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紡ぎ人アルヒ  作者: 大森亜澄
第三章 御子にまつわるもの
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六. 夜の化生に身をあずけ

 ルサがしずかに寝息をたてはじめるのを聞いて、アルヒはゆっくりと起き上がった。あまり物音をたてないように横穴を出ると、川にむかって歩きはじめる。


 ルサのけがは熱を出すかもしれないと思ったからだった。水筒のたぐいはもっていないので、またアルヒは自分の衣服をやぶいて水にひたして帰ってこようと思っていた。何ももたずに馬車を飛び出したことを悔いたくもなったが、しかたがない。


 歩きながら、アルヒは夢のなかでラミとした話を思い出していた。生き物を構成する編み目を目に見ることができる能力…そして、その編み目に手を加えることができる能力のことを。


(もしかしたら、この力を使えばルサのけがを治すこともできるのかもしれない)


 ためしてみる余地はあるのか考えてみたが、生物の体の構成に手を加えるその感触を想像するだけでぞっとするものがある。思いつきでためしてみるには、人体に手を出すことは懸けが大きすぎる。


(…それでも…)


 いつか、この力を使わないといけない。そういったのっぴきならない事態は、必ず起こるのだろう。



 ルサは案の定熱を出し、ずいぶんとうなされた。


 川への距離を何往復もし、汗をぬぐってあて布を洗って交換してをくりかえしたアルヒはへとへとになってしまった。だから、ルサが熱に浮かされたまま起き上がりそうになりその手をとってなだめ落ち着かせたときに一瞬、気が抜けたアルヒは意識をうしなって眠りに落ちてしまった。


 そのときに、刺すような感触でアルヒに流れ込んできたものがあった。


 ―たすけて!―


 頭皮がざわざわするような感覚をもってアルヒは覚醒した。思わずあたりを見回すが、ルサと自分以外の気配はない。


「…たす、けて…」


 それは、ルサのうわごとだった。涙が幾筋もながれて、手をふるわせている。


 アルヒはルサの汗にはりついた前髪をよけてやり、あらわになったひたいに手をあてる。ルサの悪夢が、アルヒの手のひらをつたって流れ込んでくる…。




 そこは、暗闇の森のなかだった。


 現在いる、シク峠の谷底の森ではない。もっと雑然とした人足の感じられない森…衣をふりみだして走るたびに突き出した灌木の小枝がひっかかって、袖や裳裾を痛ませた。


 ゆれる視界でふりむくと、かがり火がいくつも上がっているのが見える。


 あれにつかまってはならない。汗とも涙ともわからないもので眼路をにじませながら、がむしゃらで駆け抜ける。衣の袖がひっかかるのが本当にわずらわしかった。上衣を脱ぐことを考え、すぐにその考えを打ち消した。肌をさらすことはひどくためらわれた。


遠くに逃げなくてはならない。遠く、及ばない場所まで…。


 のどがからからに乾いて、口のなかいっぱいに鉄の味が広がる。肺から軋んだ音がもれる。それでも、足をゆるめることはなかった。


 その足は滝口をめざしていた。朽ちて横倒しになった木をふみつけ、岩をよじ登り、荒々しく落ちる水の音をひたすらにめざす。


 落ちる水といっしょに、身を投げ出すつもりでいた。あれにつかまるのなら身を投げたほうがマシだと思った。


 かすかに聞こえていた滝壺を水がたたく音は、徐々に大きくなる。闇のなかで月明かりをうけてほの明るく光る滝のすがたを胸に、髪をふりたてて走る。長い髪も、本当に邪魔だった。


 岩棚にたどりついた。ここを登れば、滝口はすぐだ。


 岩棚にすがりついてよじ登る。だが汗にぬめり疲れから力が入らない手は、わずかを登ったところですべってしまった。安定を失ってしまって踏ん張りもきかず、そのまま背中から地面に落ちてしまう。全身をはげしく打ち付けて息がつまり、立ちあがることもできずのたうちあえいだ。


 そうしている間にも、足音は…たくさんの足音は、確実にこちらをめざして迫ってくる。


―――もうひとつの場面が浮かんでくる。


 よくはき清められた広間に、男性とふたり。その威厳のある男性は一段高い床がまちを隔ててやや高みから、背を向けて立っている。


「お前は奇跡の子だ」 誇らしげな声で男は言う。 「だから、その血をつながねばなるまい」

「心得ております」


 平坦な声でそれに応じる。男はそれに心を動かした様子もなく続ける。


「そなたのような、生まれついての絲の術に通じる者が生まれることは非常に喜ばしいことだ。

 他の郡の者はわがラツトノ家は他国に通じた蛮夷の民、けがれた者だとさげずむが、我が国の神の血筋ともうたわれる絲の一族の血を引く我々が、そのような者であるものか。

 こうしてお前のような子がうまれたことがなによりの証。そうだとは思わないかね?

