一. 不穏なる朝
あとから思い返してみても、やはりその朝は変わった朝だった。
いつものつとめを取りやめ、今日は火急でお伝えしなくてはならないことがあると告げられたときに浮かんだ感情は、退屈な日常に風穴があいたことの爽快感よりも理由のわからない胸騒ぎだった。
この場では伝えられないと言葉を濁されたことが余計にその色を強くする。とはいえ、心が弾まないといえば嘘になる。
非日常をいとわしく思うには少年はまだみずみずしく、若さをもてあましていた。
まるで草花が風に種を運ばれ大地にめぶくような自然さで、しげみをかきわけた先には道と呼べるものが存在していた。
数百年も昔より、一部のこころえある者たちによって踏みならされできた草の道を、ものめずらしそうに真新しい純白の衣を身にまとった少年が足を踏みいれる。
少年を見守るように道ばたへ身をよせあった木々が、早朝の澄んだ冷気をおびた風に葉をゆらされ、ざわざわと音をたてた。
「アルヒ様、おいそぎください」
若木から高い声をあげて飛びたった山鳥に心をうばわれかけたアルヒと呼ばれた少年は、先導する大柄の神官からの咎めの声にかたちよい眉をちょっと上げる。わかったわかったと軽い調子でアルヒはこたえ、先導者ののぞむように、その足を早めることにした。
この初老の神官は大男とも形容できる体躯に似合わず、なかなか神経がこまかくせっかちの面もあるが、それをさしひいたとしても今朝のふるまいにはどこかおかしいものがあった。
「リゥガ、火急の用とは何だ?」
「それは隠し宮にて」
すげない返事にアルヒは唇をとがらせる。そういった表情をみせると幼さがかいま見えるアルヒは、それでも年明けには元服の儀をひかえる年齢であった。胸元までの黒髪をうず高く結い上げ、みじかく切りこんだ前髪の下で、健康的な小麦色のひたいと生き生きとした黒いひとみが、おさえきれないほどの生気をきらめかせている。
「アルヒ様」
リゥガがどこか浮かないような声でアルヒに話しかける。
「なんだ、リゥガ」
「隠し宮でのお話を、心してお聞きくださいますよう」
「それなりの話なら、それなりの心の準備もいるというものだろう。聞かせてくれないか、いったい内々の話とはどのようなものなんだ」
リゥガはしばし、思い悩んだようだった。根気よくアルヒはそのかたくむすばれた口がひらくのを待つ。
短く生えた草を踏みならす音だけが二人のあいだに流れ、アルヒが道ばたで風にゆれるいじらしい花にそれとなく目を向けたそのとき、ようやく初老の神官の心がうごいた。
「シーヤ殿が、行方をくらませたのです。」
「シーヤ…メント・シーヤ、が?」
アルヒの脳裏に浮かぶ深い知性をやどした瞳の青年の名前に、リゥガは重々しくうなづいた。
エカサ国は絲の神を祀る。その信仰の中心には絲の一族と呼ばれる者たちがいた。
自然のあらゆる事象を絹糸のごとくつむぎあげ、織りなすことによって奇跡をおこす、絲の神の血をひくとされる神秘の種姓。その絲の一族の嫡流とされるイツクシミヤ家こそ、代々エカサ国正教の法王をもつとめる、エカサ国の生き神であった。
アルヒはイツクシミヤ家現当主の長子にして次期当主。そして、ゆくゆくはそのアルヒの側近となるよう幼いころより引き会わされていたのがメント家の次期当主、メント・シーヤだった。
メント家は絲の一族のなかでも武に長け、エカサ正教近衛兵団の基礎をつくったとされる名門である。
その格調高い一族の看板を肩に負い、ほおの線が丸みをおびていた時分からおかたく真面目一徹だったシーヤだが、思いやりがあり情にあついこともアルヒはよく知っていた。そしてその思慮深さから、アルヒにとって兄のような存在だったシーヤ。
そのシーヤが、行方をくらませたという。
