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短編(和もの)

私はそれを愛と呼ぶ

作者: 月鳴

回想が多く作中、時間が前後することが多々あります。わかりにくいかもしれません。ごめんなさい。全編どシリアスです。

 愛の言葉を、ぼくは知らない。


 彼は読んでいた小説を引用して、そんなことを言った。淋しい瞳だった。はるのはじまりのひだまりのような淋しさだった。



 彼と私が出会って、五年になる。それはつまりお見合い結婚をした私たちの結婚歴ということにもなる。だけれど、私たちは未だに他人行儀が抜けないでいた。

 戸籍上の家族。同居する他人。そんなイメージ。


 彼はすごく整った容姿でもなければ、特別頭のいい人でもなかった。しかし他人を慮ることの出来る、懐の深い人であった。

 今まで恋人もろくに出来なかった私は当然のように男慣れしていなくて、まだ家族ではなかった彼とうまくお喋りするなんて夢のまた夢の話。それでもなんだかんだと結婚したのは、私が彼を好きになってしまったからで。

 彼はこのままでは到底結婚できなそうな私を慮って、結婚してくれたのだ。


 プロポーズはきっちり十回目のデートでのこと。いつもは電車で出掛けているのに、その日ばかりは珍しくなんだか可愛い形をした車に乗って彼はやってきた。


「車、持ってたんですね」

「ああ。たまにしか乗らないけどね」


 就職をした成人男性が車に乗る頻度は通勤にでも使わない限り著しく低い、らしい。特に車好きでもない彼はときたま遠出をするとき以外あまり乗らないのだと言った。


「でもこの車は好きなんだ」

「へえ。どうしてですか?」

「さあね。理由はないよ。なんとなくだ」


 じゃあ私のこともなんとなく好きなんですか、とは言い出せなかった。

 この時、私たちはすでに恋人同士であった。彼がお付き合いしましょう、と言ったのに私がはい、と答えただけの恋人関係。好意の有無は確かめなかった。彼の中にはそういった項目が初めからなかったかのようなやりとりだった。

 私からの問いかけが憚られたのは彼の生い立ちのせいでもあった。決して聞くのが怖かったわけではない。


 彼はなかなか壮絶な経験をこれまでにしてきたらしい。

 初めて出会ったお見合いの席で、「あとは若いお二人でごゆっくり」なんて定番のセリフでお見送られたあとのこと。

 レモンかパイナップルでも食べたあとみたいに唇を震わせて、教えてくれた。そうしなければいけないことのように彼は重い口を開いた。





 ***



「すみれさん」


 彼の声が呼ぶ私の名前は文学小説に出てきそうなほど、軽やかで重厚感がある。相反した表現に思えるだろうけど私にはそう聞こえるのだ。そうして呼ばれる名は例えどこのどんな人に呼ばせても、こんなに幸福に感じられることはないだろうという風に聞こえる。


「はい。なんですか?」


 尊い音に呼ばれた名前を噛み締めるように私は振り向いた。きめの細かい透明な肌を持つ彼はどこか儚げだ。ひょろりと伸びた背は見上げるほど。だから私はいつも一歩下がって彼と話す。上げっぱなしにすると長いこと彼の顔を見て話せないから。


「今日は外食にしようか」

「あら」

「……もう用意しちゃった?」

「…………準備だけは。あ、でもなまものはないので、あとでご飯だけ炊いて仕舞えば大丈夫ですよ」

「そっか。ごめんね。でも今日は外で食べよう」

「はい」


 突然の外食。結婚してから、数えるほどしかないそれ。珍しいこともあるものだ、と私は思った。

 もともと彼は外出することが少ない。もちろんきちんと就職をして仕事をしている人だから毎朝きっちり出勤していく。私が言っているのは私的な場合のことだ。

 お見合いから始まった三ヶ月のデート期間、平均して月三回の外出は彼にとってはイレギュラーなことだったようだ。

 結婚してからデートらしいデートはこの外食くらいなもの。どちらかといえばインドアな私は嫌だと思うこともなかったけれど友人たちに言わせれば「愛が足りない」のだという。


