CA大叫喚
吉野明美(32)は、経歴の詐称により就職したキャビンアテンダントだった。得意の口のうまさと自慢の行動力でトントンと出世して、チーフになりあがった。
が、裏では悪行三昧を行っていた。吉野は正体を隠しての海外での強盗殺人で、味をしめて以来青少年を用いた美人局、気に入らない機長に粉をかけて詐欺をし、いらなくなれば退職に追い込むなど、その他諸々の非道を行っていた。
ある日、吉野は研修として下部組織になったLCCの新人CAの指導に出向いていた。新人の指導が最終段階になり、実際にLCC旅客機に搭乗し実地試験を行っていたが、そこに昔見た顔があった。かつてだまして破滅に追い込んだはずの男がそこにいたのだった。どうやらパイロットとして息を長らえていたらしい。このような時、通常仲が悪い者同士で乗り合わせることはないのだが、どうやら向こうは何も言うことはなかった。経歴を詐称しているのだろうかと吉野は思ったが、吉野の方も男に対して詐欺を働いていたので、ここでばれては今後のキャリアの障害になると思いLCC側には一切を黙っていた。そして、険悪な雰囲気のまま、旅客機は飛んだ。
飛行中、新人が客席の対応をしている間、機長室からコーヒーを届けろと呼びかけがあったので、吉野はコーヒーをいやいや届けることになった。
吉野と機長は顔を合わせると、むかっ腹が立ったが、お互い黙っていた。しかし、ほんの些細な事――コーヒーの温度があまりにも高いことが原因で、罵りあいになってしまった。その末、喧嘩っ早い吉野の方が機長の首に手をかけて、旅客機の機長を殺ししまった。緊急連絡をしようとしていた副機長もついでに副機長も殺し、機は日本海沖に墜落。吉野は結果的に、乗客246名と機内スタッフ7名も巻き添えにして死んだ。
そして死後、神妙な審理の結果、閻魔大王に裁かれ吉野は地獄落ちとなった。
吉野が閻魔大王に抗議しても、浄玻璃の鏡が過去の蛮行をことごとく映し出した。吉野の過去、それは極めて鮮明なものであった。
吉野は疑いようもなく地獄行きであると閻魔大王からお墨付きを得た。
閻魔大王に地獄行きを決定されたからと言って、まだまだ情状酌量の余地もある。現世にいる身内の供養によって、せめても餓鬼道、畜生道程度に収めてくれるようなことがあった。しかし、現世に吉野の身内はいない。吉野はここで運の尽きかと落胆したが、父や母、祖父や祖母、あるいはその先の先祖達が懇願して吉野に会いに来た。地獄行きが免れることだろうと、最後の最後、土壇場の十王、五道転輪王もおっしゃって、吉野も一つほっとした。
「さあ、娘がこんなことになった申し開きをするのです」
しかし、吉野の目の前にいる父、これを罵倒と共に拒否。母は吉野の顔を殴り倒し、祖父母は蹴りふみ、妹と弟たちは地獄の刑吏の持つ金棒を奪い、地獄に落ちろと頭に振り下ろした。一族は吉野に恨みを晴らすために来ていたのであった。
家族はもう吉野に対して、何の情も持ち合わせていなかった。
こうして、吉野は晴れて大叫喚地獄に叩き込まれたのだった。
*
金剛嘴烏処での拷問の待ち時間と称して、鋲のついた鉄の鎖につながれた吉野は、大釜の赤い煮え湯の中に浸かって、地獄の荒々しい天井を見ていた。鉄や硫黄の蒸気が天井に固着して槍衾のようにとがっている。露天風呂を覆っている屋根から滴が垂れ落ちてくるのと同じように、吉野はいつあれが落ちてくるか待っていた。
地獄はあまりにも、暇である。むろんどこに行っても全身を激痛を襲うことは間違いない。最初の方の200年ほどは大変苦しい思いをした。炎の牙を持つ獅子をけしかけられたり、鉄の板で挟まれその間でこねくり回されたり、文字通りの地獄をいやというほど味あわされた。
しかし、1000年、2000年と経つ内に意識が変わってきた。いつまでたっても体からは痛みが消えないので、痛みに対してかなり感覚が鈍磨してきたのだった。石抱きの刑になり両の足が砕けようとも、何かポケットに入ったつまようじが砕けるような感覚になってしまったし、鋸引きをされ体が両断されても、少々刺激の強い湿布を切り傷に張られただけのように思えた。
もはや、この煮え湯の中で足を組むぐらいの余裕もできた。刑の執行もまるで大病院の診察室で待つぐらいの感覚になったのである。吉野についた刑期は8000年である。それまではずいぶんと退屈な地獄になりそうであった。
吉野は初七日の内に言われた言葉をひたすら反芻していた。
「なあに、8000年なんてすぐすぎる」
十王の側近の馬頭が言っていた言葉が頭によぎる。
「そうでしょうか」
顔面がはれ上がった吉野が言うと、馬頭は、
「8000年といっても、現世の計算で6800兆年と1200億年だがな」といって、ぶるひひんと笑い嘶いた。
吉野の叫び声は広い鍾乳洞のような空間にむなしく響いた。
すると、大釜にかけた梯子を上ってくるものが見えた。
「えーと、ヨシノさん、困りますよ。おとなしく受けてもらわないと。私が見に来なくちゃあならないじゃないですか」
今日の拷問担当の鬼だ。大釜の縁にひょいと顔を出して手元にある似顔絵付きの札をめくりながら名前を呼ぶと、とてもいやそうな顔で注意してきた。
「いいじゃん。ちょっと気が狂っただけだよ。見てよ、足がゆでたささみみたいになっちゃってる。血の色が湯で変わって、ところどころ青紫色になっているよ」
