一. 流れを視る力
「…ノーシ?」
アルヒのその呼びかけた声は鼻にかかったかすれ声になった。
よろめくようにして、アルヒはノーシへと駆け寄る。ノーシはうつぶせに倒れたまま、それに返事もしない。
背中に突き立った矢がその理由を雄弁に語っていた。そこから流れる血の色にアルヒは度を失う。
そっと、アルヒはノーシの体を起こした。深くその身をえぐる矢を抜いてやらなくてはと手をかけて、ためらった。
これほどにも深く傷つけられながらこの程度の出血で済んでいるのは、皮肉にも矢が大量出血を防いでいるからにほかならない。
「アルヒ様」
うろたえるアルヒの背後から、セラタの落ち着ききった声が落とされる。
「無理です」
がばとセラタへ振り向いたアルヒは、セラタの落ち着きから何かを見出そうとした。
そんなはずはない。きっと、なにか方法があるはずだ。ノーシを救うことができる方法が。
もしもセラタが無表情であったなら、それが探れると思った。セラタはアルヒの無事を最優先とする。ならば優先順位を下げることによってノーシを救う余地を見い出すことができるなら、と思った。
果たして、セラタの表情にあったのはあわれみだった。悲しい出来事を聞いた人が真っ先に浮かべるような一枚向こうから透かし見るようなあわれみの色に、アルヒはとうとう悟ってしまう。
これはもう、「起きてしまったあとの悲しい出来事」なのだと。
(ラミが…ラミが、言っていた)
アルヒの腕に全体重をのせたノーシは、小柄だということを差し引いたとしてもどこか小さくなってしまったように感じた。
かぼそくなる心音と呼吸を探ろうとすればするほど、その体が薄く小さく縮んでいくように錯覚する。
―それは、彼がこの国で得た知識を他国で有用にすることなく尽きてしまうと占うらに出たからですよ
「冗談だろ」
耳もとでラミにささやかれたような気がして、アルヒはかぶりを振った。
―われわれが手を下すのではありません。さだめが、彼を殺します
「ちがう…そうじゃない、そうじゃないだろう…ノーシが言っていたのは」
自分はそのさだめの上を行ったんだと自負しています。その言葉を思い出した瞬間に、嗚咽があふれた。
涙も流れていないのに嗚咽が止まらなくて、そうしているうちに自分の両目から涙がこぼれていたことに気がついた。
父親が死んでも涙も流れなかったのに、こうして出会って数日の他人のために泣いているのが不思議でもあった。そんな考えはひとときのもので、それを飲み込むより大きな感情がアルヒを覆う。
いやだ。こんなのは、絶対にいやだ。
信じたくない、という気持ちがなによりも強かった。信じた瞬間にそれが本当になってしまう気がして、アルヒはひたすらにかぶりを振った。
本当というのは、いったい何のことなのか。ノーシが死に瀕していること、それに自分が気づかなかったこと、ノーシをこんな運命に巻き込んだこと、…自分が、何もできないこと。
何もできないのか。自分は。…本当に?
アルヒの目になにかが灯る。
何もしなければ、ノーシは死んでしまう。では、何かをしたとしたら?
