二. 相まみえる
思えばこの数日、ずいぶんといろいろな野山を歩いたものだ。ならされた街道もけもの道も歩いたが、似通った山道はひとつとしてなかった。
季節は新緑、木々は長い冬を終えてようやく暖気に命を輝かせるころだ。
となれば、峠に立ち揃う木々もおのれが生まれもった葉の衣をここぞとひけらかし、おのおのがおのおののうつくしさを競う。穀雨の綺羅もそれに彩りを添えるようだった。
どの緑もうつくしかったが、アルヒにとってはやはり宮を覆う緑のうつくしさは格別だった。それは、きっとアルヒがこの場所で育ったからという贔屓目もあるだろう。
アルヒは数日をかけて宮に戻ってきていた。エカサ正教の総本山、神ノ宮へ。
丘の上からもその荘厳なる朱塗りの建物は見て取れる。ただ、人足のたえなかったその聖地は現在人払いがされており、がらんとしている。
あたたかい命の守り場とされた場所は冷え冷えとした殺風景となり、さながら不吉の知らせを身の内にはらんでいるようだった。
アルヒは背後に付き従うセラタに振り向く。セラタはすべてをわかったようにうなづくだけだった。
昨晩、セラタはアルヒに最後の申し出をした。
それは、いつかにセラタがした提案によく似た「このまま逃げてしまわないか」という提案だった。
「義理やけじめなんて、死んでしまってはなんの役にも立たない。私は…アルヒ様を宮主に立てようなんて頭は端からない。
ただ、アルヒ様のお側にお仕えしたいだけです。
…これは、私のわがままでもあるのです。アルヒ様は私のわがままに振り回されるだけでいいのです。逃げてしまいましょう」
寝しなにアルヒの前にひざまずいたセラタは一気に言った。
それをぼんやりと聞きながら、これは自分がテロスにした提案なのだということに気がついた。
逃げる、という考えはいつでもそばにあった。あの日セラタが提示してくれたときから、いつでもあったからこそ逆に向かい合う勇気が生まれたのかもしれない。
「俺は…斎王の話も、無関心ではいられないんだ」
「あのような…」
「自分ができることをやってみたいんだ。子どものように守られるだけでは、事態がこじれるだけだ。
俺はこれまでずっと、隠されて、ごまかされて、だまされてきたんだから。もうそういうのはたくさんなんだ」
セラタのひとみが揺れる。
「私に守られるのが嫌だというのですか」
それはもれだしたむき出しの声だ。
アルヒと二人のときにしか聞けない声だと思ったとき、目の前の少女にたいして湧いた情は親愛よりもなお深いものだった。
「アルヒ様、私がなぜ男性のすがたも取らねばならないと思いますか。
もちろん、アルヒ様の影武者という本来の役目もあります。でもそれは本来アルヒ様のいない場所で行われるべき手習いで…私の場合は特別なんです。
アルヒ様が宮主とならない場合には、私は影君と娶されるのです。それが私にとってどれほど残酷なことなのか、アルヒ様はおわかりになられない」
アルヒはやや面食らったようにセラタを眺めていたが、ぽつりとつぶやいた。
「セラタは、影武者に向いてないな」
「何を言ってるんです」
「俺もたぶん、エカサ正教の最高指導者なんて向いてない。だから、セラタとは合うんだな」
セラタが大きくまばたきをする。そして、唐突に吹き出した。
「本当にそう。落ちこぼれだったから、怒られてばかりだった」
「きっと生き残ったって見限られるさ。そうだ、生き残ったらノーシの生まれた国を見に行こう。ノーシもきっと目を醒ます。きっと得意で祖国を道案内してくれるだろう」
アルヒは楽しい提案をしたつもりだったが、セラタはやや表情を曇らせた。
「アルヒ様は、あの異国人のことが相当気に入っていらっしゃるんですね」
「世話になったわけだし…セラタはノーシのことが好きじゃないのか?アイレだってずいぶん仲良くなったようだけど」
「そんなことはありません」
ただ、と言葉を濁してセラタは口を尖らせる。
上目づかいでセラタはアルヒの言葉を待っているようだったが、アルヒの目が宙を泳いでばかりなのにあきあきしたのか、話はそこでおわってしまった。
それから二、三翌日の話をして二人は寝具に包まりおのおのの眠りについた。
