4 不幸の手紙(1)
「ライラ・マユロウ」
そう呼ばれて振り返った。
私にしては珍しく木陰でのんびり空を見ていたのだが、私を呼んだ人物は恭しく、だが容赦なくくつろいだ時間に入り込んできた。
「ライラ・マユロウ。お屋形さまがお呼びです」
「そう。ご苦労様」
よく晴れた空を見上げ、白い雲をもう一度ぼんやり見てから立ち上がった。
私は動きにくい服は嫌いだ。だから普段は男装している。
ドレスを全く着ないということはないが、よほどのことがないかぎり着ない。幸い私は男性並みに背が高いので、我がことながら男物の服はよく似合うと思う。私はそういう女だ。
こんな二十三歳が近くなった男勝りな女を、わざわざ「悲劇」と結びつける想像力の豊かさには脱帽するが、父の言葉を伝えてくれた家宰も私に同情してくれた一人だ。幼い頃から私のことをよく知っているはずだが、男というものは意外に夢見がちなのかもしれない。
服についていた草を軽く払った私は、軽く伸びをしてから歩きだした。
私がいた木陰は館から少し離れた丘にある。だから父に会うためには少々歩かなければならないのだが、そのわずかな間にも館で働く者たちや、館を訪れている領民たちに会うことになった。
「ライラ・マユロウ。よいお天気ですね」
そう声をかけ、素朴な笑顔を見せているのは、隣町の責任者。彼にはお忍びのときによく世話になっている。
「ライラ・マユロウ。新しい生地が入りましたよ」
廊下で恭しい礼をしたのは、父の側室たちのためにやって来ている仕立屋。私にドレスを着せたがる一人だが、宝飾にあまり興味を持たない私も気に入りそうな生地やデザインの服も用意してくれる。
「ライラ・マユロウ。お屋形さまは執務室においででございます」
そう教えてくれたのは、私よりも少し年下のかわいい顔をした侍女。都から来た貴族に求愛されていると聞くが、彼女に愛人という地位は似合わないから、不実な貴族の恋は実らないだろう。
それにしても、みな私を同じ名で呼ぶ。
ライラ・マユロウ。
敢えて言うのなら「マユロウ家の御令嬢」というところか。わが国では慣習化している古い言葉で、貴人の娘を指す呼称だ。本来は「貴族の御令嬢」を指していた言葉は、裕福な商人から領主級の貴族まで幅広く使われているらしい。
私の場合は母が父の正妻だから、嫡出の娘という意味で「ライラ・マユロウ」と呼ばれている。しかも父の嫡出の子は私一人だから、今ではほとんど固有名詞だ。純粋に尊敬の念が込められている呼称だから、特に嫌いではない。
私はいつものように父の執務室の扉を叩き、返事を待たずに中に入った。
返事など待っていたら、日が暮れるまで立ち尽くすことになる。待って待って、待ち続けた揚げ句に、部屋から出てきた父に笑われるのだ。
実際、家宰が警告するのを忘れてしまって父に笑われるはめになった賓客は少なくない。
「父上。カジュライアです」
私は窓際の机にいる父に声をかけた。
優雅な服を着た先客がいるが、そんなことを気にするようではマユロウの名は名乗れない。
「これは、ライラ・マユロウ。お久しぶりでございます」
優雅な服を着た男はにこやかに頭を垂れた。
うっとりするほど洗練された物腰の、極めて端正な顔立ちの男だ。黒髪が主流のこの辺りでは目立つ赤髪で、都に住む父の再従弟アルヴァンス殿だ。
初対面の女性なら惚けたように見入ってしまう外見だが、私にとっては昔から見慣れた人だ。今さら気を使う相手ではない。
「御幼少の頃からお美しく聡明であられたが、少し見ない間にまた一段とお美しくなりましたね。あの悲劇の日々は無駄にならず、ますます悩ましく輝かしい。毎日見守っているマユロウ伯がうらやましい」
「アルヴァンスよ。これの外見にだまされると痛い目にあうと、誰よりも知っているであろうに。中身は相変わらずマユロウの血が濃いゆえな。色気はないが、酒には極めて強くなった。女であることが実に惜しい」
父はそう言って豪快に笑った。
アルヴァンス殿はそつのない穏やかな笑みを浮かべるが、私には好意的な笑顔をちらりと見せる。
いつもながら全く似ていない再従兄弟だ。
父は今でこそ「伯爵」という地位は持つが、もともとこの辺りを力で手に入れた豪族が祖先だ。
私がごく幼いころ、隣領のエトミウ家と争っていた。その原因はまことに些細なことで、武力衝突に至るほどのものだろうかと訝しむ程度だった。だから本当の原因は、双方の当主一族の血が騒いだからではないかと怪しんでいる。
我がマユロウ家は、そう言う猛々しい血族だ。いや、この辺りの領主貴族は同じ民族だから、色素の薄い都の優雅な貴族たちとは根本的に全く違う。
今も、都の貴族であるアルヴァンス殿は優美な貴族らしい服を着ているのに、父は「豪族」の名にふさわしい実用本位な服を着ている。壁には手入れが行き届いた武器が飾られていて、そのほとんどが父の愛用のもの。
そんな中にいる父は、マユロウ伯という名より、傭兵隊長というほうが似付かわしい。
またアルヴァンス殿は、服装だけでなく身のこなしも優雅そのもので、これぞ都の貴族という姿だ。
母君が絶世の美女と名高かったと聞いているが、祖父の従弟である男が、出会ってすぐに全霊で守らなければ!と心に誓うほどたおやかな貴族令嬢だったらしい。
気の毒にもご両親は早くに亡くなっていて、アルヴァンス殿は母君の家を守る形で都の貴族の一人となっている。
完璧な都の貴族の外見だから、野蛮な傭兵隊長もどきの父と気が合うようには見えないが、これが意外に仲がいい。父が都に行ったときも、アルヴァンス殿がこの館に来たときも、放っておけば夜が明けるまで酒を酌み交わしている。
それを考えると、都で名高い優美な貴公子は、本質的にはマユロウなのかもしれない。
そんなことを考えている間に、父とアルヴァンス殿は酒談義を始めていた。
どこまで酒好きな男たちだろうか。私はうんざりしながらイスに座った。呼び出されたのは私なのだが、こうなったらしばらく待つしかない。
そう決めた私はテーブルに載っていた果物を取り、ナイフで二つに切ってそのままかじりついた。甘い果汁が口に広がり、さわやかな香りが室内に散る。
その香りに、アルヴァンス殿が振り返った。果肉に大胆にかじりつく私を見て、眉を優雅に動かした。
「……ライラ・マユロウがすることは、どんな姿もお美しい」
「素直に、はしたない、と申されよ」
私は少し笑って言う。
父はもっと笑った。
「こういう娘だから、婚約者に逃げられるのだ。それなのに、お前を求める男はいるから不思議だな」
父はそう言って私を招いた。
私は嫌な顔をしたと思う。私が呼ばれた理由を悟ったからだ。
残っていた果肉を素早く食べ尽くし、部屋の隅にあった水差しから鉢に水を移して手を洗う。
それから父の前に立つ。
父が示したのは、執務机の上に並べた美しい紙に立派な封印を押している三通の書簡だった。
「見ろ。夫候補が三人も現れたぞ」
「三人もですか。さすがライラ・マユロウ」
アルヴァンス殿は褒め言葉らしいことを口にした。残念ながら、私は少しも嬉しくならなかった。