吉野の足の皮膚がぶりんとめくれ上がって、硬く紫色に変質した筋肉が湯の上に突き出していた。吉野は鬼に向かって克明に口頭で説明してあげると、鬼は胃の中のものを吐いた。
「気味悪いこと言わないでくださいよ。あたしで遊ばないでください。あんまり言っていると、殴りますよ」
鬼は大きな金棒を振り上げたが、吉野はそれを見るとけたたましく鳴いた。
「うけけけけけ、なぐれなぐれ。暇してたんだ。頭がつぶれてくれた方が何も考えなくて済む」
吉野の獣じみた鳴き声に呼応して大釜のあちこちから、亡者の声が聞こえる。
「おい、こっち来て。ドタマつぶしてみせえ」
「こっちゃ来てつぶせい。すっきりしてえんだよぉ」
ため息をついてすごすごと下に降りて行った。妙に弱気な鬼の様子を見て吉野は大変満足した。
鬼はあからさまに嫌悪の表情を見せると下に降りて行った。
「……めんどくさい連中だ」
それから一瞬ほど、人の世でいうところの20年ほど経った頃、鬼たちが手に持っていた金物をカンカン鳴らし始めた。鬼たちの休憩時間だ。この間に人員交代や食事などをとるという。
それからしばらくしてふっと涼風が吹いた。亡者たちの体は一斉に元に戻っていく。これからしばらくの間は拷問も行われない自由な時間だった。
亡者たちもさぞ喜んでいるだろうと思われたが、途端に自由になると何もやることがない。拷問で全身に満ちていた苦悩や苦痛がすべてぽっかりと穴のようになくなってしまい、今度は脳みそをふっ飛ばさない程度のわずかな苦悶が残った体を引きずるのである。亡者たちの中にはけたけたと笑いながら、もう一度煮え湯の中に飛び込んで泳ぐような輩も出てくるし、鬼の忘れていった武具を手に持ってお互いの体を打ち付け始めるものもあらわれる。以前そこには地獄の風景が見えるのであった。
結果的に、地獄に慣れたものにこそ、この自由時間こそが地獄の生活において最も苦痛な拷問の時間なのである。吉野は早々に激痛に対して理性を保つ方法を思いついていたので、ほかの亡者まで恐慌に走ることはできなかったものの、胸を押さえて紅い地面に丸まった。
*
ところかわって、天に話を移る。すなわち、高貴な天人がおわす極楽のことである。
そこには金銀の柱や屋根を持つ屋敷が立ち並んでいる。翡翠や琥珀でできた松や竹などがある庭、清廉な水が流れる川に朱い丹の塗られた八つ橋がかかっている。えもいわれぬ素晴らしい匂いが立ち込める中で天人たちは、静かに微笑み天女が胡や琴をつま弾いたり、薄衣を羽織って踊ったりしているを縁の上で寝そべってご覧になっていた。
その中でふとお暇を感じになられた天女が庭の方へふらりと向かいなさると、池の中をお覗きになられている方がおられた。鏡のように細波一つ立たない池の水面にさっと手を差し伸べて、大きく丸く水の上を滑らせてみると、何かを垂らしているように見えたのだった。
その方が天女の方にお近づきと、このようなところに来るとは大変珍しいお方であることが分かった。
「お釈迦様。何をされているのでしょう」
お釈迦様は答えた。
「私は今、地獄の様子を見ているのです。少し前、亡者の一人を助けようとクモの糸を垂らしてみたところなのです」
「なんですって、すると垂らした糸をたどって天道に亡者が来るというではありませんか。それはとんでもないことです」
天女は目を丸くしたので、対してお釈迦様は答えた。
「かの男――カンダタはかつてクモの巣に引っかかっていた蝶を逃がしたことがあったのです。それで一つの機会として助けようと試みましたが、糸が切れてしまったようです」
「きっと、邪心が上回ったのでしょう。いかにお釈迦様の垂らした糸が強靭なものであっても、邪心というものは天を遠ざけるものです。邪心のない亡者などはおりますまいに」
「それはわかりません。もしも邪心がない亡者というものがあるかもしれません。地獄に仏というではありませんか。あの苦しいところに永い間いるのです。いつしか悟るものも出てくることもございましょう。……ふふ、釈迦ジョークです。では、私はこれで失礼しますよ」
お釈迦様は微笑まれると去った。天女は柔らかな唇に手をやって考えた。どうにも、釈尊のいうことが理解できなかった。天女はこう思った。
「お釈迦様がおっしゃったことは間違いかもしれない。もし、お釈迦様のいうことが正しいのであれば、亡者の国にクモの糸を垂らし、ここまで登ってきたものがいれば、お釈迦様が正しいということでしょう。しかし、私にはそうは思えない……」
とうに色はなくなったと思っていた天女だったが、急に蜘蛛の糸を見ているうちに色めきだった。釈尊のいたところに座って、水面を撫でると下界の様子が見ることができた。人道、畜生道、修羅道、餓鬼道、そして、ようやく天道を水面に移すと、悟りを開いていそうな亡者を探した。すると、狂乱の中にいて、一人だけうずくまっている女が見えた。ほかにめぼしいものがいないので、天女はものの試しでこの女の上に下すことにした。
蜘蛛に向かって、「先ほどのようにやるのですよ」と言いつけると、「へエ。天女様の頼みであるなら」と蜘蛛は意図はよくわからなかったが気風よく糸を下ろさせた。
*
ところかわって、地獄である。