 はたして彼は私を愛しているのか。


 ふってわいたような、それとも心の裡にずっと潜んでいたような、この疑問は、この何不自由ない結婚生活とイコールで結ばれていた。

 私だけが幸せで、満足したこの関係は、私が彼を利用しているだけのように思えて仕方なかった。


 私は彼と結婚する際に寿退社した。望んで辞めたわけではない。が、無理矢理辞めさせられたわけでもない。

 彼が「うちにいる家族を見てみたい」と、ぽつりと漏らしたからだ。

 だから未練や辞めた後の経済的な不安は多少あったけれど、すっぱり辞めたのだ。辞めて専業主婦になった。

 今の時代、家でできる仕事もいくつかあり。まあ金銭面では彼は思った以上に稼いでいたので、やらなくてはならないほど逼迫もしなかったのだけど。

 ただ、意外とこの生活は時間を持て余すので簡単でノルマの低い内職を始めた。どちらかというと趣味に近い感覚だ。なので月の収入は微々たるもの。ちりも積もれば山となるともいうし、そのヘソクリは貯めていつか彼のために何かプレゼントしようと思っている。

 彼から預かったお給料で、そういうことをするのはどうかと思ったのだ。なのでほぼ無収入の私は結婚してから彼に贈り物をしたことがない。

 それもあんまりな話だ。だからいつも働いてくれている彼に感謝したい時は「二人のため」と言ってお金を使う。「彼のため」では彼は喜ばない。「私のため」では私が喜ばない。故の折衷案なのだ。



 彼があの妙に可愛い車に乗せて連れてきてくれたのはあるホテルの懐石料理の店だった。

 とても見覚えのある場所。懐かしいと言ってもいいかもしれない。

 紛れもない、私たちが最初に出会った、あのお見合いの会場。しかもまったく同じ部屋に通された。

 雪見障子から見える景色は変わりなく見え、遠くからししおどしの清涼な音が聞こえた。


「……今日は特別なことでもあったかしら?」

「すみれさん、覚えてないの?」

「え、だって誕生日はまだでしょう。結婚記念日はまだ先だし……。あっ、お見合いした日でしたっけ?」

「ううん、違うよ」

「ええと……じゃあ他には何がありましたか」

「……今日はね、俺たちが付き合うことになった日だよ」


 彼はとても淋しそうに笑った。まるで自分だけが思いを募らせているような顔で笑った。

 その時、私が彼を傷つけてしまったのだとはっきりと自覚した。


 コースになった料理が適度な間を置いてやってくる。さすが頭に高級とつくだけあって、時間の置き方が的確だ。待たせずかといって早すぎもせず。その絶妙な間が今だけは憎かった。ほんの隙間にできる無言の空間が辛い。

 彼は怒っているような、悲しんでいるような、よくわからない顔をして黙々とご飯を食べている。味は美味しい。でもとても楽しめるような空気ではなかった。


 私たちに恋人期間、というものはあまりなかった。しいて言えばお見合いをして付き合い始めてからをスタートとして、プロポーズされるまでのあいだだろうか。結婚を決めてからは婚約者だったし結婚をした後は伴侶だ。伴侶以外は時間にするとかなり短い。

 その僅かばかりの時間のことを忘れたわけではなかった。私にとっては初めての恋人だったし、初めての両想いだと思っていたから。とても幸せで大切な思い出だ、今となっては余計に。

 彼に付き合いましょうと言われたその日、私は幸せの絶頂にいた。確か三度目か四度目のデートのときだったように思う。彼は会うたびに私の路線のホームまで見送りに来てくれた。そのころ私はすでに好意を抱いていて……いや、ほんとは初めから好きだったのかもしれない。彼の澄んだ瞳を見たあの時から。

 閑話休題。電光掲示板はあと十分で次の電車が来ると示していた。それを確認した彼は、また唇をわななかせて言ったのだ。「お付き合いしましょう」と。私は一瞬にして顔の血の回りをよくさせて、ただ「はい」と呟くように答えた。

