルヒ様はそれでいいとしても、ああいう考えは罪人をつけあがらせます。どんな理由があったにせよ、手をくだした者が全面的に悪いのです」


 アルヒは返す言葉が見つからず、視線をそらした。勇み足で再度速度を上げるセラタに揺すられながら、アルヒは別の考えが頭をかすめた。


「そうだ、セラタ」

「なんでしょう」

「あの日、隠し宮でのことなのだが…」


 言いよどんだアルヒの言葉を遮るように、セラタは急に足を止めた。庭を横切る影がある。それがまっすぐにこちらに走り来ることに気がついてセラタは身構えた。アルヒも身を固くしたが、躍り出たその人物を見てすぐに緊張をといてしまった。


「アルヒさん」

「ノーシ!」


 それはノーシだった。見ればあちこちに葉や小枝をつけて、髪をみだしている。


「セラタ、心配ない。この人は口寄士くちよせし見習いのラミという人に紹介された、信頼のおける…」

「セラタ兄さん?」


 軽やかな声がノーシの肩口から聞こえる。見れば、霊体のアイレがおずおずとノーシの背後から顔を出した。


「アイレも、無事だったのか」

「そんなところでなにをしているの…セラタ兄さん」


 アルヒの声も耳に入らないように、アイレはセラタにいぶかしげな声を投げかけた。セラタは身を引いていっしゅんたじろいだようだったが、すぐに平静を装いすすみ出た。


「アルヒ様をお助けしようと」

「そうじゃない。そうじゃなくて…どうして、今ここにいるのか聞きたいの」


 霊体のぼんやりとしたすがたでも、アイレのひとみがするどい光をたたえるのが見える気がした。


「どういうことなんだ、アイレ。セラタは」

「宮主さまが崩御されたこと。セラタ兄さんは、なにか知っているのでしょう」


 その場にいただれもが、口をつぐんだ。遠くのさわぎの声がひときわ高まる。

 セラタだけは顔色を変えることなく、アイレの責めるような視線を真正面からうけとめていた。

 


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