苦しみに転げていた吉野の頭上に白く細い糸が降りかかってきた。吉野はしばらくそれは石綿か何かの切れ端とでも思っていたが、つまんでみると数億年前の記憶が一気に湧き上がってその正体がわかった。
「これは、あれなのでは……!?」
吉野の記憶にあったのは、これは蜘蛛の糸であるということだった。まだ純粋だった小学生だか中学生だかのころに授業であつかった古典か何かだで、見たものである。
「く、く、く、くくく、くく、くも、くも」
吉野は鶏のように首を前後に動かしながら、叫びそうになったが、骨ばった両手を口の中に突っ込んで何とか叫ばないようにした。
吉野は蜘蛛の糸が確かにずうっと上まで伸びているのを確認すると、ポカンと開く口を押えた。
『これは確か、釈迦だかなんだかが下した蜘蛛のアレだ。これを登れば天国に行ける。切れたら困る。一応、媚を打っておこう』
吉野は神妙に天に向かって手を合わせた。
*
かわって天である。
「えっ!」
天女は下にいる女が天に向かって両手を合わせたので、はしたない声をお上げになって驚愕なされた。亡者が手を合わして拝むというのは天女の聞いたところでは一つもあり得ないのであった。もしかするとお釈迦様のいう、地獄に落ちた亡者が悟りを開くというのはありうる話かもしれないと思いこんだ。
「天女様。おやめになりますかい」
「いえ、しっかりと伸ばしてちょうだい」
天女はまたぐいぐいと糸を下におろしなさった。
*
かわって、地獄。
吉野は十分に、いや二十分に拝み倒すと恭しいそぶりを見せて、蜘蛛の糸につかみ、クイクイと引っ張って糸の頑丈さを確認した。糸の先端を念入りにねじってみると、プルンと元に戻った。近くにある鬼の鉈で切ろうとしても切れない。噂にたがわぬ強度である。吉野を組んで感心した。
これなら亡者の一人も余裕で行くことになるだろう。
そして、吉野は糸に手をかけて、永いこと飯を食ってないガリガリの体はスルスルと上に登って行った。そして、高さ5mに達したところでふと思い返した。思い返したのはカンダタ何某のことである。吉野は両手の力を抜いてスルスルと地獄に舞い戻ってきた。そして、芥川何某の小説の一説をぶつぶつと口を動かしながら思い出していた。糸はなぜ切れたかを考えていた。
糸が切れたのはカンダタがお前たちは登るなと罵ったあたりのことであった。
ここから察するに、カンダタはきっと邪心を抱いていたに違いない。しかし、亡者というものは邪心を抱いているもので、邪心があれば切れるということは、亡者がこの糸を引っ張り次第に切れるものだ。しかし、邪心ばかりの吉野がこの糸を上っても、糸は千切れる素振りは見せない。これはどういうことなのか。吉野は頭をひねった。
「もしかして、私は悟ってきているのでは?」
そういうなり、吉野はそら笑いした。んなわけない。こんな簡単に悟れればこんなことにはならないのだ。
少なくともいえることは、一心不乱に登っている間はカンダタの糸は切れなかった。邪心が生まれたことによって落ちてしまったのだ。あの時に亡者を蹴落とすという邪心があったために糸は切れた。
では、邪心なく一心不乱に天国まで登り切れるかといえば、答えは極めて難しい。こればかりは個人の資質と時の運が絡んでくるに違いない。亡者に追いつかれて蹴落とされて落ちることもあり得るし、途中獄卒達に金棒でも投げられ落とされる可能性もあり得る。糸を切られることもあり得るのだ。しかし、脱出はしたいものである。
このことを踏まえて再度、吉野はなぜカンダタが途中まで糸が切れないかをしばらく考えて、一つの答えにたどり着いた。邪心が見えるような行動さえしなければ、いいのではないだろうか。
方針が決まればすぐにあくどいことを思いつくのが、この吉野である。
このことを踏まえて再度、吉野は糸が途中で切れてしまわないことと後から来る亡者に対する対策の両立をしばらく考えた。堂々巡りになりそうであったが、ある時ピンと来てにやりとわらった。
妙案を思いついたのである。
吉野のたくらみというのはこういうことである。まず、少数の亡者を集める。少なくとも芥川の蜘蛛の糸の話を知っていて、あとはいかにも情にほだされそうな連中を集める。こいつらを洗脳し、心底自分に心酔させて配下にする。そして、糸に登る段になれば自分はただ一人先頭を行って、後ろにいる自分の配下を盾にして後からくる亡者を追い払わせようという寸法である。
こうすることで、自分は一心不乱に登ることができるため、自分の目の前の糸だけは切れず、あとから亡者が来ることはない。吉野はこう思った。
そうと決まれば、吉野は早い。
吉野は天を仰ぐともう一度、用意する前にどうか糸が切れませんようにと媚を売って手を合わせて、すぐに行動を始めた。
*
かわって、天。
その様子を見ていた天女は感心して声を上げた。やはり、あのものは悟りを開いているかどうかわからないが、実に信心深い亡者であるらしい。それから、亡者は登るのかと思ったが全然別のところに行ってしまった。
「どうしたのだろうか」
天女は思いがけないことになったので三度声を上げた。
*
かわって、地獄。
そして、吉野がたくらんだことといえば、知り合いの比較的信用できる比較的正気を保った亡者数人に次のようなことを聞くことだった。
「あんた、いつぐらいに死んだ?」