 それに彼が何か言おうとした時、プアーンと音を鳴らして電車がホームにやってきた。動転していた私は扉が開くと同時に反射的に乗り込み、別れの言葉ひとつ残さず帰ってしまった。

 次に会う約束をしていてよかった。私がそう冷静に思えたのは、電車がホームから過ぎ去ってしばらくのことだった。

 どうしてその大切な日のことを忘れていたのだろう。私はそう自分を叱責した。そして思い出した。どうして忘れてしまっていたのか。忘れてしまった(・・・・)のではない。意図的に思い出さないようにしていたのだ。そのうちに本当に忘れてしまった。思い出すその理由。


 ──それは、あまりにも冷めた彼の瞳の色。


 冴えきったその目は、恋情に浮かされたものではなかった。義務感、とでも言えばいいのだろうか。そういう目を、していた。


 だから本当に結婚してしまうとは思っていなかった。そのうちフラれて、私は傷も癒えぬままにまたお見合いをするのだろうと。しかし予想は外れ、私は今も彼と共にいる。家族として。


 彼は家族に恵まれない人だった。お母様は産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなってしまったそう。お母様を溺愛されていたお父様はそうして生まれてきた息子を愛すことができないまま彼が三つの時に亡くなった。そこからは親戚をたらい回しにされ、ようやく落ち着いたのが市の養護施設であった。親戚からは厄介者扱いで謂れのない暴力や食事抜きなどの虐待があったという。施設についた時の彼の体重は平均よりもずっと少なかったそうだ。

 それでも野たれ死にすることなく生き延びられたから恨んでいないと言った彼に私は思わず泣いてしまった。同情とも憐憫とも違う。あの時はわからなかったが、今となってはわかる。彼がここまで生きて、私と出会えたことに対する喜びの涙だ。

 養護施設を出た後は何の後ろ盾もないまま住み込みで働きつつ夜間の高校に通い、貯めたお金で大学も出たそうだ。進学するつもりのなかった彼に、住み込みで働いていた工場の社長さんと奥さんが勧めてくれたという。

 そして彼はその人たちの養子になった。そこまで世話になりたくないと言った彼に、「家族と思わなくていい。困った時に駆け込める寺くらいに思ってくれればいい」そう言ったそうだ。彼は生まれてきてから赤ん坊の時を除いて、初めて泣いたと言った。


 何年か働いて、働いて。ある日、養父となった社長さんが倒れた。慌てて病院に向かった彼に養母の奥さんは余命宣告をされたと告げる。呆然と病室に入った彼に、養父は言ったそうだ。「男は結婚してこそ、一人前だ」と。

 それを古い考えだと一蹴することなく、彼のお嫁さん探し・見合いの旅は始まったのだ。しかしなかなかうまくいかない。私は一つ質問をした。


「毎回お相手にこのお話を?」


 頷いた彼に呆れればいいのか、誠実だと感心すればいいのか。私は少しだけ迷った。このとき当然ながら私たちは初対面だ。にも関わらずだいぶ腰の乗った重いパンチを食らわされたものだと思う。毎回これじゃそりゃあ上手くいくものもいかないだろう。こんな先制攻撃を食らってしまえばね。



 結果として彼は最初で最後の親孝行が出来た。私たちが結婚して、数日後。養父は安心したように逝った。その場には私もいた。短い付き合いになってしまったけれど、私にとってもその人は“父”であったから。一人残されてしまった養母に彼は一緒に暮らそうと言ったが養母は断った。


「新婚さんの家庭のお邪魔にはなりなくないわ」

「邪魔だなんて思いません!」


 そう言ったのは私の本心だった。でもお義母さんはふんわり笑って、「じゃあそのうちね」と言った。そのうちは五年経った今でもまだやってこない。



 私たちのあいだには甘いわた菓子のような愛はなかった。あるとすればそれよりももっとしっかりしたカラメルみたいな愛。



 ***



 プロポーズのあった十回目のデートはドライブだった。目的地は彼の実家のお墓があるところ。彼が私を紹介し、二人で掃除をしてお線香を供え花を飾った。トルコキキョウやデルフィニウムでまとめられた爽やかな青い花束だ。仏花らしくはないけれど、とても綺麗で気に入っている。彼の両親は気にいるだろうか。