睡魔のおとないを待つ間、アルヒはセラタが言いたかったであろうことを思い当たり、耳まで赤くなるのだった。
まるで一日出かけて戻ってきたかのように、宮に到着したアルヒはごく普通に迎えられた。
いつものように湯殿に通されて汚れを落とし、召し替えをされるのをアルヒはただされるがままに受けていた。側付きの者はアルヒの長きにわたる不在どころか、父の死去の話ですら口にのぼらせない。
このまま夕餉をむかえ、寝所に入り何ごともなく今日という日を終えてもおかしくないような自然な流れにアルヒ自身も惑わされかけたが、召し替えを済ましたのちに大広間へ呼び出されたことによって現実に戻された。
案内の巫女の後をついて渡殿をすべり歩く途中に、同じく旅の汚れを落としたであろうセラタと合流を果たす。
セラタはアルヒに似せた黒い髪に黒いひとみをした少女のすがたになっていた。
宮に到着してすぐ、セラタは口寄士の呼び出しを受けていた。彼女が儀式に同席するのは当然であると思えたが、どことなくそれに不穏なものを感じる。
セラタは目礼するばかりで、アルヒと言葉は交さなかった。
大広間に向かう途中、すれちがう巫女や神官はみな絵の住人のように物静かなすまし顔で平伏してアルヒに道を作っていた。
そこに何の感情も読み取れないぶん、なおのこと後ろにつき従ったセラタが強い意志をもってついてくることを感じる。それだけで、今は充分だった。
やがてたどり着いた大広間のふすまが巫女たちによって開け放たれる。
余分な調度品のない殺風景とも言える広間に、すでにテロスは到着していた。
「遅かったな」
吐き捨てるような親しみのかけらもない言い方で口火を切ったのは後ろにひかえたルサだった。
それに気を悪くした様子もなくアルヒは微笑を浮かべる。
「ふたりとも、無事でよかった」
テロスはそれにうなづいたが、ルサは目をそらした。
「テロス、ひとつだけ…儀式の前に聞きたいことがある」
「聞きたいこと…?」
「なぜ、アイレを助けてくれたんだ」
テロスは答えに窮したようにまじろぎ、視線を斜め下に落とす。まるでいけないことを咎められた子どものようでもあり、それを恥じて告解をためらうようでもあった。
からめた指を強く結び、決心したように口を開く。
「…あれが、欲しかったからだ」
「あれ…?」
「私のために、泣く人が」
その意味がのみこめずにアルヒが硬直していると、テロスはため息をついた。
「それに…死に通じる力があるのなら…それを止める力もあるのではないかと思った。けれど、紡ぐことはできなかった。私の力の不足は、シーヤの命で補った」
「それは…どういう」
「反魂の術。それも知らされていないのか。
…人間の命をひとつからふたつにするのに、もうひとつの命を無から紡ぎ出すことなどできはしない。そんなことができるのは、ご初代とその血を継ぐ子、孫くらいなものだろう。
四代五代では…せいぜいが、他人の体をほぐしてそこから小分けにしたものを他人へ移すことくらいなんだ」
今さらなにを言われても動揺はすまいと思っていたが、それでもぞっとする話だった。
「それでは…アイレはあのとき」
「すでに命を失っていた。だから、シーヤのもっていた命をひとつ、アイレにうつしたんだ。それも私の未熟な術でしたことだ、シーヤの負担は大きいだろう。…それでも、シーヤは私の味方をしてくれた」
テロスが目を伏せる。
それが正しいことであるのか、アルヒには判断しかねることだった。ただわかることは、アルヒも同じ場面に出会ったのなら同じようにしただろうということだけだ。
二人の間に流れた重苦しい空気を引き裂くように、澄んだ鈴の音がおとないを告げて鳴り響いた。
アルヒとテロス、その二人に付き従うセラタとルサも、はっと顔をあげる。アルヒたちが大広間へ通されたときに開けられたふすまではない、もうひとつの金箔で飾られた大ふすまから聞こえたその鈴の音は、本来宮主の御成を知らせるものだ。
セラタとルサはさっと床に伏せる。アルヒとテロスも向き直り、膝をついた。
ふすまが外側からするすると開けられる。
そこに立っていたのは、アルヒの見知った人物だった。




