2 悲劇の真相(2)
私たちの関係が大きく変わったのは、ハミルドが十八歳になって成人した年だった。
予定通りの婚礼まで一年を切る頃から、ハミルドは完全にマユロウ伯の館に住むようになっていた。
一方、二十一歳という次期領主として不足のない年齢になっている私は、次期マユロウ伯として執務を手伝いつつ、婚礼の準備も進めるという忙しい毎日を過ごしていた。
次期領主の仕事と言っても、具体的に言えば、父が放置する仕事すべてが私の仕事だ。
細かな数値の並ぶ租税関係の書類の整理はいつも山積みだ。
中央政府への報告書は、正式書類は古典語を使わなければならない。
婚礼は秋祭りの時に執り行われることになっているが、その前には夏至祭という大きな祭りが立ちはだかっていて、領民に振る舞う酒は公平でなければならず、手配は早めにしておかなければ間に合わない。
祭りの進行や警備はぎりぎりまで変更がある。
それらの予定表や報告書も、地方領主として正確に提出しておかなければ謀反の疑いを勝手にかけられかねない。
皇帝陛下はともかく、中央政府は目障りな辺境地方領主を潰す口実が欲しくてたまらないのだ。
こういう時、マユロウの猛々しい血は実に役に立たない。
マユロウ伯である父は、家宰にすべてを投げている。
だが家宰とて生身の人間であり、誰かと分担しなければ倒れてしまう。彼が倒れては大変だから、本当は苦手な細かい数字と向き合わねばならなくなった。
疲れないはずがない。
そんな中、毎日一回は必ずハミルドと顔を合わせるようにしていた。それがとても良い息抜きになっていた。
何をするでもない。
ただハミルドのいる場所に行き、話をする。
すでに準備が始まった婚礼衣装の仮縫いがいかに窮屈だったかを語る。
この忙しい時期に、父マユロウ伯がまた新しい側室を迎えそうな気配があって、正妻である私の母はもちろん、すでにいるご側室方がぴりぴりしていることをため息交じりにつぶやく。
夏至祭と比べても、婚礼の宴用に準備される酒の量が尋常でない気がすると愚痴をいう。
その度に、ハミルドは優しい顔に微笑みを浮かべ、あるいは眉を潜めて頷きながら聞いてくれた。
父に押し付けられた執務に疲れて椅子にもたれかかっていると、何も言わずに背後にまわって肩を解してくれた。
「カジュライア。顔色も少し悪いですよ。大丈夫ですか?」
「少し疲れているだけだ」
「無理をしないでください……と言いたいところですが、マユロウ伯はあのような方ですからね。せめて、休憩はしっかりとってください」
父マユロウ伯をよく知っているから、ハミルドは笑いを含みながらそんなことを言う。こういう時は、私もつられて笑顔になってしまう。
ハミルドの笑顔は、人をくつろがせる不思議な力があるようだ。
「それにしても、昨日から根を詰めすぎていませんか? 夏至祭までまだ少し時間があるはずですが」
「時間があるんだが、アルヴァンス殿がくると知らせが来たからね。あの人が来る前に、片付くことは片付けておきたいんだ。どうせ父上が空気を読まないから、休息時間が宴にとって代わられるだろうと思う」
私がそうため息を着くと、ハミルドは首を傾げたようだった。
「アルヴァンス殿は先月来たばかりでしょう? また来るとは珍しいですね」
「実に珍しい。でも私の婚礼が近くなってきたから、母上やご側室方に呼びつけられているのだろう。特に母上は、あの人の審美眼を頼りにしているようだから」
「それもあるでしょうが、あの方はたぶん……」
ハミルドは肩を揉む手を止めて、何か考えている。私が振り返ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべて手を動かし始めた。
「それより、カジュライア。カラファンドが婚約するというのは本当ですか?」
「もう聞いたのか? 私には同腹の兄弟がいないから、カラファンドにしっかりした地位を与えて私の補佐をしてもらいたいんだ。だから従姉妹のメネリアとの婚約してもらう。正式な発表は、アルヴァンス殿を歓迎する宴であると思う」
「なるほど。あなたは弟思いの人だ。補佐が欲しいと言いつつ、カラファンドに後ろ盾を与えている」
「そう見えるか?」
「実際にそうなのでしょう?」
優しい声を背後に聞きつつ、私は目を閉じた。
生臭い話になっても、ハミルドと一緒なら気持ちは穏やかなままだ。
ハミルドの穏やかな微笑みを見ると、私は心からほっとする。思慮深い話し方は、尖りそうになる私を優しくなだめてくれる。
彼との結婚生活は、こんな穏やかなものになるだろうか。
そう考えると、つまらぬ領土争いから紛争を起こした父たちの愚行も許せそうな気がした。
すべてがうまくいくと思っていた矢先、他人の心情に鈍い私ではあったが、毎日顔を合わせているハミルドの変化に気付いた。
私と話している時は、今まで通りのハミルドだ。私の愚痴を静かに聞いてくれて、穏やかな笑顔を見せてくれる。
