一. セラタと影法師
セト・ラツトの郡の玄関口に位置する庄は、その周辺を高木に囲われていた。セト・ラツトが自給自足に活路を見出すにあたり植林した丈高い垣根である。加工に向いたりっぱな幹をもつ庄を守る樹木だったが、その群れ集うすがたは時折、庄に重苦しい影を落とした。
そしてその幹のはるか上方、突き出した太枝に人影がふたつある。
「術がやぶられました」
ひとつの影がもうひとつの影に端的に告げる。
「ずいぶんと燃えていますね。いいのですか?御妹君がおいでなのでは」
「あの子にはいい薬になる」
いさぎよく言ったもうひとつの影は、風にあおられた短い髪を撫ぜあげた。一房だけ長い髪がその手指にからみつく。
「あの子はしたたかだから、きっと石にかじりついてでも生きのびてみせるだろう。ラツトノ家の連中はみんなそうだ。ただ、絲の一族に野心をいだくとやけどを負うとすでに示されているものを、性懲りもなく手を出すそのおろかさが少々嘆かわしいとは言えるかもしれない」
「…あのような輩に慈悲をかけるというのですか。あなた様にした仕打ちを思えば」
「いいんだ。こちらだって、若君をつかまえるのに利用しようとした」
庄の高台で、ラツトノ家の屋敷は黒煙をいくつもたちのぼらせていた。庄中の人びとがあわてふためいて、勇敢な志の一部の者をのぞいて遠巻きに指をさしたり嘆いたりしているのが見てとれる。
その場所よりも高台には、造りばかりはりっぱながらんどうの祀り宮が闇夜を背負い不吉の火炎に照らし出され、妖しくもうつくしくそびえたっていた。
イツクシミヤ・アルヒの実父であり、イツクシミヤ家当主であり、法王あるいは宮主とあがめられたその男のことを、血をわけた肉親としてしたしみを覚えたことは、アルヒのこれまでの人生で一度もないことだった。
アルヒには母親はいない。生きているのかすでにこの世を去ったあとかどうかも、神官や口寄士たちの口にのぼることはない。
イツクシミヤ家が絲の神の現身と異名をとるのは、その血筋が神秘の薄衣に秘されているからでもある。母親も祖父母もはじめから存在しておらず、ただ父の神秘の力の一環としてさずかった子のように、ものごころついたころから口寄士たちに宮中で世話をされていた。
御簾ごしに形式ばった会話しかしたことのない父を、アイレがシーヤを思って涙をこぼしたように切実に思うことはむずかしいことだとわかっていても、その父を亡くしたと聞いて哀傷のひとつも引き起こせない自分は冷たい人間なのではないかと思った。父の崩御のしらせにわきあがった感情は、体の軸を失ったようなむなしさだった。そして背中から荒波におおいかぶされ、どこかへ運ばれていくようなこころもとなさ、それだけだった。
アルヒはふと、黒ずんだ梁のおわりにぽっかりとあいた煙出し穴から、白んだ空をのぞき見上げた。
ほこりっぽいあばら家の板の間に横たえられた体は、セト・ラツトの屋敷に用意された豪勢な布団の上にあったときよりもずっと楽になっていた。急な動きはまだむずかしいとしても、立ち上がって歩くくらいなら問題なくできそうだ。
ひょいと首を動かしてみれば、壁に背をあずけて眠りこくるノーシの姿がある。そのノーシのほかには、だれの気配も感じない。
首をかたむけたままフッと息をつくと、床に重なったほこりが舞い上がった。
セラタは、その場ではアルヒになにも語らなかった。すぐに庭の中を衛士が駆けまわる音を聞いたため、屋敷の、しいては庄の脱出を優先したのだった。
ノーシはあの時分…布団に横たわるアルヒを目に入れたとき、アルヒがただ眠りついたのではないことに気がついていた。わけを探るために屋敷内を忍びあるき、ミリク付きの侍女のもらした言葉を盗み聴き、ミリクのたくらみに勘づいた。あわててアルヒのもとへ駆け出そうとしたところをうっかり侍女に見つかってしまい、逃亡をはかるさなかに館に舞い込んだアイレと再会したのだった。
ノーシが騒ぎをおこす半刻ほど前、セラタは館の裏門ちかくの詰め所に火を放ち騒ぎを起こした。それは陽動のためばかりではなく、その屋敷にしきつめられていた術の網に穴を開ける目的もあった。その穴から霊体のアイレは飛び込んだ。
その後セラタはミリク付きの侍女姿へと变化をとげ文字通り追手を煙に巻いたが、ノーシはしっかりと衛士にも姿を見られてしまっていた。けっきょく放火の汚名まで着せられ、なんとか再会を果たしたものの衛士たちをひきつれるかたちになってしまったのだった。
アイレは一行の脱出をおおいに助けた。追いすがる衛士を惑わし混乱させる術を使い、民家を駆け抜ける彼らを隠すように光の屈折をあやつった。庄につづく街道から明かりのない暗闇の林に分け入り、アルヒたちを今は使われていないだろう無人のあばら家へみちびきさえもした。
アルヒ一行は、無事に逃げおおせた。なんとか腰をおちつけて、追手の気配がないと知るやいなや、セラタはすぐにその場を辞そうとした。それを、アイレはするどく止めたのだった。
「兄さんの知っている、本当のことを教えて」
