三. 妹の影、兄の影
わらべ唄が聞こえる。
『よるのやみはまいもどらん。あさのひかりへとひとつへと。ヒカリのエ、ヤミのト、カゲがしょうじましょう』
それはなつかしい声だった。どこから響いているのだろう。あたりを見回したが、朝もやのようなものがたちこめて探すことがかなわない。
声のするほうへと足を踏みだせば、やがてかすみがかった向こうに数人の人影を見た。ちいさな人影だと感じたが、今の自分の体もちいさくなっているようだ。きっと目線の高さも同じくらいだろう。
目をよくよくこらして見ればそれが誰なのかはっきりとした。
なつかしい声は、声がわりをむかえていないころのシーヤの声だった。きょうだいで遊びながら、背負ったアイレにわらべ唄を歌っている。
立ちつくしてその様子を見るアルヒに、誰も気がついてはいないようだった。胸がきゅうと締めつけられるように、切ない気持ちがこみあげてくる。
「俺にも兄弟がいればよかったのに」
だれに言うとでもなくつぶやく。それは幼いころよりシーヤたちきょうだいと顔をあわせるたびに心に浮かんでいたことだった。
国の宗教的に重要な位置づけにある絲の一族。その血族の頂点に位置するイツクシミヤ家の当主はたったひとりだけ。そして、その名を継ぐ者もひとりでなくてはならない。さんざん、聞かされてきたことだった。
それを子どもながらに理解していながらも、いつも言葉にはできないうらがなしさを感じていた。握っていた手のひらを開いたときに、握っていたはずのものが消えているのに気がついたような、心さびしい気持ち。
ふいに、幼いセラタがシーヤの目の前でころんだ。
腹ばいになったセラタは、口もとをわななかせて目のふちに涙のたまをいっぱいためながらも、泣くまいとこらえている。そのセラタを、シーヤが助け起こした。
「アルヒさまにも、きょうだいがいるじゃないか」
シーヤがこちらにむかって言う。そして、アルヒの背後を指さした。
そうか、おれにも、きょうだいがいたのか。
心にあたたかいものが広がるのを感じて、アルヒはほほえんだ。
うしろに誰かが立つ物音に、アルヒはふりかえる。そのアルヒの両のひとみを、温かい大きな手がおおいかくす。
「イツクシミヤ家の当主になれるのは、たったひとりだけ」
聞きなれない声だった。
「後継者もたったひとりしかつくらない、だからもしもうひとり後継者となるこどもが生まれてしまうようなことがあれば…その子は間引くしかないんだよ」
「間引く…」
「国主様や、イツクシミヤ家の宮主様にささげる甘くて大きなシクの実があるだろう?うんと大きくておいしい実をならせるには、あらかじめ同じ木に生じた他の実をもぎとっておかないといけないんだよ。実がたったひとつになれば、その木はすべての栄養をひとつの実に注ぐことができるからね」
アルヒは目を開ける。
体がひどく鈍重に感じられた。思考はゆげにあてられた玻璃よりもはっきりとしない。
昨晩はいつ、どんな風にして眠りについたのだろう。
うすらぼんやりとした視界で天井を見たが、それは自室のものよりもうんと質素に思えた。
「ひとりじめ、ってことですね」
「意地の悪いいいかたをするとそうなるかな」
アルヒはゆっくりと半身を起こす。
その音に気がついたのか、隣部屋の話し声はやんだ。
今しがた会話の聞こえたほうに顔をむければ、障子の向こうに影がふたつゆらめいていた。そのうちの、より近いほうの影がサッと障子を開く。
「気がついたようですね」
そこに、見慣れない神官姿の女がひざをついていた。
歳の頃はアルヒより二、三歳の年上の少女のようにも、その二倍の歳を重ねているようにも見える。赤みのあるくせっ毛に厚ぼったいくちびるが、おかたい神官職の印象からはほど遠く感じられた。
「私は口寄士の見習い。いちおう、ひと通りの手習いは受けた身ですが、まあなんといいますか。生来の粗忽者でしてね、宮仕えなどしたこともありませんので、若君につきましては失礼の数々はお目こぼしいただけると…」
「気にすることはない。宮主の子とはいえ、こちらも修行の身だ。楽にしてくれ」
「いやあ、そう言っていただけると助かりますね。名をラミともうします。お見知りおきを」
「アルヒ様!」
ラミ、と名乗った赤毛の見習い口寄士の背後からぱっと明るい栗色の髪の少女があらわれる。驚く間もなく少女はその細っこい体で思いっきりアルヒの胸へとびこんだ。
「アイレ…か?」
「ご無事でなによりです!」
白貝のようなすべやかな肌をもつ小柄なアイレは、大きな紫のひとみをうるませてアルヒにすがりついていた。
「体はもう大丈夫なのか?」
「そんなこと…!それよりも私は、シーヤ兄さまがアルヒ様を影君のもとへと…」
「アイレ」
ラミの女性にしては低くよく通る声にアイレは口をむすんだ。
「アルヒ様はめざめられたばかりだ。順をおって話すといい」
「はい…」
少しおちついたアイレは、自分がアルヒにすがりついたままだということに気がついてあわててとびのいた。耳まで赤くなってかしこまると、上目づかいにアルヒを見つめる。
「あの、おかげんはどうですか。どこか痛いところは」
「問題ないよ。ラミが助けてくれたのか?」
「アルヒ様をお助けしたのはアイレですよ。な、アイレ?」
アイレはますますちぢこまってしまい、正座にたたんだ足をもじもじさせた。
「そうか、ありがとうなアイレ」
「アイレはただ、シーヤ兄さまをおどろかせたかっただけです。命がけでアイレを救おうとしたシーヤ兄さまなら、アイレの術を無理にやぶろうとはしない。風になってアルヒ様のもとへ向かい、兄さんからアルヒ様をとりもどした。それだけのことです」
