六. アルヒと斎王(1)
リズル、というこの女神官のことを、アルヒはあまり知らなかった。
絲の一族としてその術の力をただしく受け継いて使いこなせるものは、実は四、五十人ほどはいる。
そのなかですでに実戦からは遠のいたもの、さほど強力とはいいがたい能力の者もいて、次期当主とはいえそのすべての人間を把握するのは困難な状況にあった。
絲の一族のなかでもメント家のように対人戦に特化した者たちは近衛兵として取り立てられ、そうでない者たちは神官として、各地の祀り宮で守りにつくのが通例だ。
リズルはいわば、後者に属する神官であった。
彼女と出会ったのは隠し宮でが最初のはずだ。彼女は「場を支配する」という術に長けて、その能力でもって守りにあたっていた。
はじめて会ったときはあまり印象に登らなかった女性だったが、今は彼女のことが気になって仕方がなかった。なぜか、彼女に別の場所で会っていたような気がする…?
アルヒは座敷牢に連れ込まれたときと同じように、被衣をかぶせられた上で歩かされていた。
となりを歩くテロスはなにもかぶせられていない状態で、アルヒがぶつかったりつまづいたりしないように導いてくれている。
先導するリズル、付き添うテロスにとっては慣れた道だったのかもしれないが、アルヒはあくまでこの場所では部外者、本来ここにいるべきではない人間だということだろう。
テロスはおし黙り、わずかにも口を聞くそぶりは見せなかった。だがその手がわずかにふるえていることを、触れられるたびにアルヒは敏感に察知していた。
斎王とはいったい、どんな人物なのだろうか。テロスは斎王をひどくおそれているように思える。
王族からひとり選ばれて、巫女たちの長となり巫女の庄を治める女性―斎王というものは、王族がエカサ正教に差し出したいけにえとも、エカサ正教と国長の権力の妥協点とも言われる。
現在の斎王は現国長の長女であり、エシャという名の女性だ。
才女ともうわさされるが、その切れすぎる頭脳がうとまれて出家させられたとのうわさも聞いたことがある。
清浄たる宮にも口さがない人間はいるもので、王家と正教の橋渡し役の女性ということでなおさら好奇の目にさらされた結果とも言えるが、アルヒは斎王についてなにかとうわさを耳にしていた。
裏返してみれば、彼女にはそうやって人びとが口に上らせたくなるような魅力があるとも言える。
そしてその斎王が、いったいどのようなもくろみの上で自分とテロスのふたりと話をしたいと申し出ているのだろうか。
(算段があるのだろう…それがどれほどのものなのか、見極めなくては)
目隠しをされた状態で知らない道を歩かせられる不安を忘れるために考えにふければ、そこにはより深く穿たれた闇があったことに気が付かされる思いで、アルヒは粛々と歩みを進めるのだった。
気がつけば、足の下は柔らかさをともなう土の感触に変わっていた。
甘やかささえ含んだ豊かな土の香り、枝葉をゆらす無数の生き物の気配、かなたから耳朶をくすぐるせせらぎの音。それらを全身に感じながら、アルヒはテロスに連れられてざくざくと斜面を登っていく。
やがてひらけた場所に出たのだろう、突然に被衣のすきまからアルヒに吹き付ける風が開放的なものになった。あたりが明るくなったこともわかる。
そしてその風はかすかに花の香気をはらんでいた。
先導のリズルにうながされ、テロスがアルヒの被衣を引き下ろす。
天上からそそぐ陽射が被衣でつくられた日陰を失った目を焼いてアルヒはひどく顔をしかめたが、たどりついたその場所は刮目するにふさわしいうつくしい場所だった。
山の中腹を切り拓いてつくられたとおぼしきその場所は、季節の花が妍を競う鮮やかな野だ。そしてその中央部にはぽつんと、足もとに磨かれた石を敷き詰めた東屋がたっていた。