「おいらは、天保何年かに死んだよ」
「俺は2400年頃や」
「ワシは2001年だ。ワールドカップが見れんかったから非常によく覚えているぞ」
吉野はその中から、特に1980年以降から、2050年頃までの人間を選んで質問した。
「あんたら、中学にはいってたかい? 成績は?」
「ワシぁ、小卒よ」
「あたしゃ、こう見えても国語だけはよくできてねえ。国語だけは4だったよ」
「僕は、引きこもって本ばかり読んでいたぞ」
吉野はその中から、学校にちゃんと言っているか、本をよく読んでいるかしたものを選ぶと
ほかのものを帰させて、残った物分かりがよさそうで吉野が漬け込みやすそうな四人に話を持ち掛けた。
「いいかい、お前ら。あたしゃ向こうにすごいものを発見した。こっちに来てみな」
そして、吉野は亡者を蜘蛛の糸に案内した。
*
かわって、天。
天女の声を聞きつけて、また別の天女が数名駆けつけてきた。
「あなたは何をしていらっしゃるの」
天女は蜘蛛の糸を持ったまま、少々まずい顔をなさった。それから数分その天女のいぶかしんだ視線に耐えかねて、軽く事情を説明した。すると、とんでもないことをしているとお釈迦様とお話になった時の天女と同じようなことをおっしゃられた。
「いえ、事情が異なってきたのです。亡者が天に向かって手を合わせて、そして結局は登らなかったのです」
「それは、地獄に蜘蛛の糸が降ってきてそれに登って、上まで行こうなんて考え自体がおかしいということに気が付いたということではありませんか。それよりも亡者釣りというのは少々下品だと思います」
「そうです」
「いえ、私はそうとは思わないのです。つい先ほどお釈迦様が蜘蛛の糸をお下しになって、カンダタという男を助けようとしたようなのですが、その男は邪心から落ちてしまったのです。ところが、この下にいる亡者の女は、その聞いた話とはまったく違うのです」
天女がそういうとほかの天女はそれでも納得がいかないようだった。
「あら、みて」
集まってきたうちの一人が指をお差しになったので、ほかの天女も一斉に水面の地獄を通してみた。今度こそ登ってくるのかと、集まった天女たちは期待したが、またもや妙な行動をとるので困惑した。亡者は何処から集めてきた四人の亡者を集めて一列になり、その前を往復して何かを叫び始めた。
*
かわって、地獄。
「みなさん、ここにあるのが、芥川何某が描いたとされる蜘蛛の糸です」
「はあ」
偉そうな顔をしている吉野に、四人は釈然といかないような顔をした。
「これを上るとどこに行きますか。はい、亡者A!」
「どこって。どこから降ってきているかわからないでしょう。登った先がでっかい絡新婦がいる地獄かもしれませんし」
亡者はうなずくと、ほかの亡者も頷いた。亡者の中でも正気を保っているだけに妙にリアリストである。少しはロマンを持っている人間の方がコントロールしやすいものだが、贅沢は言っていられない。
「はい、失格。そんなことじゃだめですよ! 天国です。天国」
「はあ」
亡者Aの頭をはたくと、吉野はふんぞり返った。
「そこで、新人のあなたたちには、研修を受けてもらいます」
「なんでそんなもんを受けなきゃならんのだ」
「こら」
吉野は亡者Bの頭を殴った。
「教官に対してなんだその口の利き方は! 落第にしますよ」
「落第って……。睨むな、睨まないでくださいよ。なぜ、そのようなものを受けなければならないのですか、教官」
亡者Bは気圧されてしまった。吉野は教官という言葉の耳触りのよさを感じると、機嫌よく答えた。
「いい質問です、亡者B! この蜘蛛の糸はお釈迦様がお下しになられた素ン晴らしい糸でございます。この糸をたどれば天国に行けるわけですが、全員が行けるわけではない」
「すると教官。ここにいる四人でテストというわけですか」
亡者Cは勇んで答えた。すると、亡者たちは一気に殺気立ったが、吉野は首を振った。
「いいえ、違います。全員で行けるわけではないといったのは、こういうことなのです。私がこの糸を見たときに、一人で登ろうとした。しかし、その時にふと思いついたのです。このまま一人で登ってしまえば、いずれあとから人が殺到し、糸が切れてしまうだろうと。そこで、皆さんの協力を得ようという考えなのです。コンビネーションで何とか糸に食らいついて天国に登ろうという算段です」
「一体、何をしようとするのですか」
亡者Dは不審がって尋ねた。それに吉野はできるだけ大きな声で帰した。
「研修です。糸を上るための研修をするのです。私はかつて、大手航空会社のチーフキャビンアテンダントをしていました。そこで使われていた新人研修を応用した研修で心を一つにして皆様方に一致団結してもらおうとの考えです」
*
変わって天。
天女たちは大混乱した。下では列をなしてお辞儀をしながら大声で叫んばせたり、一人を仰臥させほかの亡者たちが口吸いをしたりなど、珍妙なことをし始めた。そして、失敗するや否や、糸を下したあの亡者がその人間の頬を殴り、号泣して吠えた。そして、それが回を重ねるごとにこなれ始め、ついには示し合わせたかのような動きになり始めた。
「あれは何をやっているのでございましょう」
「もう糸をお上げなさった方がいいのではないでしょうか。その糸を介して穢れが入ってこないか心配だわ」