「顔をあげてくれ」
アイレはおずおずと顔をあげる。そのひとみはわずかにしめっているようだった。
「アイレは、シーヤがどうしてこんなことをしたのか、知っているのか?」
「兄さまは…」
「それについては、私から話そうか」
居住まいを正したラミが、アルヒへとむきなおる。
「隠さずに申し上げます。アルヒ様には、双子の妹がいらっしゃいます。知る者は、わずかに限られた者のみ。その少数の人間も…ほとんどが、生まれてすぐに弑されたものだと思っている」
その言葉を聞きながら、アルヒは不思議な既視感をおぼえていた。かぎがあるべきかぎ穴におさまるように、その事実がすとんと腑に落ちる。
「つまり、俺の妹は生きているんだな」
「はい。宮主…いずれ法王となるイツクシミヤ家の後継者には、力の分散を防ぐためにけっしてきょうだいを作りません。けれど、これは我々口寄士…まあ私は見習いですが…のみに伝えられることですが、それが双子である場合には下の子を【サズカリモノ】と考えるのです。
兄を正規の後継者として育て、妹は【サズカリモノ】として宮から落とされ厳しい環境下で育てられる。そのままつきはててしまうものなら、その子は【サズカリモノ】ではない。しかし、みごと生き抜いたそのあかつきには、正規に育てられた兄君と影君…隠されて育てられた妹君ですね…を、ひとつへとする、とあるのです」
「ひとつへとする…」
「より優れた者をえらび淘汰する、というのが一番多い解釈です」
うなじを打った衝撃がよみがえる気がして、アルヒはそこを無意識にさすった。どこか本調子ではなかった思考がはずみをつけて明瞭になる。
隠し宮を襲った闖入者の『真なるイツクシミヤの当主長子』という言葉が、今になって意味ある言葉として飲みこまれる。
「つまり、シーヤは影君についたと、そういうことなのか」
「それについては、私は信じていません」
アルヒの言葉にたちこめた霧を払いのけるようにアイレは声を上げた。
「シーヤ兄さまが本当に、その影君っていう人に賛同してついたとすれば、その場ですぐにアルヒ様を手にかけたはずです。でもシーヤ兄さまはアルヒさまをただ連れて行こうとした。私がそれを邪魔したときも、ただただ見ていただけでした。私にはそれが…」
アイレが両の手を強く握りしめる。
「まるで、誰かに自分のしていることを止めてほしいみたいだと思ったんです」
アルヒは視線を床に落とし、ふるえるアイレの手に自分の手を重ねた。その手に、ぽたりとあたたかい涙がこぼれ落ちる。
「アイレはなにも気に病むことはない」
「…はい…」
それが、ただの気休めでしかないとしても、口にせずにはいられなかった。アイレの言った言葉も、アイレがそうであってほしいと思ったことにほかならない。それでも、不思議とその言葉を信じてみる気になった。妹のアイレなら、きっと兄のシーヤをただしく見抜けるだろうと思えたからだ。
自分の妹はどうだろうか。陰鬱な気持ちでアルヒは影君をよばれる、会ったこともない妹のことを思った。
「私もね、正直アイレの言うことは一理あると思っているんですよ」
ひょうひょうとした口調でラミは言った。
「今年の占で、出た言葉です。『ひとつの灯火が消えかかったそのとき、その灯火を奪う風を喰う者あり。風は、ときに人のゆくべきを導くもの。それを奪うということは、そのひとの行く道を奪うということ』」
「行く道を奪う?」
「未熟者ですので、私にはさっぱり解釈できません。ただなんとなくですが、そういった奇妙なねじれが起こっているということは察せられます」
セラタの、暗く沈みきった声が思い浮かぶ。
―ひどい傷でした。兄さんが負傷したアイレをつれこんだときには、もう手遅れではないかと多くの者が思ったそうです。いそぎ、メント家の者が集められたその時も…アイレと別れをさせるためだと、だれもが思ったはずです。けれど兄さんは、シーヤ兄さんはアイレは大丈夫だと聞かなかった。そして、アイレは兄さんの言うとおり、一命をとりとめた。
そのアイレを見届けて、シーヤ兄さんは姿を消しました―
「そういうことか…」
「アルヒ様」
ラミの声に、物思いにふけっていたアルヒは顔をあげる。ラミは先ほどまでのどこかつかみどころのない雰囲気をおし消して、まっすぐとアルヒを見つめていた。
「私は、見習いをはいえ口寄士としてひと通りのことは身につけています。…双子のきょうだいがわざわざ殺し合うやり方は絲の神様が歓迎することだとはとても思えない。
もしもアルヒ様が望むのなら、そのすべての力を影君にゆずり、後継者の座から引く方法をお伝えすることもできます。そうすれば無益な争いをせずともすむでしょう。どちらかを弑する、なんてこともせずにすむかもしれません。
…どうしますか?」
そう申し出たラミの顔を、どんなふうに見つめているのかもわからないほどにアルヒは混乱していた。
妹がいる。自分を、おそらく排除しようとしている。シーヤがその手のなかにある。自分は、最終的に妹を排除しなくては殺されるのかもしれない。だが、すべてを明け渡せば、争わずにすむ。
箇条書きにした葛藤を順にならべ、数珠つなぎをするように紐を通してみる。そこにひとつのこたえが見える気がした。
「ラミ」
「なんでしょう」
「よく切れる小刀があったら貸してほしい」
きょとんとして、ラミはアルヒの意図を探るがごとくその純黒のひとみをのぞきこむ。
そこに立ちこんでいた迷いは、霧を晴らしはじめていた。