「先般の、西方の庄で起きた襲撃事件についてはどれほどを存じていますかな」
「あ、ああ…国境近い庄が何者かにおそわれた、と」
アルヒの深い動揺を察してか、しばしなやむように口ごもったリゥガは、意を決したように話し始めた。
「かの地には、この国有数の祀り宮があります。シーヤ殿は、その時分は妹御のアイレ殿とともに、その宮へ滞在しておられた」
シーヤには下にきょうだいが3人いる。アイレは末の妹で術の才にもめぐまれ、十二という年若さで兄を助け、任につくことも少なくない。
「しかしその襲撃事件は、常駐の神官兵や巡回の兵団によりうまくしりぞけられた、と聞いていたが…」
「そのとおりです。祀り宮はもちろんのこと、近隣民家の損害はたいしたものではありません。宮の司、禰宜らも早々に難をのがれ無事でした。ですが、神官兵のなかには死傷者も出ましたし、アイレ殿もひどいけがを負ったそうです」
「アイレが…?」
「一命はとりとめたそうです。一時はどうなるかと思われましたが、心配したよりもずっと回復ははやいと聞き及んでおります」
「それはよかった。しかし、シーヤが行方不明というのは」
ふいにリゥガが足をとめる。つられて歩をとめたアルヒは、リゥガの肩向こうに古めかしい拝殿を見た。
大樹により添うようにしてつくられたその場所はツタにその身を這いまわられ、のび放題の雑草をあしもとに飾り、とても整えられている様子ではなかったが、無骨と称するにはあまりにそぼくな木造りは深い森の景観によくよくとけこんでいた。
ぐうぜんにもこの隠し宮に迷い込んだ者がいたとしても、この無人の拝殿のいでたちに満足して通りすぎてしまうだろう。
しかし拝殿はあくまで目くらましにすぎなかった。
初老の神官はこなれた様子で拝殿にあがると、ご神体にあたる糸玉へそなえつけられた球体の鳴らし木を独特の調子をつけて小突く。
「お連れした、中にいれてくれ」
おごそかな声で鳴らし木にささやくと、拝殿の裏手からだろう、引き戸を引く音と茂みをならす音が聞こえた。
程なくして大樹のかげから神官がひとり、姿をあらわれる。
年若く、清浄さで洗いきよめたような姿勢のよい娘だった。おおよそ穢れと縁のなさそうなかたちよいくちびるで微笑み、深く頭をさげる。
「お待ちしておりました、若君。そして宮のかた。セラタ様がすでに到着しておいでです」
きゅうくつな隠し戸を、体の大きなリゥガは不自由することなく通りぬけた。アルヒが体をねじこみ、最後に出迎えの娘が入りこんで戸を閉じ、なにかを口もとで唱える。
娘とはそこで別れ、アルヒはリゥガのあとへつづいた。古くはあるが、よくはき清められている場所だ。とはいえ、石造りの道は日光とは縁遠いとみえて、じくじくとしめっぽい空気にみちていた。
つきあたりの部屋の戸を引くと、そこには隠し宮の本殿がある。その場所はアルヒが頭にえがいていたよりも広く、お神楽のひとつでも執り行えそうなほどだ。
部屋の奥、もっとも漏れいる日当たりにめぐまれた場所には御神体となる純白の絹糸がしつらえられ、神酒のそそがれた玻璃のさかづきがささげられている。それらをいだく簡易の祭壇に、少女がひとり祈りをささげていた。
アルヒの訪れに気がついた少女はこちらをふりむき、膝を折る。
その少女は、会うたびに顔のちがう少女だった。それは比喩などではなく、目の色や唇にりんかく、髪質背格好に、はては性別ですら会うたびに変わる。決まった姿かたちをもたないことが彼女の当為であり、それをなすための修練でもあった。
ただ、幼いころから彼女をよく知るアルヒは、彼女をなんとなく『少女である』と認識している。
「メント・セラタ」
らしくもなくかしこまって目を伏せた少女は、リゥガの言葉に顔をあげた。