亡者に対して厳しく当たる天女に、糸をお下しになっている天女は困り顔になった。少々、この糸をぷつりと切ってしまおうかと思い始めた。
が、その思いを蜘蛛が多弁に熱を込めて遮った。
「糸を目の前にして登らないということは何かあるのでしょう。もう少し見てみましょうよ。何をしているかわかりませんがね、あいつら、あんなに頑張っているじゃあ、ありませんか。私はここに生き返る前は人の世で教師をやっていた者。あの連中を見ていると昔の生徒を思い出すのです。私ァすっかり入れ込んじまいましたよ」
すると、感激屋のきらいがある天女はつまんでいる指先を感動で震わした。
「そうよ、そうよね」
「あらら、この人の妙な癖が出てしまいましてよ。蜘蛛さん、あなたの責任ですよ」
「おうよ。構わねえぜ。」
「あら、もう変化が現れましてよ。見てごらんなさい、あんなに精悍な顔立ちをしているではありませんか」
*
かわって、地獄。
地獄では吉野達五人は激しく抱き合い、スクラムを組んで、咆哮した。一年間に及ぶ研修が今終わったのだ。いつしか、CAの魂に目覚めた吉野は、糸を登って天国に行くということを忘れながら、熱く指導することとなった。
地獄の一億年よりも熱い一年であった。かつては若手を率いていた吉野のCAとしての経験が役に立ったのだった。吉野は大手の研修・コーチング制度に心の中でお礼を言った。亡者たちは今や一人前になったのだ。
「みんな、飲まず食わず拷問なく、よく頑張った。これで演習は終了です」
「ありがとう、ありがとう教官」
吉野教官の熱気に騙された四人はお互いを讃えあい、そして、また激しく抱擁した。
最初、吉野はこの亡者たちを自分が天国に上がるための道具だと思っていたが、道具といえど一年も使えば愛着が湧くというもの。その道具が必死にお礼を言ってくるので、吉野は悪い気はなかった。正直、邪悪は方向に慢心した。
しかし、吉野は己を律するために頬を打って、自分を叱咤した。ここで慢心していては台無しだ。すでに教官の目となった吉野はクッと口角を上げると生徒達に向き直った。
「教官、これからどうするんでしょう。あの蜘蛛の糸をほっぽって、すでに1年は立っております。休憩時間は我々の体感では66000年ぐらいといえど、それだけ放っておく理由というのはどういうことでしょうか」
「いい質問だ。亡者B!」
吉野は亡者Bの肩に手を置いて、叫んだ。
「私たちは長い間、研修を行ってきました。それは、この日のため。カンダタはあまりにも急ぎすぎていた。我々は十二分に、いや百二十分に準備をしてきたのです。私は一年前のあの時、小一時間考えた末、私は思いついた。カンダタになかったのは協調性です。私はこの協調性を身に着けるためにお前たちに教えたのです」
吉野はこぶしを振り上げた。
「さあ、今、私たちはこの糸を手繰り、……、全員……天国に……?」
吉野は顔を急に歪めて唸った。何かを忘れている気がする。
「手繰って登って、四人を連れて行くとして……、後ろからくる奴らはどうする……。誰も犠牲にせずに登るとなると、話がおかしい……」
勢いは急激に萎えて、右手はすっと下がった。
「そうしたんです、教官」
亡者Cは亡霊のようになった吉野を呼んだ。吉野の顔は急激に真っ青になった。
「しまった、うっかりしていた……。お前たち四人が一緒に来ては意味がない……!」
「そ、それはどういうことなのです」
「吉野、一生の不覚……」
吉野はその場に泣き崩れた。吉野が思いついた天国に行く方法は、四人を犠牲にして自分ただ一人行くことであった。しかし、研修をやっているうちに吉野は情に絆されてしまい、いつしか五人で天国に行く方法を考えてしまっていたのだった。それに気が付いた吉野は落胆し、絶望した。
無性に心が痛んだ吉野は実は四人に自分一人が裏切り天国に行くつもりだったと告白すると、四人は戸惑ったが、やがて、
「自分も裏切るつもりでした……」
「俺も……」
「私も、そうだったんです」
自分たちも一人だけで助かろうとしたことを告白した。
「うおお、教官殴ってください! 私の頬を!」
吉野は殴った。そして、吉野も両手を上げてこういった。
「亡者A、B、C、D。私も殴れ。お前たちのことを道具同然に思っていたのだ。お前だけを殴るどおりはない。殴れ!」
こうして、四人はお互いを一発ずつ殴り、熱く抱擁した。そして、蜘蛛の糸の目の前に立った。
「私たちはもう、蜘蛛の糸を登らない。これは亡者の心を惑わすいらぬ希望だ。燃やしてしまおう」
「そうだ」
「私たちは残りの刑期をおとなしく受けることにしよう。友情を裏切ることはできないのだ」
「そうだそうだ」
吉野が神妙にいうと、四人は同調した。そして、大釜の下にくべてある火を取ってきて、蜘蛛の糸を焙った。蜘蛛の糸は地獄の火でもなかなか燃えなかったがやがて火をつけた。火はほとんど微動だにしなかった。頑丈な糸だった。天国から垂らされていてもおかしくはないだろう。五人は名残惜しそうに、しかし決別の火を見て満足そうに見上げていた。
*
そのころ、天。
そこには感動で胸が締め付けられる思いがする一人の天女と一匹の蜘蛛がいた。二つの目と八つの目には大粒の涙があふれていた。
「このようなことになるとは、思いもしませんでした」
