20 風雲急を告げる(3)
久しぶりに出した熱は、なかなか下がらなかった。
正確にいえば、熱がある間は面倒なことがないので、熱を上げていたのかもしれない。ライラ・マユロウを名乗るものとしてはかなり卑怯な手ではあったが、そんなことを真面目に自己批判するほどの余裕はなかった。
メトロウド殿にルドビィス殿と、熱心ではないと思い込んでいた人から急に求婚者らしい言動をされたので、私は起き上がる気力を失っていた。
この調子でいくと、最も切実な事情があるファドルーン様はもっと熱心に求婚してきそうな気がする。あの方が本気できたら、心身共に充実していなければ否というのも苦労するだろう。私が苦手な方面に本気を出されるなど、考えるのも恐ろしい。
アルヴァンス殿も、あの容姿のわりに酒が入ると悪乗りする人だ。マユロウの女性たちのためにも好ましくない宴になりかねない。
そんなことを考えていると、私の熱は上がっていくのだ。
しかし私の体に流れるマユロウの血と丈夫な身体は、長々と寝て過ごすことを許してくれなかった。
一週間は何とかのんびりしていたのだが、いい加減寝ていることに飽きてしまい、私は寝室を出て自室で静養することにした。
もちろん面会謝絶だ。
今度は徹底させた。ライラ・マユロウの名にかけて、私は大袈裟なくらい厳命を下した。
そうでもしなければ、ルドヴィス殿があの魅力的な笑顔で侍女たちを籠絡しかねないし、ファドルーン様が高圧的な態度で押し通そうとするかもしれない。
こうして静かな日々を取り戻した私は、しかし室内にいることにも飽きてしまった。
私は隙を見つけて、こっそり馬をひきだして館に隣接する森に逃げ込んだ。
さすがに病み上がりの早駆けはこたえたが、手綱を緩めて馬をゆっくり歩かせているうちに、ここ数日間で荒んでしまった心が洗われた。
私は求婚者のことだけをたおやかに悩む女ではないのだ。
目的としていた森の中に開けた野原で馬を止め、私は周囲を見回してから馬を降りた。
嵐の後はいい天気が続いたので、優しい香りの花が一面に咲いている。あまりに気持ちが良かったので、私は馬を遊ばせて野原に横になった。
草の香りが心地よい。花に集まる虫たちも好ましかった。
こんなふうに花に集まる虫をのんびり見たのはずいぶん昔の事になる。
その頃の私は、少女というより少年だった。そして私がよく連れ歩いていたのがハミルドだった。どちらが少女かわからないような二人だったが、蝶の羽化を飽くことなく見守ったこともあった。
味をしめた私は色鮮やかな幼虫を捕まえて、美しい蝶になるだろうと期待して毎日観察していたこともあった。地味な蛾になってがっかりしていると、三歳も年下のハミルドに一生懸命になぐさめられたものだ。
思い出し始めると、次々に記憶が蘇る。どれも楽しくて笑いに満ちていて、とても懐かしい思い出だ。
「……あの頃は楽しかったな」
こんなことをしみじみと思い出すなど、私は感傷的になっているようだ。
二年前の決断を後悔したことはない。
私はハミルドを幸せにすると誓っていた。メネリアとの結婚を認めることでその誓いを果たせたと思っている。
しかし微笑み合う二人を見ると、ほのかに心の痛みを感じる時がある。メネリアとハミルドがマユロウ本邸を去ると、部屋が広くすぎると思うこともある。疲れて椅子に座っていると、なぜハミルドがここにいないのかと思ってしまう。
この半年は毎日が賑やかで、すっかり忘れたと思っていた。
だがハミルドは今もなお私の大切な弟であり、大切な友人だ。かつては十八年間一緒にいるのが自然な存在で、一生共に生きていくと信じていた。今のハミルドは、もう私だけのハミルドではない。それを望み、そうなるように尽力したのは私だ。
なのに、時々無性にハミルドに会いたくなる。今さら会ってどうなるというわけでもないのに、ハミルドがいない生活にまだ馴れていないことに気付かされる。
