二. メント・シーヤ
奥の間の引き戸を開けて、ほっそりとした麗人がいつの間にかそこに立っていた。
晴れた日の夜空をそのまま染め上げたような濃紺の衣に純黒のきゃはんをしめているが、その白い肌、細い首、華やかな容姿は明星のようで、人の目をひきつけてやまない。
中性的な麗質をたたえたその闖入者は、猫のようなひとみを狩りがいのある獲物を見つけたかのようにらんらんと輝かせて、ぶしつけにアルヒへ視線を送る。
「誰だお前は。見張りの者はどうした」
ものかげで神像のようにひかえていたリゥガは進み出てどっしりとかまえ、よく響く低い声で闖入者を威圧するが、当の闖入者はこゆるぎもしなかった。
「イツクシミヤ家若君がこうしているというのに、ずいぶんと守りが手薄なことだね。入り戸の神官の娘ならそこでのびているよ。他愛もない」
「何用で来た」
「ここがエカサ国正教の隠れ家ってわけだね。なるほど、ここは手引をする者がいなくちゃたどりつけない。ゆるされない者は術が断たれるようだし」
「質問にこたえろ、ことと次第によってはお前を」
「どうするの?」
紺の衣の闖入者は浮かべていた笑みをいっそう深め、手甲の重たげな細い腕を広げる。
突如として、まばゆい光がその両の手を覆いはじめた。
「術を…!」
「さあ、質問にこたえよう。ボクは、『真なるイツクシミヤの当主長子』に命じられた者。そこの呆けた顔のいつわりの長子をお連れするように、とね」
「何だと」
リゥガは虎の腹を鳴らすような低いうなり声を上げた。アルヒには皆目見当のつかない言い分だったが、それをリゥガは推しはかるに事足りたらしい。
闖入者の両手にまとった光が、するどい刃へと姿を変えていく。
それに魅入られるようにして見つめていたアルヒの前に、リゥガの巨体が立ちはだかった。
「セラタ殿!アルヒ様をお連れしてここを逃れよ」
いっときためらうように見えたセラタは、うなづくとアルヒを急かすように見つめた。
「リゥガ…」
「いいか、宮には戻るな!フエゴ殿と合流し、なんとしてもアルヒ様をお守りするのだ」
「アルヒ様、はやく」
セラタに手をひかれ、一時あらがいかけたアルヒはリゥガへ目を向ける。
リゥガはアルヒに背を向けたまま、油断のないしぐさで闖入者と対峙していた。
「リゥガも、必ず無事で」
「拝命つかまつりました」
話がついたと察したセラタが走り出すのにひかれ、アルヒも走り出す。それ以上背後でどのような物音がしたとしても、アルヒは後方をふりむくことも、足を止めることもしなかった。
「ムダなことをする」
闖入者は横目で目的のアルヒが立ち去るのをおくりながら、少しもあわてた様子を見せなかった。
「貴様には聞かねばならぬことが山とある。アルヒ様を追うというのならそれからにしてもらおう」
「おや…さすがはイツクシミヤの忠実なる腕といったところか。あの長子にくらべれば事情に明るいと見えるね」
「だとすればどうする」
「カンタンなことだよ。事情を聞き出す必要はボクにはない。目的を果たすまでだ」
闖入者が腰を落としたとリゥガが視認すると同時に、清浄なる密室に空を切る音が生じた。
隠し宮には無数の通い路が秘されているようだった。
セラタが奥の間に隣接する宝物庫の神像のあしもとからあらわにした隠し階段を下り、しけた地下道を抜けて、ふたりは森のまんなかへとまろびでた。
アルヒには自分が今どこのあたりに立っているのかも想像がつかなかったが、セラタには現在地がただしく認識されているようで、迷うことなく足を踏み出した。
「リゥガは大丈夫だろうか」
「私もシーヤ兄さんも、リゥガ様を体術の師としております。リゥガ様がそうたやすく遅れをとるとは思えません」
そうつぶやくように言ったセラタの声は、自分に言い聞かせるようでもあった。そのまま二人は押し黙ったままもくもくと歩を進めた。
今にも走り出したい気持ちこそあったが、そばについて導くセラタがそうしないのでアルヒもやめようと思った。山歩きに慣らされ、体力に自信があるといってもそれを無用に消費することが現状で得策とは思えないことはたしかだ。
「兄さん、が…」
それは、ほとんどひとりごとのようだった。息を吐くのと同時に、セラタが口を開く。
「死んでしまうつもりなのではないかと、思ったのです」
「シーヤ、が…?」
「あの日。シーヤ兄さんが姿を消した夜。私はぐうぜん長旅のようなしたくをして、そのわりには少ない荷物を持って、発とうとする兄さんを見たんです。呼びとめたら思ったよりもシーヤ兄さんは落ち着いていて…」
空気を嚥下するようにセラタののどが上下する。
「まるで、これが今生の別れであるようなことを、言ったんです」
「シーヤはなんて…」
セラタは足をとめた。
うつむいて、覆いかぶさった前髪にかくれたひとみから涙があふれ落ちるのではないか、と思われるほどにセラタは震えていた。
優れた職人がこしらえあげたような、きめの細かい肌に赤みのさしはじめるのを見て、アルヒはセラタが自分と歳の頃もかわらない、子どもとも呼び変えられる年齢の幼なじみだということが胸にせまってきた。