「私もこのようなことになるのだ」
その周りにいた天女たちも少しは胸を打たれたようで、天女に謝り始めた。
「先ほどは馬鹿にしてすみませんでした」
「ああ、ごめんなさい。亡者どもにも心があったのですね」
「いいえ、私もここまでのことになるとは思いませんでした」
天女たちも、亡者ほどではないが熱く抱擁した。
その様子を見て、蜘蛛も満足げにうなずくと、
「もう、私の糸もいりませんね。そろそろ切ってしまいましょう」
尻尾から伸ばした糸を切ろうとした。その時、糸を下した天女が指先に違和感を覚えなさったので、慌てて蜘蛛を呼び止めた。
「皆さん。まだ、何かあるようですよ」
「これ以上、何があるというのです?」
「分かりませんわ。しかし、これは糸を下した私の、いわば義務というものでしょう。彼らの顛末を見なければならないと思うのです」
すると、周りの天女も賛成した。
「ええ、こうなっては気になります。もしかして、少しは人の心を思い出して、私たちにお礼を言うつもりなのかもしれません」
「最後まで見てみましょうよ。私も気になってしまいましたわ。周りに集まった方も
そう思っているはずです」
いつの間にか、天井の調べは消えていて、周りに天女が集まって水面に移る地獄の様子を見ていた。糸下す天女は周りの様子に驚いた。
「これだけの人が注目しているのです。もう少し見てみましょう!」
天女の指に天女はそう宣言すると、周囲にお集まりになった一同は大きく頷いた。
*
地獄、ちょっと前。
「しかし、これで天国行きへの希望が無くなってしまったな」
「いやいや、あと6800兆年と1190億年後ぐらいに来るさ」
「ずいぶんと長いなあ」
五人は1年の研修を振り返りながら、大いに笑いあった。すがすがしい青春の風が五人の間だけに吹いていた。
そして、五人は地獄の生活に戻る準備をした。とりあえず、労働という苦痛を忘れ、激痛という苦痛を思い出さなければならなかった。五人はとりあえず地獄の大釜の火を見事なコンビネーションで煮えくり返し、熱湯で労働の汗が抜けきるまで茹で上がろうと思い立って、飛び込んだ。
「くぅ、これだよ、これ。全身がボロボロになっていくのよ」
吉野は煮え湯につかると一年ぶりの激痛が襲ってきた。しかし、意外と余裕があるものだ。ほかの亡者も痛みに口をすぼめて湯につかって、どうでもいいようになった。
「ああ、研修よりも無味乾燥な苦痛だ。あーあ、結局、あの研修も役に立たなくなっちまったな」
「研修が役に立つこともあるさ」
「ぜったいねえよ」
「どうしてそういうことが言える」
「だってよ。地獄の刑期が終わったとするよ。そのあと、天国に行くっての都合がよすぎだぜ。すると、また現世に戻るってことだろう。そんでも、よくて犬畜生、蜘蛛や蛾、ありんこみじんこ。なんになるかわかったもんじゃねえ。そんで、まっとうに生きてまっとうに死んで、あの世に行ったときに、人間に生き返ったとするだろ。そん時にゃ地獄の記憶が無くなっちまうって寸法よ。この研修は無意味だぜ」
「なあんだ、お前は、そんなこと言いやがって。俺はあの厳しい研修を自分の意志で切り抜けたということが誇りだと思っている。研修があってこそ、6800兆年とン億年の刑期を過ごせるとさえ思ってる」
「俺だって、少しは誇りに思っているよ。でもよう、せっかく覚えた人工呼吸や配膳、乗客の避難活動だって無駄になるんだぜ。……今思えば、糸を上るってことと関係のないことばかりやってきたけどよぉ。覚えたことが無駄になるって、俺ぁそれが悲しいんだ」
「たしかにさあ、それはあるわなぁ。せっかく、お互いの口を吸いあうとかいう気持ちの悪いことしたりとか、自分たちで屑鉄叩いて皿を作って石並べてままごとみたいなことしたりとか、機内から脱出する方法とかよくわからないことしたし」
吉野は何か、引っかかることがあって、湯につかる亡者に問いただした。
「お前、今なンて言った」
「教官、そんなすごまないでくださいよ。いやね、せっかく覚えた研修が役に立てないって話ですよ」
「そのあとだ」
吉野は肉がまくれ上がって骨ばかりの指を突きつけて詰め寄った。
「糸のぼることと関係のないことやらされたってことですか。それは言葉の綾ってやつですよ」
「違う違う、人工呼吸だかなんだかの時に何か言っていただろう」
「フエー、お互い口吸いあったり、屑鉄で皿作ったり、機内から脱出する方法ってとこですか」
「そうそう。なにか引っかかるんだ。そこんとこが」
吉野は親指でこめかみをぐりぐりと刺激しながら考えた。
「あ、機内からの脱出!」
そして、一つの妙案を思いついたのであった。吉野は湯から飛び上がって、蜘蛛の糸の火を消した。そのまま、地面に不時着すると、四肢をぐちゃぐちゃに折ったまま、亡者たちに声をかけた。
「集合!」
「教官、どうしたんですか」
「妙案を思いついた」
「へえ。それはどんなことですか」
亡者たちは煮え湯からあがって、窯からぼとぼとと落ちると、下の方で折り重なって聞き返した。
「あの糸のことなんだけど。一人だけ登ろうとするっているところがだめだと思うんだ」
「そりゃ、そうです。しかし、邪心のせいで結局登れないって話でしたよねえ。後ろから昇ってくる亡者を蹴落とそうとしてしまうからダメだって」