セラタは行方をくらませたシーヤの妹。その自在に姿かたちを変えることのできる術の才をみとめられ、アルヒの影武者もつとめるその少女のことを、アルヒはよく知っていた。
「今日ここに来てもらったのは…」
「アイレは、もう大丈夫なのか?」
思わずリゥガをさえぎってたずねたアルヒの言葉に、セラタは冷水を浴びたように目を見開いた。
枯れ葉色の編み込んだ豊かな髪に、薄紫のひとみ。いつもはいたずらっぽく細められるひとみは髪と同じ色をしたまつげに伏せられ、彼女に忠臣としてのふるまいを示した。
「はい。お気遣いたまわりまして、ありがたく存じます…」
その受け答えは、セラタらしかぬ硬質のひびきをもったものだった。
セラタはメント家の第三子、アルヒとは同年だ。
優秀な影武者となるよう、セラタとはシーヤと同じように長い時間をともに過ごした。
セラタは自由なもののとらえかたをする子どもだった。アルヒを神秘の法王家長子として畏怖することもなく、近しいものとしていつでも接してくれる。
身分をこえてアルヒと関わることをとがめる者は少なくなかったが、アルヒはセラタのそういった性質を好ましく思っていた。
そのセラタが今、アルヒの麾下の者として折り目正しくふるまおうとしている。まるで忠実な従者の面のその下に抑えきれないおびえを押し隠すような態度に、アルヒは不安に胃の中をなめられるような感触をおぼえる。
「セラタ。シーヤ…メント・シーヤのことを、聞かせてくれないか」
「はい」
乾いたくちびるを湿らせながら、セラタは震える声をしぼりだす。
「あの日のことは、私自身あとから聞いたものごとなので、くわしくはありません。ただ、兄…シーヤ兄さんが、襲撃者の中に見知った者がいたと言ってひとり深追いをしたのです。あるいは、それもわなだったのかもしれません。シーヤ兄さんらしくもない」
アルヒがそれに深くうなづくと、セラタはわずかにほほえんだ。
「同じ違和感を、アイレも感じたのでしょう。アイレはすぐにシーヤ兄さんを追った。そして、襲撃者と対峙する兄さんの前にあらわれたアイレは、とっさにシーヤ兄さんをかばって…。
ひどい傷でした。兄さんが負傷したアイレをつれこんだときには、もう手遅れではないかと多くの者が思ったそうです。いそぎ、メント家の者が集められたその時も…アイレと別れをさせるためだと、だれもが思ったはずです。けれど兄さんは、シーヤ兄さんはアイレは大丈夫だと聞かなかった。そして、アイレは兄さんの言うとおり、一命をとりとめた。
そのアイレを見届けて、シーヤ兄さんは姿を消しました」
「姿を消してからどれくらいになる?」
「夜が、5回あけました。そのあいだ、兄さんからいっさいの音沙汰はありません」
シーヤは責任感のある性格だ。生真面目を地でいくような男で少々おもしろみに欠けるのが欠点とも言えた。
たしかに、こたびの件はシーヤの軽はずみな行動が招いたことなのかもしれない。それによって妹が負傷をする事態におちいった、そのことについて落ち込む気持ちはもちろんうかがい知れる。
だからといって、あのシーヤがこんな風に消息を絶つことがあるのだろうか。
そして何より、話をするセラタの様子が尋常ではなかった。シーヤが5日ほど連絡を絶ったという話をする、その割には妙にうろたえている。
「…シーヤ兄さんは…」
アルヒが待っていると、セラタはなやみなやみに口を動かす。うながすようにアルヒがうなづけば、気持ちをかためるようにセラタは一度口もとをひきしめる。そして、意外にもきっぱりとした口調で口を開いた。
「私は、姿を消す直前のシーヤ兄さんの会ったんです」
「メント・シーヤなら、ボクも会ったよ」
突如背後から発されたその声に、はっとしてアルヒはすばやくふりむく。
セラタはそれよりも機敏な動きでアルヒを背にかばい、懐刀を抜きさらした。