しかし夏至祭が終わったころから、一人で庭にいる時間が増えてきた。時々ぼんやりとして、どこかを見ながら切なげな表情をするようになった。
落ち着いた性格の彼には珍しく、苛立ちとも焦燥とも取れる表情で壁に手を叩きつけたりしているのも見てしまった。
私は一般の令嬢たちのようなたおやかな女ではない。
しかし男でもないから、男性の気持ちはよくわからない。特に若い男性の気持ちというものは、政略では計り知れないものだ。男心は全く理解できないとよくこぼしていたのは、母上だっただろうか。
だからちょうど館にやって来た心の機微に詳しそうな人を捕まえて助言を求めた。
もちろん、酒宴になってすぐの、酒で理性や言動がおかしくなる前に。
「少しお話があります」
「おや、ラウラ・マユロウ。改まってどうしましたか? 父君の新しい想い人の事なら、残念ながら私はよく知りませんよ」
「それはそれで気になりますが、今は別件です。……ハミルドのこと、おかしいと思いませんか?」
アルヴァンス殿は、私の相談を受けると一瞬困ったような顔をした。
しかしすぐにそれを消し、葡萄酒を満たした銀杯をおどけたように掲げた。生粋の都の貴族的な容姿と身のこなしをしているのに、こういうところはどちらかといえば父マユロウ伯に似ている。
「この宴の間にいる人間の中で、ハミルド君が一番落ち着いていると思いますよ」
「今の話をしていません。ハミルドは……私の知らない顔をしている」
私が真面目な顔でそう言うと、アルヴァンス殿は笑みを消して葡萄酒を飲まずに銀杯をテーブルに置いた。
マユロウ一族をはじめとしたこの辺りの人種とは全く異なる、色素の薄い姿をしたアルヴァンス殿は、特徴的な赤い髪をかきあげながらハミルドに目をやった。私もそちらに目をやる。
視線の向こう側にハミルドがいる。様々な人々と酒を片手に談笑していた。しかしその合間に、ふっと目が虚ろになり、視線がどこかにさまよい、何かを振り払うように葡萄酒を飲んでいる。
……あれは誰だろう。
あんなハミルドは、私は知らない。まるで別人のようだ。
こみ上げてくる焦りを押し殺し、私は八つ当たりのようにアルヴァンス殿をにらみつけた。
マユロウ伯の再従弟という遠い血縁のわりに、よくマユロウに遊びにくる都の貴族は、端正な顔を片手で隠すようにしてため息をついた。
「申し訳ありませんが、ライラ・マユロウには何も言わない方がいいと思っています」
「言いにくいのなら、一つだけ聞きたい。ハミルドは誰かを見ていると思うが、これは間違いではないですね?」
「……許し難いことですが、彼はあなた以外の女性を見ています」
再びもれたため息の中に紛れそうな小さな声は、しかしはっきりとそう言った。
そして、何か言いたげな顔で私を見ている。
赤子が泣き出すことを恐れている不慣れな子守のような顔だ。
私は泣いたりしないのに。
アルヴァンス殿が気を使ったほど傷付いていない。やはりそうなのか、としか思わなかった。
アルヴァンス殿の言葉は、私に確信を与えた。他の誰でもないアルヴァンス殿の見解なら、間違いはない。
ハミルドは誰かに恋をした。間もなく私と結婚しなければならない自分の定めに苦悩している。
同じ年頃の異母弟を持つ姉として、私は黙って見逃すことはできなかった。
ハミルドは私の大切な婚約者で、弟だ。
それに、私たちの婚約はただの政略の延長で、神の示したもう運命ではないのだ。
だからその日の夜、宴から早く抜け出してハミルドを自室に招いた。
「ご用と伺いましたが、何かありましたか?」
「ハミルド。……誰か、想い人がいるのでないのか?」
人払いをしてすぐにそう聞いてしまったのは、うまいやり方ではなかったと思う。
マユロウらしくはあったが、こういう繊細で微妙な問題に触れる時の言い方ではない。アルヴァンス殿のような謀の上手い都の貴族なら、もう少し洗練された話術の末に触れていただろう。
だがあまりに愚直すぎる質問だったから、ハミルドは表情を完全には隠せなかった。もしかしたら、直前まで飲んでいた酒のせいかもしれない。
「ハミルド。力になりたいんだ。だからおまえが愛した女性を教えて欲しい」
私も酒の勢いを借りて、ハミルドの手を握りしめてまっすぐに目を覗き込む。
ほとんど高さの変わらない彼の目は、一瞬逃げるように伏せられてしまった。失敗したかと落ち込みかけたが、ハミルドはすぐに私と目を合わせてくれた。
優しくて穏やかな、私を憩わせてくれる目は、まっすぐに見つめてくれた。
彼の手を握る私の手を優しく握り返し、それなりに武器を握ってきたあまり美しくない私の指に口付けをした。
「誰に何を言われたのか、だいたい予想はできます。でも、これだけは信じてください」
「ハミルド」
「僕は……あなたを愛していますよ。カジュライア」
ハミルドは微笑みながら、はっきりとそう言った。
だが私は、彼の一瞬の表情を見逃さなかった。私を見る前、端整な顔に一瞬だけ浮かんで消えたのは、間違いなく苦悩と諦念だった。
初めて見る「男」の顔だった。