30 運命のままに(2)
父の合図で、定めの儀式の間は一気に宴の間に変わった。
メトロウド殿は早くも葡萄酒を飲み始め、ルドヴィス殿は酒の種類をいろいろ試しているようだ。ファドルーン様は父と何か話している。
私の前にも銀杯が置かれた。
とりあえず落ち着くために葡萄酒を飲み、一息ついてからまだ青ざめたまま黙り込んでいるアルヴァンス殿の銀杯にも葡萄酒を注いだ。
「……あなたは、皇帝陛下のお気に入りなのですか?」
「密書を託される程度には」
そうだった。
なぜ忘れていたのだろう。最初のミウ=トラスガーンの紋章付きの書状は、アルヴァンス殿からもたらされていたのに。
それに、最初からファドルーン様は言っていたではないか。皇帝陛下の私室で顔を合わせていた、と。あの時、ファドルーン様は遠回しに教えてくれていたのだ。
迂闊だった。
だが求婚者たちに振り回されていた私はともかく、意外に細かいことに気付く父が気付かなかったはずがない。
そう思い至ると、今度は父への苛立ちを覚えた。
ファドルーン様から離れたら、父に文句を言いに行こう。
そう心決めつつ、葡萄酒を続けざまに飲み干した。さらに葡萄酒を注ごうとしたとき、アルヴァンス殿が止めるように私の銀杯に指をかけた。
「飲み方が早過ぎますよ」
「今日は酔いたい気分なんだ」
「いけません。今日はだめです。彼らの前で酔って欲しくない」
まだ青ざめていたが、アルヴァンス殿は頑なにそう言って、私から酒杯を取り上げた。
しかし、すぐに自己嫌悪するように銀杯から手を離した。
「私が飲むなと言うのも矛盾しますね。あの日マユロウ伯と飲み比べなどしなければ、あなたの求婚者に加わることはなかった。そうすればあなたを皇帝陛下に近付けるような事態にならなかったかもしれない」
「つまり、私との結婚は望んでいなかったと?」
アルヴァンス殿が求婚者に加わったのも、今日のくじ引きに加わったのも、父に強要されたものだ。だから本当は私の夫の座など望んでいなかったのかもしれない。
次期マユロウ女伯の夫と言う地位は、安定はしているがそれだけだ。
「……あなたは帝国大学院の教授になりたいのか?」
「なりませんよ。誰からそんな話を?」
「ファドルーン様だ。あなたは帝国有数の秀才だそうですね」
「人より知識が多いだけです。だから天才の巣窟は居心地が悪いんです」
そういうものなのだろうか。
あいにく、私は次期領主ではあるが凡人なのでよくわからない。
だから、ずっと気になっていた事を口にした。
「酒の入ると私に言い寄っていたが、あれは何だったのですか? 嫌われてはいないと思っていたのは私の自惚れですか?」
「それは……あなたに求婚者ができたから……」
初めて動揺を見せ、アルヴァンス殿は途中で口をつぐんで黙り込んでしまう。
その煮え切らない様子に私は無性に苛立ち、胸ぐらをつかもうとした。
その時、目の前の床に酒樽が置かれた。
顔をあげるとメトロウド殿と目が合う。繊細な美貌と武人の手を持つメトロウド殿は、アルヴァンス殿の横にどっかりと座り込んだ。そして私に、ハミルドそっくりの笑顔を向けた。
「本当はライラ・マユロウを酔いつぶして連れ去りたいところだが、私もエトミウを名乗る一人。定めには従う。だが腹が立つのは止められぬゆえ、慣例に従って一番幸せな男を妬むことにしよう。……アルヴァンス殿、覚悟はよろしいか?」
見れば、いつの間にかルドヴィス殿も前に座っている。カドラス家の貴公子は父マユロウ伯秘蔵の蒸留酒を探し出して持ってきたようだ。見慣れた小さい樽を小脇に抱えている。
父に目を向けると、あの豪胆な父が顔を強張らせていた。母やご側室たちが父を裏切って蒸留酒を差し出したようだ。
いい気味だ。
少し溜飲が下がった。
ようやく夜の闇が広がった頃。
真昼間から始まった宴は、事実上の婚約披露宴として長々と続いていた。
山のような酒と料理のほとんどが消え、婦女子の姿はいつもの酒宴より早く消えていた。
そんな中で、私は主役として宴の間に留まっている。
もう一人の主役であるアルヴァンス殿は、すでにまっすぐに立てないほど酔いのまわった状態になっていた。
……そこまではいい。こういう場ではよくある光景だ。
だがしかし、どうして私はアルヴァンス殿に抱き込まれているのだろう。
ため息をついた私は、救いを求めて騒々しい周囲を見渡した。
メトロウド殿は先ほどから父と一緒に、剣舞とも剣術訓練とも判じ難いものに興じていた。ルドヴィス殿は私の母と花嫁衣装について熱心に論じていて、どちらも私から離れた場所で背を向けている。
最後の救いとばかりにファドルーン様を探したが、皇帝陛下の甥御殿は少し離れた場所からつまらなそうにこちらを眺めているだけだ。
つい先ほどまで異母弟カラファンドが近くにいて、三人が人格者で良かったとかマユロウの破滅の日になるかと思ったとか、そんなことを言いながら泣いていたのだが。肝心な時にいなくなる。
「アルヴァンス殿、しっかりしてください」
仕方なくアルヴァンス殿を介抱することにした。
アルヴァンス殿は意識を手放す寸前のようだ。ぐったりと壁際の長椅子に沈んでいる。
その一方で、私の体に回した腕の力だけは緩まない。たおやかな貴婦人なら気絶しかねない力だ。幸い私は頑丈で、アルヴァンス殿が滑り落ちない程度に支える腕力もある。
それでも、飲ませた人間が最後まで責任を持って欲しいと思うのは我がままだろうか。