アルヒはほとんど無意識に、ノーシの体をゆっくりとうつぶせに地面に寝かした。そして、深呼吸をする。
見える世界が一変した。そして、悟る。ノーシはまだ生きている。
「…アルヒ様?」
「セラタ、ノーシを抑えててくれないか」
アルヒの涙はいつの間にかすっかり涸れていた。
「矢を、抜こう」
生ぬるい水の中に手を入れているようだった。水は一定の律動を刻み、それがアルヒの呼吸、心音とひとつになる。
指先から感じるあたたかさに包まれて体は火照っていたが、アルヒの頭のなかは真冬の晴天よりもなお冴えきっていた。
それはさながら、言葉をつなぐようでもあった。単語と単語を接続詞でつなぐように、あるいは単語に装飾語をつけて活かすように、アルヒは糸と糸を結んでいった。
すべてはたえず巡っている。天から落ちた水が川となり海となって、やがて雲になって天に還るように、ノーシの体にも巡りがある。
流れを見る。流れは糸の上を走る。おのずと、流れがどこをめざしているのかがわかる。そのめざす先を、結ぶのだ。
巡る流れを作る。その流れの中を巡り泳ぐのは、ノーシ自身だ。
大丈夫だ。アルヒは息をつきながら思う。
ノーシは、流れに乗ろうともがいている。生きようとしている。
自分にできることは、流れを作り直すことだけ…だけど、ノーシは苦しみながら戻ってこようとしている。
きっとこの細路をノーシは戻ってくる…。
開け放された縁側に、小枝のような足で小鳥がはねる音がする。しきりにさえずり鳴いているが、畳の間に人が寝かされているのに気がつくとバタバタと派手な羽音をたてて逃げていった。
どうも寝心地がよくない、というのが起きしなの感情だった。
見れば、布団から出ていた手が触れるこも畳は安宿のそれとはくらべものにならない代物だったし、障子の格子まできれいにほこりが拭われているのだから、ここは上等の部屋だといえるだろう。
そんな上等な部屋にひとり、気がつけば寝かされていた。
ひどく寝苦しかった。汗をかいたのか衣服はじっとりと濡れているし、背中がひどく痛む。それに、ひどく疲れていた。
疲れているというのは正しくない。正確にするのなら、体の芯から活力というものが失われているといったところか。
昨晩はどんな風にして眠りについたのだろう、とぼんやり考える。
空はずいぶんと明るいようだし小鳥もさえずっているようだから、おそらく今は昼をまわったころだろう。そんな時間まで寝ても疲れが取れていないとは、ここ最近の無茶がたたったのだろう。
ここ最近?ここ最近、なにがあったのだろう。意識が混濁してはっきりと思い出せない。
ここが祖国ではないことはわかる。海を隔てた別の国、そう、エカサ国だ。
そこで自分は出会ったはずだ…少年らしい芯の細さにあまりにも過酷な運命を背負った…それでも自分の足で立って、自分の頭で考えようともがく少年に。
その少年は…どうなった?
胸の中がざわついた。汗ではりついた髪をかきあげようとして、それをするのも億劫なほど腕に力が入らないことに気がついた。
どうして自分はここで横になっているのだろう。そうだ、たしか…休むと言った。後から追うからここで休ませてくれ、と。そのまま眠りつづけていた?
徐々に混乱しはじめたそのとき、すぐそばでバシャンとなにかが床を叩く音がした。そちらにそろそろと目を向ける。
見れば少女がそこに立ちつくしていた。明るい栗色の髪に、淡い色の衣がよく似合う白い肌をした少女だ。
床に落とした木桶からこぼれた水に足もとを濡らしながら大きな紫のひとみをなお大きく見開き、こちらを信じられないように身おろしている。
「アイレ…さん?」
口もとが自然に動いて、少女の名前を読んだ。それをきっかけに、彼女はうごいた。
「ノーシさんッ!」
鈴を転がすような愛らしい声を割れさせながらアイレは横たわる人物になかば這うようにして駆け寄り、顔をのぞきこむ。
横たわる人物―ノーシの顔色は悪く、その平時であればよく動くくちびるはひび割れていたが、ひとみにはたしかに命の動きがあり、意思があった。それが信じられなくて、アイレは大粒の涙を必死に拭いながら何度も何度も確認をする。
頬に触れると、ちゃんとあたたかった。少しこけてしまったようだが、そこに横たわってこちらを見ている体は間違いなくあのおそろしい斎王殿を渡り歩いたときに借りた体だった。
「本当によかった…」
「なんだか、自分がよくわからないうちに…アイレさんを射止めていた様子ですね」
「馬鹿言わないでください。どれだけアイレが心配したと思っているんですか」
「アルヒさんは…アルヒさんは、どうしたんですか」
その名前を口にすることによって、唐突にしてくっきりとノーシの中にすべての記憶がよみがえった。
彼はどうなったのだろう。
自分がどういうことか一命をとりとめたことははっきりとわかった。意識が落ちていくさなかに、アルヒの声を聞いた記憶がある。
あのとき何を言っていたのか。それがどうしても思い出せなかった。
アイレはアルヒの名を聞いて顔色を変える。
「…ノーシさんは、ずっと眠りについていたんです」
言葉をさぐるように、アイレがくちびるをしめす。そして居住まいを正すと、アイレは言葉をつづけた。
「アルヒ様は…あのあと、アルヒ様がどうされたのか…アイレの口からお話します」