「きれいだね」


 彼が微笑んでいるから私はそれだけで十分だと思った。



 普通のデートなら重いこのデートコースも、私たちは一応結婚前提のお付き合いだから別段重いとも面倒だとも思わなかった。むしろ彼の真面目さや誠実さを改めて実感したいい日だった。それに私はもっと重いことを初対面で経験している。このくらいなら軽いジャブみたいなものだ。

 インターを抜け少し大きなサービスエリアで食事をし、見慣れた街並みに帰ってくる頃には夕日が沈んでいた。


「少し、寄り道してもいいかい」


 時間を気にするほど子供でもなかったし、何かただならぬ予感を覚えた私は迷わず頷いた。

 繁華街を抜け住宅地を少し進んだところで彼が車を止めた。どうやら大きな公園の駐車場らしい。人気はなく閑散としている。

 車を降りて彼はまっすぐにどこかを目指す。暗くてよくわからないけど丘らしきものを登りきると、そこには夜景が広がっていた。

 私たちの住む街の明かりが幻想的なイルミネーションのようだ。魅入っている私の隣でごくりと音がする。私は何事かとそちらを見た。


「け、っこん、してください」


 ──なんてベタな。


 余裕ぶってる脳内と現実には齟齬がある。私は口を何度もあわあわさせて、ようやく「はい」と漏らしたのだった。第三者的な別の私が呻き声みたいだと冷静に突っ込んだ。





 ***



 気まずい懐石料理を終えて帰宅する。運転する彼はもちろん、私もお酒は飲んでいない。彼は飲んでいいと言ったけど飲まなかった。飲めないわけではない。強くもないが。ただ今日ばっかりは酔えないと思ったし酔ってなんちゃってと流すのも卑怯な気がした。


 私と彼は一度も愛の言葉を交わしたことがない。それは私が一番気にしていることであり他人行儀を崩せない理由でもある。


 今日の昼間のことだ。



「愛の言葉を、ぼくは知らない。」



 彼はそんなことを言った。すぐに引用だとも言った。小説の中でそのセリフを言った人は母親に捨てられた偏屈な小説家だった。彼は自分に似ているというその小説家のセリフを真似た。

 その小説を私も以前読んでいる。結婚する前のこと、まだ彼を知らなかった時のこと。彼を知って思い返す。果たして彼がその小説家に似ているかと。


 ──似ていない。それが結論だ。


 別の人が書いた小説も思い出す。そこではダメな夫を持つ老女が言っていた。


 手段は違っても愛を伝えてくれる男が好きなのよ。


 思い合っていることがわかるのが一番だと言う。


 彼が表現してくれる言葉以外のあれこれは、確かに私に伝わっていた。もしかしたらそれを人は愛と呼ぶのかもしれない。でも。


 私は言葉も求めてしまった。どうしても、不安が付きまとうのだ。明確な答えが欲しかった。


 この結婚は愛ではなく、同情と親孝行のためと。思ってしまう。愛は愛でも熱愛や情愛ではなく、親愛や友愛ではないのかと。

 だから昼間の彼のセリフがずしんと利いた。同時に恋人になった日のことが蘇る。あの義務的な瞳。気分的にはノックアウト寸前だ。彼のパンチはいつもいいところによく当たる。


 無言のまま帰宅して、私はお風呂を入れた。ひどく疲れた気がした。無心で浴槽と浴室を洗い湯を張る。二十分もしないうちに沸くだろう。それから台所に入ってタイマーを掛けいった炊飯器を開く。保温された炊きたてのご飯を惜しげもなく冷凍庫にぶち込んでいればお風呂がメロディアスに鳴いた。