会うたびに容貌も体つきも性別すらもちがう。声色も言葉づかいもちがうのに、 セラタはいつのときも変わらない親しみをむけてくれた。
どんなすがたでいるときもセラタが下くちびるを噛んではにかみ笑う癖は変わらず、その笑顔を見るとどんなときでも心がなごんだ。
今はゆるく髪を結った少女のすがたをしているが、その顔つきと声はシーヤによく似ている。シーヤは細面の、女性めいた容姿をしていた。母親似なのだ。
ふと、もしもこのままシーヤがもどらなければセラタはずっとこの姿を守るのではないか、という考えがアルヒの頭をかすめた。シーヤの面差しを、面影をひめた生きていくセラタ。…そのセラタは、きっと以前のようにアルヒと親しんだセラタではなくなるのだろう。
手を握りたい、と思った。そのふるえる肩を抱きしめるのなら今だと思ったが、少女の姿をしているセラタの体にふれることは、こんな時にもためらいがある。
それでもせめてなにか言葉をかけなくては、とアルヒが口を開けた、その時だった。
「しっ」
セラタがひとさし指を鼻のあたまにつけ、油断なくあたりを見回す。
「セラタ?」
「いま、気配がしました」
アルヒも身構える。肌に突き刺さるほどの緊張がふたりをつつみ、ひとつのあやしい物音も聞き逃さぬよう耳をすます。
すぐそばでがさりとしげみを大きくゆらす音がした。
いち早く反応したセラタはアルヒを背にかばいいつの間にか抜いた刃を構えた。…が、
「あ」
どこからどんな攻撃がとんできても対処できるように身構えたその状態で、セラタは気の抜けた声をもらした。
「兄さん?」
「えっ?」
アルヒも体をこわばらせたままセラタの視線の先を追う。しげみをかきわけて現れたのは、くしどおりのよい髪を肩へと流した軽装のシーヤ、その人だった。
「よかった。セラタ、ここにいたのか」
セラタの全身から発されていた緊張感が抜けおちるのにつられてアルヒも力を抜く。そのいきおいでその場にくずおれてしまいそうになるのをなんとか踏みとどまった。
「噂はその人の霊を引く紐だ、なんていうことわざは本当だったんだな」
ぽつりとアルヒはつぶやいた。
セラタはひたすら、信じられないというていでシーヤと言葉を交わしている。
「口寄士様より、アルヒ様を宮へお連れしろと任がくだったんだ。聞けばアルヒ様はリゥガ様と早朝隠し宮にむかったというじゃないか。いそぎ追ってきたのだが…リゥガ様はどうされた?」
はっとしたようにセラタがここまでに至る経緯を伝える。その言を顔色も変えずに聞き入れたシーヤは、セラタが報告を終えるのを待って口を開いた。
「それはいそいで救援を送ったほうがいい。フエゴがじきに隠し宮へ到着する手はずになっている。セラタは隠し宮へ向かってくれ。アルヒ様は、私がお連れする」
はい、と歯切れのよい返事をし、アルヒにかんたんな別れの礼をすると、セラタはシーヤの通ってきた道なき道へと姿を消した。彼らにはきっと、なにかわかるような目印でもあるのだろう。
最後に目があったときのセラタは先ほどまでの不安に沈んだ表情がうってかわり、ほおに血の気がさしているようだった。
「それでは参りましょうか。ここから宮まではそう遠くはありません」
ああ、とうなづきかけて、アルヒは違和感をおぼえた。
いぶかしげな視線をシーヤに向ける。その視線はシーヤにかんたんには絡まず、ふわりと宙を泳いだように思えた。
踏み出した足で、地面を掻く。
「アルヒ様?」
「宮に向かうと…そういうことか」
「ええ。口寄士様がいそぎアルヒ様を…」
「襲撃者と対峙したリゥガは、宮には戻るなと言っていた」
シーヤが開きかけた口を真一文字にむすぶ。表情にはまったくの動揺がみられなかった。
「シーヤ、らしくないな。責任感が強く、真面目を絵に描いたようなお前が音沙汰もなく姿を消したり、かといえば襲撃者がどこにひそんでいるかもわからないような場所にセラタを向かわせるなんて。…アイレのことがよほど痛手だったはずのお前にしては、まったくためらいがなかった」
「アルヒ様が言うほど、私は過保護ではないんですよ。それに襲撃者は…」
「今の話を聞いてお前にならわかるはずだろう。あれは陽動だ。仲間たちが近くにひかえていてもおかしくない。それに、フエゴが向かっていると言ったな」
「ええ…」
「フエゴは現在、宮の第三近衛兵団の部隊のひとつに加わり各地を巡っている。国境に襲撃事件があったばかりだ、フエゴの所属する部隊ならばただちに哨戒へ回されるはずだろう。その部隊がここまで都合よく駆けつけるなんて…まるで、隠し宮に襲撃者があることを知っていたみたいじゃないか」
シーヤのひとみが揺れ、わずかなため息をもらした。
「シーヤ、本当のことを言ってくれ。セラタは、お前が」
「そうでした。アイレ様は昔から慎重で用心深くおられた」
あきらめとも決意ともとれる表情をみせたシーヤは、アルヒも予想をしていなかったすばやい動きで大きく踏み出した。アルヒがとっさに反応するよりもはやく、シーヤの手刀は正確にアルヒの首うしろを打つ。
そのまま、アルヒの意識はつめたい土へと沈んでいった。