そしてその日陰で憩っていた女がひとり、アルヒたちのおとないに反応して腰を上げる。
波打つ長い髪は小麦の色で、とろりと垂れた目尻、ふくよかだがだらしなくは感じさせないやわらかな身体つきは厳格な女主人という言葉よりも異国の絵画で見る大地母神という言葉のほうがしっくりとくる。
彼女がやはり、斎王なのだろうか。
才女、知恵者という冷たさを感じる言葉も彼女のすがたを指差してはどこか上滑りするような気もする。
「猊下」
格式張った声でリズルが女性の前に膝を折る。 「お連れいたしました」
その声に斎王は相好を崩して、鷹揚にうなづいてこたえた。
「よくやってくれました、リズル。そなたは本当に妙々たる子」
上等の衣を懸帯でゆったりと締めて、その懸帯から風に揺れる長い薄衣を垂らした古式巫女装束をふわふわとさせながら歩み寄る斎王の足どりは、あたかも雲を踏むようだった。
その斎王がこちらに足を向けたそのとき、となりに立ったテロスがびくりと肩を震わせるのが目に入る。
いぶかしげにアルヒがテロスへと目を向けかけたそのときだった。
「あらあらどうしたのでしょう、テロスは」
斎王は足を止めて、口もとに手をあてて優雅に笑みかけてみせる。
「浮かない顔をしていること。母にお見せ」
母、と口にしたその言葉をアルヒが吟味する間もなかった。
裳裾を払いながらテロスに駆け寄った斎王は、膨らんだ袖で重たげな腕をひろげ、テロスをふわりと抱きしめた。
「さあさ、憂いがあるのならお言いなさい。どのようにもしてあげますからね」
ぎょっとしたまま、アルヒはその光景を見守っていた。
腕の中のテロスは体をかたくして縮こまっているように見える。
「あ、あの…」
震える声でテロスが口をひらく。 「ご、ごめんなさい…」
それは消え入るような声だった。テロスはひどく怯えているようだ。
「謝るということは、母にだまって勝手をしたことを恥じてくれているのね?うれしいわ。
…いいのです、テロスはお兄ちゃんに会いたかっただけですものね。あなたはさみしがりやだから…でもね」
テロスから体をはなした斎王が首をかしげる。くちびるは笑みに満ちて、眉も優しげに下がっているが、その深い色合いのひとみはどこか冷ややかだった。
「母は悲しんでいるのですよ。テロスが聞き分けのない子だから」
テロスが青ざめているのは明白だった。
理由はわからないが、アルヒもなぜか彼女にたいして底知れない恐ろしさを感じていた。
斎王の声色はどこまでも甘やかで蜜を垂らすようなのに、白骨の手で背中をさすられるような底気味悪さをおぼえる。
「あなたはわたくしを母として生きなくてはならないのですよ。あなたは物知らずだもの、甘言に踊らされてその力を利用されるのがいいところでしょう。すべて母の言うとおりにしていれば、あなたは平穏に生きていけるのです」
「あなたは、いったい何者です」
ほとんど衝動的にアルヒは口を開いていた。
弾かれるようにテロスはアルヒを向いたが、斎王はゆっくりとアルヒへ目を向ける。
「あなたね、テロスの兄…イツクシミヤ家の長子、あわれな孤児のアルヒ。…よいのですよ、あなたもわたくしの胸で憩う権利があります」
そう言って、斎王はアルヒへと向いた。
対峙してはじめて、アルヒはおのれの見込み違いを悟った。
威圧感がないなど、とんでもない…彼女の纏う気は、威圧などという類のものではない。包みこんで呑みこむ類のものだ。
つぼの形状の食虫植物が甘い香りで獲物を誘うよりもなお深く、彼女は相対した人間を呑み込もうとする…。
「わたくしはエカサ国すべての子どもたちの母。あなたたちが異形の肚から生まれた子どもであっても、慈しむことができます」