 エカサ正教も、我がラツトノ家の血の清浄さについて見直すことだろう」


 苦々しい気持ちがこみあげてくるが、それをできるだけ表に出さぬようにこたえる。


「お言葉ですが、わたくしの力など正統なる絲の一族のかたがなさる神技にくらべれば、こけおどしに過ぎません。この程度のもので宮のかたがたが過去の大罪を免じてくださるなどと…」


「そうだ。お前ひとりの力では御心を動かされないだろう。だが…お前ひとりの力ではなく、そういった力を持つ者が四人も五人も生まれたとなれば、さしもの頭がかたい神官どもも動かざるをえないだろう」


 男がふりむいた。その顔はすばらしい遊びを思いついた子どものような輝かしい笑みにみちている。


「わたくしの婚姻についてでしょうか、父上」

「とんでもない。シエル、お前に祝言は及ばない。お前はこの郡の女神なのだから」


 その意味ははかりかねた。


「セト・ラツトの郡ノ長一族…傍系の者たちのなかにも、絲の術の才を秘めた者は隠されているのだろう。シエル、お前はそのすべての男たちを受け入れるのだ」

「えっ…」


「お前との子だ、きっとお前のように才に恵まれた子が生まれるにちがいない。幸いお前は体も丈夫だしまだ若い。

 シエル、お前は我が一族の屈辱を晴らすために生まれてきた、絲の神のおめぐみの賜物だ。

 とうとく慈悲深いこの郡の女神となるべく生まれたのだ―」


 父の声は遠くなり、かわりにその言葉の意味が近々と感じられ…芋虫を口に含まされるよりも長虫に巻き付かれるよりもなおおぞましい父の意図に、体が底から冷えきっていく。


 人ではないものに、されてしまう! ―――


 自分のわめき声で、森のなかの場面に引き戻される。


 男の数は五人や六人ほどだったが、その倍の人数に思えた。男のなかには父の弟―叔父の顔がある。


 はじめは暴れわめいて噛みつこうとするのを取り押さえることに従事した男たちだったが、服と髪を乱しながら自由を奪われたすがたを見るやそのまなざしに好色が帯びる。それからは、あっという間だった。


 恥辱ではらわたがぶちぎれてしまいそうだった。


 おぞましい無数の手は、よれた衣をはだけさせて、枝で切り傷を作った柔肌を不躾になでて楽しむ。


 忌まわしさから獣のようなわめき声を上げ続けていると、くちびるをふさがれそうになった。近づいてきた叔父の鼻の頭に噛みついてやる。


 こらしめに頬を張られ、口のなかに血の味が広がった。頬の痛みと衝撃は心を急激に萎えさせる。


 もうだめだ、すべてをけがしつくされる…そう覚悟をし、舌を噛んでしまおうとしたそのときだった。


 叔父が突如としてその場にひざをついた。何が起こったのか本人にもとっさにはわからないようだったが、程なくして叔父は足をおさえて苦しみはじめた。尋常ではない苦しみ様で、泡を吹くいきおいだ。


 ついていた男たちは叔父の様子に困惑したようだったが、次には別の男の利き手がだらりと力なく下がり、他の男たちも一様に四肢いずれかの力を失ってもだえはじめた。


 開放されたものの、その異様さに飲まれて立ちつくしてしまう。


 そこに、軽やかに薄衣をひるがえして黒い影が降りたった。黒く長い髪、黒の綺羅衣…そのなかでひときわ映える、青白く細い指先。苦しみ悶える男たちを一瞥してから彼女はおもむろにふりむく。


 月明かりを背にしたその顔は影のなかにあり、よくは見えなかった。ただ、繊細そうな頬のかたちと静かな光をたたえたひとみが化生の妖しさを秘めている。

 少女はうつくしかった。この化生になら命を奪われてもいいと思えるほどに。

 少女がこちらに手をのばしても抵抗をする気にならず、喉元をさらして目を閉じる。少女の冷たい両手の指先が顎下をさわり、耳の下をなでて…後頭部に触れた。


 気がつくと、少女に抱き寄せられていた。


 少女のすがたの化生は、命を欲しがらなかった。少女からは、初夏の山に咲いた野花のような、青くささをともなう甘いかおりがした。紗の帳のような少女の黒い髪が、あらわになった肌をくすぐる。