疲れからか、アイレの霊体はそのすがたを平時よりも薄めさせてはいた。とはいえ、ひとみは燦然とセラタを射抜き、けっしてはぐらかして退くことをゆるさない気迫があった。
「宮主さまは…弑されたのでしょう」
戸口の外枠に手をかけていたセラタは、ひさしの落とす影に半身をひたしたまま、言葉なくうつむいていた。
「アイレ…なぜ、そんなことをセラタに聞くんだ?」
「アイレはセラタ兄さんの所属がどこか、口寄士見習いラミ様から聞いているんです。兄さんは、アルヒ様の影武者となるよう、口寄士様に特別な訓練をうけている。そのいっかんとして…口寄士様の影法師としてはたらくこともあるって…」
アイレはややためらいを見せたが、うつむきかけた顔をいきおいよく上げる。
「手を、よごす仕事もあるって」
「私がよごれた手でアルヒ様に触れたと、責めているの?」
そうこたえたセラタの声に怒気はなく、力ないその言い方は自嘲的ですらあった。
「そうじゃなくって…ラミ様が言っていたこと、たしかめたいの。お体に不安のない宮主さまがお倒れになるとしたら、誰かが裏で手を回したって…それをやってのけられるのは、そば付きの高位のは口寄士くらいなものだって」
「私はたしかに、神官頭さまや近衛兵長、宮の司よりも口寄士様の命にしばられている。だとしても、アルヒ様の庇護を第一にしろと魂にきざまれている。絲の神に誓って、私の主はアルヒ様ただひとりだ」
「その庇護に、現当主の守護は含まれないんだな」
ただ、アルヒはかわされる言葉が受けとめきれず、思ったことを口に上らせただけだった。混乱して、詮ないことを述べたまでだ。
それでも、その言葉はセラタを動揺させたようだった。暗がりのなかで、戸枠にかけた指が木目をけずる音を聞いた。
「…私は、宮主を手にかけていません」
消え入るような声だった。その声は、隠し宮でシーヤについて語ったときと同じものだ。
闇のなかで、いつしかセラタはあの日と同じ、アルヒと同じ歳ごろの少女のすがたになっていた。こちらに体を向けたセラタは、影のさなかでひとみばかりをぎらぎらと輝かせていた。
それはどこか民人を甘い言葉で連れ去るむかしばなしの化性を思わせて、アルヒは思いがけず目をそらした。セト・ラツトの庄での出来事、父の死去―――さまざまな出来事がうずまき、含まれた薬に過敏にさせられた頭がずくずく痛むのもあって、セラタのことまで受けとめきれなかった。それがどれほどセラタを責めさいなむとわかっていても、もはや言葉を紡ぐことすらおっくうになっていた。
せめて一言、自分はセラタを信じていると口にするべきだったとあとになってアルヒは思った。しかしそのときには、アイレの語気からにじみでた気持ち―――セラタはアルヒの父を手にかけた者とつながりがある、ということを責める心の動き―――に同調してしまった、というのも少なからずあった。
セラタは、どう思っただろうか。アルヒがこれ以上会話をする気がないことだけは察したにちがいなかった。
「…アイレがうまく隠したとはいえ、ここをかぎつける者がいるかもしれません。足跡消しをして参ります」
感情のかよわぬ声で淡々と言い、セラタはその場を辞した。外の闇に消えていったセラタが走りゆき落ち葉を踏み抜いていく音、アイレの大きなため息、居心地の悪そうなノーシが座りなおすきぬずれの音。そのなかで、アルヒは薄弱な月明かりの差し込みをうけて、顔に暗い影をおとす。
「こんなことを、言うつもりじゃなかった。セラタ兄さんを責めるつもりじゃなかったのに」
「アイレ」
今にも泣き出しそうなアイレの声をさえぎるように、アルヒがやさしく呼びかける。
「今日はもう疲れただろう。時間も遅いし、帰るといい」
「ですが…」
「アルヒさんのことは、自分がちゃんと見てます」
男を観察したところで何の心も踊りませんけど、とノーシがつけたすのを聞くうちに、取り乱しかけていたアイレの表情は平坦になっていった。
その場でぺこりとお辞儀をすると、くるりとまわってアイレはその身を風に溶かし、吹き去っていく。
「女性の相手というのはいつでも刺激的すぎて、少々疲れもしますね」
「ノーシ…」
ノーシだけは、日中とそう変わらないすがたでくつろいでいるようにも見えた。宮主の崩御という大事にたいして部外者であるとはいえ、修羅場を今さっき抜けてきたばかりでもある。招かれた屋敷でも、逃げ込んだあばら家でも、同じように手足を伸ばせるのは彼の強みなのだろう。
見習わなくてはならないと、アルヒは思った。
「…ノーシはもう、俺が何者か勘づいているんだろう」
言ってから、ノーシを呼び捨ててしまったことに気がついたが、ノーシは気に留める様子もない。
「うーん、おおむねと言ったところですね。まあ、ああいう影にまわる部下を持っているのは下にも置かれぬやんごとなきご身分にあるおんかただと相場では決まっていますし」
「セラタのことは…どう思った?」
腕を組んでよくよく考えたノーシは、笑みとともにアルヒにこたえた。
「いちずな女性ですね。見た目に似合わず」