あれからすぎた時間は二年だ。
わずか二年なのか、もう二年なのか、私にはよくわからない。
一つだけはっきりしているのは、今も心に穴があること。この穴はどうすればふさがるのだろう。
仰向けのまま、私は額に手を乗せた。熱はもう出ていない。だが目元が少しだけ湿っていた。
馴れない熱のせいで、私の調子はすっかり狂っている。
私らしくもない。そうわかっていても、なぜか涙が止まらない。
……まるで悲劇にひたる貴婦人のようだ。
そう思うと何だかおかしくて、私は涙が止まらないまま笑っていた。笑いながら、私は涙を流していた。
周囲が同情したように、私はやはり「悲劇の女」なのかもしれない。
しばらく目を閉じていた私は、額に置いていた手をのけて空を見た。
青い空が広がっていた。
マユロウ領のあるこの辺りは、冬が明けた今の季節はよく晴れる。雲もはるか高いところだけで、花々は暖かさとともに降り注ぐ光を浴びて、一層香り高く咲き競う。
青い空と花びらと草の葉でいっぱいになった視界の端で、私の愛馬が動いている。
その愛馬のそばに、もう一つ人影が見えた。
私は傍らにおいていた短剣を手に身を起こした。
こんな田舎の次期領主とはいえ、私はライラ・マユロウを名乗る者。命を狙われない保証はないし、私を人質にという不届きな輩が皆無とは言いがたい。ファドルーン様が目をつけたようにマユロウ家はそこそこ豊かな貴族で、カドラス家のようにマユロウ家が手にしている利権に魅力を感じている存在は少なくないのだ。
だが私は一瞬張りつめた気をすぐに解いた。
愛馬のそばにいたのは、アルヴァンス殿だった。
冷静に考えれば、メトロウド殿の愛馬ほどではないが、かなり我の強い私の愛馬に近づいて騒がれない存在はごく限られている。アルヴァンス殿は私の愛馬が生まれたころからマユロウ家に出入りしているから、ずいぶん馴れているのだ。
「驚かさないでください」
短剣を置きながら、私は素直にそう言った。
アルヴァンス殿は端正な顔に穏やかな笑みを浮かべて近付いた。
涙は乾いているはずだが、私は無意識に目元を手の甲でこする。その仕草はよろしくなかったと後で気づいたが、アルヴァンス殿はそれには触れずにいてくれた。
「気配を消すつもりはなかったのですが。何となく声をかけにくい雰囲気だったので、彼女に遊んでもらっていました」
「私の馬に?」
私があきれてそう言うと、アルヴァンス殿は洗練された笑みを浮かべただけだった。
それにしても、よくこの場所までたどり着いたものだ。一人だけの時間が終ったことは残念だが、柄にもなく感傷的になっていた私は、誰かと話すことができると思うと心が弾んだ。
これも、この半年の間についてしまった悪い癖だ。
「急に姿を消してしまったから、館では騒ぎになっていますよ。マユロウ伯は全く動じておられませんがね」
「よくここがわかりましたね」
「おや、ライラ・マユロウがご幼少の頃、ここまで一緒に馬に乗ってきたことがあるのをお忘れですか? くじに負けたばっかりに、初めてマユロウを訪れた私があなたをお乗せしたのですよ」
「……そんなこともありましたか」
「あの時は困ったな。私は子供の相手をしたことはなかったのに、マユロウ伯は大丈夫だと簡単に言ってくれて。あなたはじっとしていないし、私は二人乗りに慣れておらずに緊張するしで大変でした。そこまで頑張ったのに、あなたがこの場所を覚えて頻繁に逃げ込むようになったと叱られたりしましたよ。……そのことをふと思い出して、もしかしたらと思って来てみました」
にこにこと言うアルヴァンス殿は、私の求婚者の一人に加えられる前のアルヴァンス殿のように見える。
父とは似ていないようで似ている、気楽な話し相手である優美な都の貴族。ハミルドがいた頃と少しも変わらないように見えた。
それが、なぜか無性に嬉しかった。