「お風呂はいりました。お先にどうぞ」

「…………君は、」


 台所に背を向けたソファーに座った彼は後ろを向いたまま喋った。


「俺といるのは嫌か」


 あんまりな言葉だと思った。


「嫌だと言ったらどうするんです?」


 傷ついた私はその痛みに振られるように意地悪な言葉を吐いた。こんなことを言ったらこの人が傷つくのはわかっていたのに。馬鹿な私はナイフを振った。


「……別れよう」



 ああ、私はなんて愚かなんだろう。死ぬ気もないのに自分で自分にナイフを突きつけてしまった。絶望というナイフが私の胸にふかあく、突き刺さった。




 温かなお湯の温度も今は虚しい。私は自分の愚かさをかみしめるように、私が知る中で一番あたたかいものを思い出した。


 彼のてのひらの温度だ。


 実は私たちは五年も共に暮らしていて、一度も床を同じくしたことがなかった。いやベッドは同じだったけれど。夜の営み、交合、共寝、情事。言葉は色々ある。意味するものはどれも同じ。つまり私たちには性的なまじわりが一度もないのだ。セックスはおろかキスもない。

 初めは結婚するまではと思っていた。彼もそんなそぶりもなかったし誠実な人だから、と。だがいざ結婚したとなって早五年。その兆しはいっこうにこなかった。ここまでくると悟りの境地だ。

 ああ、彼は「家族」が欲しかっただけなのだと。妻という肩書きを持った人間が必要だっただけなのだと。

 そう思ってから私は一層妻という仕事に励んだ。彼の隣にいる権利を独占しているために。彼の望みを叶え続けるために。

 側にいればいつかは彼の気持ちも私と同じベクトルになってくれるかもしれないと馬鹿みたいに思っていた。


 結局五年かかって破局なんて。彼は部屋を出ていってしまった。湯気と一緒にため息が霧散する。


 お風呂を出ても部屋には人の気配がなかった。彼はどこに行ってしまったのか、検討もつかない。

 一人になることがあまりなかったリビングは、独りぼっちにはとても広く思える。これで終わりなんだろうか。終わってしまっていいのだろうか。

 私ばっかりが幸せだった五年だった。最後になるのなら、一つだけ、聞いてみたいことがある。

 別居するにしろ離婚するにしろ、一度会って話をしなくては。


 電話をする勇気はなく、私はメールを送った。


「話がしたい」




 返信が怖くて、電源を切って眠る。二人用の広いベッドは風呂で温めたはずの体を容赦なく冷やした。





 彼が指定した喫茶店に入ると入口のほど近い場所に彼はいた。日に照らされた彼がなんだかとても綺麗に見えて私は言葉をなくす。今日でほんとうに終わりなんだろうか。悔恨が胸をよぎった。


「お待たせしました」

「いや、時間通りだ。何か頼むか」


 彼が店員を呼ぶ。若く可愛らしい女の子が来て私はアイスコーヒーを頼んだ。珍しいものを頼む私に彼は少し驚いたようだった。普段はもっぱらお茶党なのだ。


「コーヒーも飲むんだな」

「稀に」

「五年もいて知らなかった」

「そうですね。コーヒーは決まった時にしか飲まないから」

「……どんな時なんだ?」


 躊躇いがちに問われた。私がコーヒーを飲む時。それは、極度の緊張を伴う時だ。恐怖や不安というマイナスの感情を苦いという負の感覚で相殺しようという何の根拠もないマイルール。

 彼といる時は、不思議なことにそういうストレス状態にはならなかった。だから彼の目の前で飲んだことがない。


「……そうか。それは、良かった。君に恐怖されていたとは思いたくないからな、っと、今は違うのか」

「なにも、違いません」

「でも、頼んだよね、」

「コーヒーは頼みました。私は確かに緊張しています。でも貴方のせいじゃありません」

「じゃあどうして?」

「────聞きたいことが、あります」


 私の表情につられたのか彼も今まで見た中で一番緊張した顔で頷いた。


「なんでも、聞いて」


 その優しさが嬉しかった。



「私のこと、好きですか?」



 一世一代の告白をしたような気持ちだった。彼は苦い顔をしている。まるで聞かれたくないことを聞かれてしまったみたい。




「……………わからない」


 彼がそう答えたのは私のアイスコーヒーが来てガムシロップとミルクを入れ終え、飲むに飲まれずただ見守っていたグラスが汗をかき始めたころだった。表面には氷が溶けてできた透明な層が浮かんでいる。私はそれを少し残念に思うふりをして彼の言葉を反芻した。