「だったら、全員で登ってしまえるシステムを構築してしまえばいいじゃない」
「システム?」
「要するに、糸を上るのにしっかりと人を整理すればいいのよ。機内から脱出するときのように」
吉野の考えではこうである。
まず、吉野と亡者ABCDで、50人程度の亡者を研修する。終わったころに最初の組である吉野と亡者ABCDは糸に登る。
吉野達五人が登り始めると亡者たちは糸に登ろうと群がってくるだろう。これを研修を終えた50人の研修生達に食い止めてもらう。
そして、研修に参加し心を浄化したものだけが登れると後から来た亡者に話をつけ、研修を行う。
研修が終われば、指導した50人が糸を上るようにする。
こうして研修生は新たな亡者たちを指導し続け、順番が来次第、蜘蛛の糸に登り、これを繰り返す。
「教官、それは可能ですか」
「可能にするのです。我々の情熱があれば、可能です。我々が行ってきた研修の力をここで発揮するのです」
こうなれば、吉野は有言実行である。そして、人間感覚で5年の歳月をかけて、ようやく吉野は糸に手をかけた。
見送る研修生たちはすっかり憑き物がとれたようにさわやかであった。しばらくして、糸に殺到する亡者たちが現れ、研修生たちがそれを阻止するのが見えた。吉野達は研修生たちが心配で少しその様子を気にしていたが、研修生たちが気丈に頑張る姿を見せたので、吉野達は登った。それからまたしばらくして、後ろからかつての研修生が追い上げてきた。
「教官殿、成功です、成功です」
その言葉で最後の憂いはなくなった。それを耳にして、吉野は糸を手繰る力をより強くした。
「もういい。口をつぐんで一心に糸を手繰りなさい」
吉野達はもはや下を見下ろすことをしなかった。吉野達は後ろからやってくる亡者のいうことをまるっきり信じることにして、一心不乱に登った。
吉野達は決してわからなかったが、蜘蛛の糸の周りには研修を行う人の輪がある。その周りには研修を受けに来た人を研修生がその列の整理を行っている。研修が終われば、規律正しい動きで蜘蛛の糸を上る。システムは完成したのだ。
「足元ご注意ください。後列の人が怪我しないようにおねがいしまぁす」
「アテンションプリーズ。速度は一定をキープしてください。押さない、止まらない、一定のスピードでお登りください」
お互いを喚起する言葉も忘れない。気力が落ちて、登る手のスピードが落ちそうになっても、苦楽を共にした仲間の熱い呼びかけが、背中を押してくれる。吉野達は今、完成された更生システムの中にいた。罪人に刑罰を与えるよりもこの方がいいじゃないか。この方がはるかに人道的だ。吉野は意識を得て以来、初めて自分が白い光の中にいるような気がしてならなかった。自分は今正しいことをしていると全身で感じていた。
*
その頃、天。
一同は感動を通り越して、唖然と亡者が次々と行儀よく糸を登ってくる様子をご覧になった。
誰も予期していなかったことがそこで起きていたのである。次第に天女の指先では重さに耐えきれなくなり、天女は両手ではっしとつかむようになり、蜘蛛も八本の腕で地面をつかみ、尻から延びる糸を引っ張った。
「ご覧になっている天女様達、私たちだけではもう無理でございます。どうか、お力添えをおねがいします」
それでも重みに耐えかねて蜘蛛が叫ぶと、
「わかりましたわ。皆様、お手伝いいたしましょう」と、周囲の天女たちも手伝うようになり、あたかも綱引きのようになっていた。
天女たちはもはや何が何だかよくわからなくなってきた。最初の天女が亡者一匹、個人的な関心の戯れで釣ってやろうとのたくらみはとうに記憶の彼方に飛んで行って、ただ亡者たちの奇異なる行動の顛末を見ることだけに終始した。
その様子を見かねて、力自慢の天も訳も分からず手伝った。
糸を引く天人は大声で叫んだ。
「ええい。どうしてこのようなことになったのだ」
「なんでも、お釈迦様がいらっしゃって、無実の亡者を救うためにこうなさっているのだとか」
近くにいた事情をよく知らない天女がそう伝えるとますます騒動が大きくなる。そこの場でいた天人たちでも亡者を釣ることができなくなったので、韋駄天が韋駄天走りで、「申し訳ないが、お釈迦様の手伝いで、糸を引いてくれまいか」と方々に触れ回ると、お釈迦様の威光はどこまでなのか。あちこちから天人たちを集める騒動となった。
そうして、みんな汗だくになって、亡者を釣っているとはほとんど知らないまま、糸を一心不乱に引いたのである。
水面に糸を垂らしていた天女などは、汗のしみ込んだ着物がはだけて、胸もあらわになっているのも気が付かず引いていた。
そしてとうとう、蜘蛛が尻の糸を伸ばして天国を一周ぐるりと回って最初の天女のところまで来ることろには、天人のほとんどが参加することとなり、糸を引っ張るものを鼓舞する太鼓や琴までも現れ始め、天国は騒々しい様子を見せていた。
「皆さま、よく頑張ってございます。もう少し、この事の顛末が見れそうでございます」
ほとんど裸になられてしまわれた天女は顔中油汗だらけにして叫んだ。見れば、もうほとんど亡者たちは天国まで来ている。
「蜘蛛もよく頑張ってくれましたね」
蜘蛛にもねぎらいの言葉をかけると、蜘蛛は涙ながらに答えた。
「これであいつらも報われるってもんですよ」