ついファドルーン様をにらんだが、見守るだけで義務は果たしているとでもいうように、無責任な笑顔で酒杯を掲げられてしまった。
もう何度目かわからないため息をつき、私はアルヴァンス殿の背中をぽんぽんと叩いた。
「アルヴァンス殿。寝るのなら部屋に行ってください」
「……あなたの寝室に連れて行ってくれますか?」
私を抱きしめる腕に、また力がこもった。肩にもたれかかっていた頭が少し動き、私の首に鼻先をすり寄せてくる。私はそれを容赦なく押しのけた。
「私の部屋は救護室でも拘留所でもない」
「ならば、このままがいい。あなたの体温を感じながら眠りたい」
……今日初めて、アルヴァンス殿に口説かれた。
酔えば老若問わずに口説いていたから、今日はずいぶん遅かったのだなと考える。今までずっと三人がかりで飲まされていたのだから当然なのだろうが、やっといつものアルヴァンス殿になったようだ。
そんなことをぼんやり考えていると、アルヴァンス殿はよろけながら顔をあげ、私の頬を両手ではさみこんだ。
「本当に私と結婚するつもりですか?」
「定めに従うのが我がマユロウだ。あなたはお嫌なようだが」
「……嫌ではありませんよ。本当は嬉しいんだ。でも私には皇帝陛下を拒絶できる力はない。マユロウの援助がなければ立ち行かない貧乏貴族で、誇るほどの資質もない。あなたを支えることも守ることもできない。こんな情けない男は……あなたのそばにいる価値はない」
銀水色の目を伏せて、極めて端正な顔を苦しそうに歪ませる。
こんなアルヴァンス殿は初めて見た。素面でも泥酔でも、前向きで明るい顔を貫いていたのに。今までこんな顔を隠していたのだろうか。こんなつまらないことを気にしていたのだろうか。
「今日のアルヴァンス殿は少しおかしいな。悲観的すぎる」
「飲みすぎたんですよ。あの方々は手加減を知らないから。……だめだ、あなたに何を言うべきだったか、わからなくなってきた」
ふらつきながら私の肩を椅子に押しつけ、アルヴァンス殿は私に顔を寄せてきた。
反射的に逃れようとしたが、両頬を固定されて動けない。
赤い髪が私の額に落ちてきて、彼の荒い吐息がまぶたにあたる。ふらふらと目元や鼻先に触れた唇は、私の抗議の言葉を封じるように深く口付けてきた。
酒の味がする唇が執拗に触れてくる。
あまりの息苦しさに、私は押しのけようとした。
しかしそうするより早く、手袋をはめた左手がアルヴァンス殿の襟首をつかんで引き離した。
「メトロウド殿」
「さすがに目に余る。さっさと寝てしまえ」
苛立たしげな舌打ちを聞きながら十分な息をつき、私は冷たい床の上で仰向けに伸びているアルヴァンス殿を見やる。
頭を打っていないだろうかと心配していると、薄く開いた銀水色の目が私をとらえた。
「……カジュライア。あなたが好きだ」
微笑んだアルヴァンス殿は、私の名をことさらゆっくりとつぶやいた。
しかし目は再び力を失ってまぶたに隠れ、そのまま寝てしまった。
その姿を冷たくにらみつけ、メトロウド殿は右肩に担いでいた抜き身の剣を一振りして歩き去った。
宴の間に、また剣を打ち合わせる音が戻った。騒々しい歓声があがる。聞こえてくる名前は、メトロウド殿とカラファンドだ。父の剣舞以上に激しい音が響いているから、二人で本格的な剣の打ち合いをしているらしい。
しかし私は、そういうことが全く気にならなかった。
端的に言って、私は動揺していた。
……なんてことだろう。
私はアルヴァンス殿に口付けされたことより、名前を呼ばれたことに落ち着きを失っていた。
どんなに酔ってもライラ・マユロウとしか呼ばなかった彼が、初めてカジュライアと呼んでくれた。今はハミルドもそう呼んでくれないのに。
もしかして、彼は今後ずっとカジュライアと呼ぶのだろうか。
ああ、そうに決まっている。彼は私の夫になるのだから。
急に頬が熱くなる。いつの間にか横に来ていたルドヴィス殿に注がれるままに、私は葡萄酒を続けて三杯飲み干した。
私の夫は決まった。
だが、三人の元求婚者と都の皇帝陛下は、私をそっとして置いてはくれないだろう。
もちろん私も、ただ座って待っているだけの女ではない。すべてを利用して我が身とマユロウを守る。私はそういう女だ。
かつて悲劇の女と呼ばれた私だから、今度は五人の男を手玉に取る悪女と呼ばれるかもしれない。
私は気の合う夫を得て、領主としての人生を全うしたいだけなのに。分不相応な求愛者など、いいことは一つもない。
こんな訳のわからない状況なのに、床の上で酔いつぶれて寝ているアルヴァンス殿を見ているとなぜか心が温かくなる。笑みが浮かび頬が赤くなるのは、酔いのせいだけではないはずだ。
私は近くにあった毛布を手に取り、アルヴァンス殿の横に膝をついた。
「……こういう運命は悪くないですよ」
例えそれが不正であったり作られたものであっても、私の運命には間違いない。むしろ好ましい。……アルヴァンス殿の笑顔を失わずにすんだのだから。
かろうじて残る理性でそんなことを考える。私も飲みすぎたようだ。
ふうっと息を吐いた私は、酔いに任せて乱暴に毛布をかけた。
それでも目を覚まさないアルヴァンス殿の赤い髪を指ですくい上げ、毛先にそっと唇を押しあてた。
本文はこれで終わりです。
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