「こわかっただろう」


 少女の声は震えていた。


「お前は生きていてよかった。本当に…よかった」


 たしかめるように言うのを聞きながら、少女自身が怯えていることに気がついた。


 その背後で、あまりの激痛に男たちが失神をしている。その激痛をもたらしたのが彼女の指先であることは感じられた。そして、彼女がその事実に怯えていることも。


 少女の鼓動を感じる。少女自身も、自分の鼓動を感じているのだろう。まるで互いが生きた人間であることを確認しあう儀式のようだった。


「あなたは、なにも悪いことをしていない」


 口をついて出てきた言葉をもてあましながら、手は自然と少女の髪をなでていた。触れてから土に汚れた手でふれたことを後悔したが、少女はそのまま抱きついていた。


 あたたかい涙が肩口をぬらす。


(この子が人間であることを、自分は知っている。この子も自分を人間だと知っている。だから、この子を守らなくてはいけない)


 焼けつくように思った。


 その頃には、この夜闇と月明かりの隙間から降りたったような少女を化生だと思う気持ちは消え去っていた。かわりに、裸になった胸に身悶えしたいほどの感情がわきあがる。


 これはきっと、滝に落ちるさなかに見たうつくしい夢なのだろう。ラツトノ・シエルの体は滝壺の底で冷たくなっているのだ。


 ここにあるのは、闇夜に見出されたルサのまぼろしなのだ…。




 潮が引いていくようにルサは目をさました。


 まだ熱のこもる体はひどくけだるかったが、意識ははっきりとしていた。ゆっくりと体を起こすと、ひたいに乗っていたぬるい布がぼたりと落ちる。


 焚き火はいつしか熾になってしまい、横穴のなかは薄闇と早朝独特の冴えた空気が支配していた。


 アルヒは昨晩横になった同じ場所でルサに背を向けて横たわっていた。ルサはその背中を見ながら、なれない男の前で正体なく眠ってしまったことについてひそかに恥じた。


 アルヒはといえば、本当はとっくに目をさましていたものの動けずにいた。昨晩ルサの夢を通して見てしまったものを思い起こしては胸を内からかきむしられる想いでいる。しかもそのすべてをルサの目線で疑似体験したのだ。


 何度か疲れからか眠りに落ちかけて、目にした光景を思い出し覚醒することをくりかえした。


「起きているのだろう」


 ルサに声をかけられ、アルヒはびくりと肩をこわばらせた。


 心なしかぎくしゃくしながらアルヒは起き上がり、そっと肩ごしにルサを見る。


「熱は下がったのか」

「まあな。…お前が、看てくれたのだろう。一応礼を言おう」

「気にしなくていい」


 やりにくさを感じ、アルヒは息をついた。なぜか、アルヒのほうがルサと距離を置きたい気分だった。


「ところで…ボクは熱に浮かされて変なことを口走っていなかったか?」


 ぎくりとアルヒが反応したのをルサは見逃さない。


「なんだ。やましいことでもあるのか」

「いや…その、ルサは何度も『助けて』と言っていたから…」

「そうか、なるほどな」


 ルサはどこかすっきりとした顔をしていた。 「やはりテロス様に会ったときの夢を見ていたんだな」


「その…ずいぶんうなされていた様だけど、ルサにとってそれは良い思い出なのか?」


 ルサはまばたきをした。そして口もとにうっすらと笑みをのせる。


 隠し宮で刺客として現れたときの不敵なものとは違う、彼女の内面が透かされたような笑みにアルヒはどきっとする。


「赤ん坊が生まれてくるとき、生死にもかかわる苦しみを味わって泣き叫ぶのだろう。けれど、そのはてに生を勝ちとれば、その日は晴れがましい記念日となる。それと同じだ」


 ルサはそう言うと手を結び、祈りをささげる巫女のような表情になった。


「テロス様の手を感じた」


 昨晩ルサがその夢を見ているときに触れていた手は自分のものだと思ったものの、賢明にもアルヒは口を閉ざすことにした。


「ん…?」


 静かになった洞の外に、だれかの駆ける音が聞こえる。耳をそばだてればわかる、その足音は複数人のものだ。そして、先陣を切る軽やかな四足の爪音…昨日遭遇したツノオオカミを思い出したが、それよりも重厚感には欠ける。


 息をひそめた直後、洞の外で吠え声がした。声が駆け足を呼び寄せる。


「まずいかな…」


 ほとんどひとりごとのようにアルヒは呟く。どうするか考えてみたが、寝不足のぼんやりとした頭にはなにも浮かんではこなかった。


 ノーシの格言を思い出して頭を抱えたくなる。横目でルサを見やったが、彼女とてかぶりを振るばかりだった。


「そこにいるのは誰だ!」


 隠れ家をあばく声が、洞中に響きわたる。


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