「私もどうやら、彼らに影響されたみたいですね。天人の最後というのは地獄の数倍も苦しいものと聞いていましたが、私の心は燃え上がり一遍の後悔もないような気分なのです。これが充実した気分というものなのでしょう」
「立派な心掛けです」
蜘蛛は八つの目から涙を流した。
天女は頷き、自分の人生を振り返りながら、万感の思いで引いていると、ふとお釈迦様がお姿をお見せになられた。
「私が気まぐれに糸を下したのはさっきのことだというのに、私の指示で糸を引いてくれとのことが触れ回っていたというから来てみれば、これはどういったことなのでしょう」
お釈迦様がはしたない姿の天女に問うと、
「お釈迦様。私はあなたが蜘蛛の糸を下ろし、亡者を助けようとしたことを聞いて、ふと私も下してみたくなったのです。私はお釈迦様のような眼は持っておりませんが、ふと地獄にも救うに値するものがいるのではないかと気まぐれに糸を下してみたのですが、どうも見事な功徳を持った人間に当たったようです。この者はお釈迦様のいう何某というものと違い、思いやりを持って、亡者たち全員を救おうとしたのです。下の方で修行させてから、邪心のないものが上に登ってきています。今登ってきておる亡者たちは邪心などひとかけらもない様でございます。ああ、きっと地獄に落ちたのは間違いですわ」
と、ひどく感激した様子で答えた。お釈迦様は糸を登ってくる亡者を見て、頷きなさると、
「うむ。皆邪心もなく一心不乱に糸を上っているのは確かです。現世でもあれほど一生懸命に生きてほしかったと思うくらいです」
と、確かに邪心もなく一心不乱に糸を手繰っているとおっしゃった。しかし、次に天女に問いかけたのであった。
「……しかし、あなた、それでよろしいのですか」
「はあ」
「あなたの着物は体から出ている油に汚れてきて、あなたの頭にある華鬘がどんどんと萎れてきていますよ」
地獄の映っていない水面をちらと見ると、確かに頭の上にある花――すなわち華鬘がだんだんと萎れ始めているのが分かった。桃色のつやつやした花弁は今や茶渋が付いたような色のびらびらになり始めていた。
天女はそれではっとした。それは天人の寿命の証であった。天人にも寿命がある。天道も地獄道と同じく六道の中にある。衆生はこの六道を輪廻転生しているのである。天人も例外ではない。悠久ともいえる寿命があるが、いつかは終わりが来るのである。
「私の寿命は近づいているようですね。しかし、私はこの顛末を見なければならないのです。ことを始めたのであれば、最後まで終わらせなければなりません。私には後悔などないはずです」
「いいえ、私がいいたいことはそうではありません」
「はあ」
天女は首を傾げた。その天女をお釈迦様は諫めた。
「あなた方は穢れに触れると死んでしまいます。穢れに満ちた地獄から来た亡者がここに来るということはどういうことか。あなた方の誰一人として天人五衰のしるしが出ていないものはいないのですよ」
その時、天女ははっとした。天人五衰というのは天人の寿命が近くなってきた時の特徴のことである。周りの天人たちをみると、皆不自然に汗臭くで華鬘が萎れてきていた。皆一様に天人五衰の特徴が出ていて、死期が明らかに近づいているのが手に取るように分かったのだ。
「そも、私が糸を下したのは単なる手慰みで、もし本当にここまで登ってこようものなら、頃合いを見て、糸を切ってしまえばいいと思って糸を下していたのです。しかし、あなたの方法だと、このまま直接あの亡者たちを天国に引き入れてしまいます。そうなれば、あなた方は全員地獄の穢れに飲まれて死んでしまいますよ」
天人たちはその言葉を聞いてふっと我に返った。引けば引くほど、死に近づく。すなわち、自分たちは自殺するために引いていたということだ。こんなばかばかしいことはない。天人たちのいままで必死に糸を引いていた理由がぷっつりと切れてしまった。
天人たちはあんなに固執していた糸をすんなりと手を放した。そして、騒ぎの主犯の天女を蹴落とした。
*
こうして、一連の顛末はあっさりと終わった。
天国を目の前にして不意に蜘蛛の糸が手放されたので、計り知れない距離を落下することになった。一説には現世から地獄の最下層までの距離は自由落下で2000年程度かかるという。吉野とその部下たちは落下しながら、反省をした。何が悪かったのかと。
「やっぱり、登ろうとするのが罠だったのかなあ」
「いや、まさか。お釈迦様がそんなことをするはずはない」
「もしかして、俺が少しばかりおっぱいのことを考えたからかもしれない」
「おまえ、そんなことを考えていたのか」
「いや、今思ったらの話よ。あの時は一心不乱に邪心を振り払って登っていたさ」
亡者たちは自分たちに落ち度がないはずだとおこがましくも考えているうちに、天国の方が騒がしくなったので、奇妙に思っていると、上から半裸の女性が落ちてきた。
女は気まずい様子で亡者たちを見ていた。
「あの、どちら様?」
「私は天国にいた天女です。裏で糸を引いていたのは私なんですよ」
吉野は天女を殴った。
お目汚し申し訳ございません。
そして、芥川先生ごめんなさい。
初投稿です。寝起きでNHK見ながら書きました。
なぜ、CAにしたかはわかりません。今思えば、ガードマンとかコミケの人とかでも良かったと思います。