「君に思う感情をいったい何にはめればいいのか、わからないんだ」


 愛されたことがない。彼の声は淡々としていたけど、ひどい雄叫びのような悲惨さと慟哭が入り混じっているように聞こえた。

 そこには三歳で天涯孤独になってしまった小さな子供がいる。肉親の愛を知らない子供は誰を愛し誰から愛されればよいのか、わからないまま大きくなってしまった。彼は、誰かを愛し、愛されたいのに。


 私は唐突に彼のあの言葉が違う意味を持っていることに気づいた。


 彼は自分が愛の言葉を知らないことに気づいた。どうして「知らない」と気づいたのか、それは、彼には愛があって、誰かにそれを伝えたいと思ったからだ。

 伝えようと思って、そして、自分が伝え方を知らないことに思い至ったのだ。


 言葉は手段だ。方法のひとつ。伝え方はひとつではない。


 私は彼に愛がないのだと、思っていた。だからあんなことを言ったのだと。君に差し向ける愛の言葉などないと言われた気がした。ずっとそうなんじゃないかと疑っていた心が、思い込みが、拍車をかけた。


「料理を美味しそうに食べてくれるとこ」

「え?」

「実は運転するのがとっても好きで、ペットボトルについてるグッズを集めるのがすきなとこ。ひなたぼっこが好きでついつい寝ちゃうとこ。私のお勧めを読んでくれるとこ。感想言ってくれるとこ。ただいまって言ってくれるとこ。クシャって笑っていつもありがとうって言ってくれるとこ。たまにご飯に連れて行ってくれるとこ。洗濯物たたんでくれるとこ。映画を見ると隣で手を握ってくれるとこ。おやつのポップコーンを作ってくれるとこ。私の目の前で楽しそうに笑ってくれるとこ。辛い時も幸せな時も一緒にいてくれるとこ。全部全部ひっくるめて、あなたの好きなところ。これが私の愛の言葉です。別に言葉じゃなくてもいいです。手を握ってくれたり、ぎゅってしてくれたり。ただ、それだけじゃわからないこともあるから人は言葉を使うんだと思うんです」

「俺は…………」


 何かを言いかけて、言葉に詰まって彼は俯いた。教えて欲しい。ゆっくりでいいからあなたの言葉で。


「爽太さん。私のこと、どう思いますか。これからも一緒にいたいって、思ってくれますか。それともこのままさよならをしますか。私は一緒にいたい。でも爽太さんが嫌なら……それでも私への思いがわからないなら……別れましょう」


 俯いたまま私の愛を聞いていた彼は少し体を震わせる。私は一瞬彼が泣いてしまったのかと思った。


「……君のいないベッドは、広くて冷たかった。朝起きて君の作る朝食の音がしない部屋は死んでいるみたいだった。顔を洗って見た鏡には病人みたいな俺がいて、たったひと晩君と離れただけなのにひどく窶れていた。このまま君のいない時間が増えるのかと思ったら、いっそ止まって欲しいと思った。君のいなかった人生の方が圧倒的に長いはずなのに、たった五年。君がいてくれた時間の方が何倍も価値があった。……ねえ、教えて欲しい。これが俺の愛なんだろうか?」


 水滴のたまった瞳には、義務感なんてこれっぽっちもなかった。


 時間に置き去りにされてしまった大人の彼の心が立ち尽くしたまま私に問いかける。




「私はそれを、愛と呼びます」







 喫茶店の窓から私たちに優しい日差しが降り注いだ。それは決して淋しいものなんかじゃなく、ひたすらに優しい温度であった。






 END


爽太さんの台詞は実在します。私が近年一番好きな小説です。その言葉にインスピレーションを受けガーッと書きました。


お読みくださりありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 二人の淡々と過ごした日々がどのようにして二人の記憶として残っていったのかそれが伝わってとてもおもしろかったです。
[一言] 初めまして。 この二人のその後が読みたくなりました。 ほのぼのとした日常の一コマとか、二人の家族が増えた話とか。
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