17 濃密なる日々(4)
こういう時間は有意義ではある。ただし非常に密度の濃い日々なので、たまには何もない日が欲しい。
アルヴァンス殿の日は、そういう絶妙なタイミングでの休息日となる。
素面のアルヴァンス殿は時々口が悪くなるだけで、基本的には私を放置してくれるのだ。
だから私は朝からのんびりと過ごし、たまに取り寄せた本を読む。
そんな時は気がつくと同じ部屋にアルヴァンス殿がいて、しどけなくうたた寝している姿を観察することになる。その寝顔すら端正なのだから、実にお得な人だ。
こういう無防備な姿を見るのは昔からで、だから特に気になることではない。だが手に持ったままの本が何かに気づいた時だけは、私は眉をひそめたと思う。それは古代語で書かれていたのだ。
いったん気になり始めると、アルヴァンス殿が読む本に目が行くようになってしまった。私が確認しただけで、古代語を含めて六カ国語の本を読んでいた。実際はもっと多くの言葉を読むのではないだろうか。
彼がよく寝ている時など、退屈を持て余した私は自国語ならと手にしてみた。しかしこれが恐ろしいくらい硬い儀典用語で書かれていて、私は早々にあきらめた。
それらのほとんどが都の帝国大学院所蔵の本であり、起きている時には訳を紙に書いている時もあった。
「……その本は面白いのですか?」
「面白くはありませんよ。長く都を離れていると、こういうものを送りつけてくる面倒な人がいるだけです」
つい、私が聞いてしまうと、アルヴァンス殿は苦笑いを浮かべていた。
そういえば、以前からアルヴァンス殿の滞在が長くなると、彼のもとによく小包が届いていた。そして今回の長期滞在では、アルヴァンス殿も都に小包をよく送っているらしい。
侍女たちは都に恋人がいるのではと笑っていたが、真相は小難しい異国語の本と訳文のやり取りだったようだ。
ファドルーン様が言っていたように、アルヴァンス殿には我々マユロウの人間が知らない顔がある。
もっと話を聞きたい気もしたが、マユロウにいる間は触れてはいけない気がして、私は食事に誘うだけにとどめた。
こんな学者のようなアルヴァンス殿も、天気がいい日などは朝早くから本邸に来る。
これは遠駆けの誘いだ。
だからアルヴァンス殿の到着を聞くとすぐ、私は馬の準備をさせる。馬番たちも心得たもので、私の指示が届く前から動き始めてくれる。
昔から変わらない彼との日常の一部だった。
過密な中でこれだけゆっくりとすごせるのだから、アルヴァンス殿が加わってくれてよかったのかもしれない。父がそれを意図していたのなら、さすがマユロウ伯と言うべきだろう。
もちろん夜にある宴では、泥酔に近い状態になると口説いてくる。対象が私に限定されていないのは以前と同じで、これは父の剣舞と同様酒宴のお決まりの一部だ。
最近はすっかり慣れてきて、肩を抱き寄せられているときにふと思いついた疑問をぶつけるようにもなっていた。
「前々から気になっていたんですが」
「ライラ・マユロウに気にしていただけたのは、私の想いも少しは通じたのでしょうか」
「うん、あのですね。アルヴァンス殿はどうしてまだ独身なのでしょう? 都でももてていると聞いているのに、婚約の噂もなかったと聞いていますよ」
私がそう言うと、アルヴァンス殿は目を伏せた。
私の肩から手が離れたが、それは新しい酒を引き寄せている間だけだった。
「あなたのせいですよ」
「どうしてですか」
「あなたに比べれば、どんな女性も色あせて目に入らなくなる。貧乏貴族としては裕福な未亡人と結婚するべきだとはわかっていますが、安定した生活よりあなたのそばにいる方が私は幸せになれる」
たぶんこんな感じだったはずだ。他にもいろいろ言われた気がするが私は覚えていない。新しい口説き文句だなと思っただけだ。
こんなことを繰り返すアルヴァンス殿だが、酒が抜けた後になんとも情けない顔をすることがある。そういうときはだいたいが新ネタで口説かれた時だから、記憶が飛ぶわけではないのだろうと思う。
それにしても、私に甘い口説き文句を吐くというのは、いったいどういう感覚なのだろう。
それがいつも不思議だ。
そしてこれがまた、父の酒の肴になるのかと思うとしゃくにさわる。
しかし、これまで人に押し付けていた執務を、父が真面目にするようになったのはいいことだ。それに、正妻である私の母に押し付けられたのか、マユロウ伯の名にふさわしい衣装を着るようにもなった。
父の側室方も、見目麗しい貴公子が四人もやってくるためか、以前にも増してお美しくなられた。私は相変わらずの男装だったが、異母弟カラファンドは衣装や身のこなしがすっかりよくなった。これなら都に出ても、悲恋の貴公子の名に恥じないだろう。
そういえば。
私は、よくあるような求婚者からの贈り物はあまりもらっていない。
普通の貴婦人は美しい装飾品などが大好きで、気を引くために男性はそういう贈り物をするらしい。
マユロウ領から出荷される布や銀細工も、そういう用途で愛されているものは多い。だいたいが華やかで美しくて、同時にとても高価な物になる。庶民たちですら一大決心の末に買い求めるのだから、貴族の令嬢を口説くためとなればどれほどの財産がつぎ込まれていることか。
しかし酒宴の席で「あなたは都のどんな美女よりも美しい」などと言ってくれるアルヴァンス殿は、贈り物らしい贈り物はくれない。たまにきれいな花をくれる程度だ。
それも私の母が香りのよい花が好きなために、根のついたままの花を持ってきてくれる。
他愛ない会話の中で、一度名前を出したかどうかの花のことを覚えていて、それを森で見かけたからと持ってきてくれるのだ。都でも随一と言われる美麗な貴公子が自分で土を掘り、脱いだ服で包んできたりする。
母はこういう心遣いが大好きだ。非常に喜んで「アルヴァンスはいい子ね」とにこにこと笑っていた。
彼がくれるのはこういうものだけだ。財力がないのは昔からであるし、相手は私だ。アルヴァンス殿にそんな浪費を求めるほうが無謀だろう。
エトミウ家のメトロウド殿は、私が密かに欲しいと思っていた戦術書をくれた。
これは日々の会話の中で私がまだ入手していないことを知って、エトミウ家から取り寄せてくれたものだ。
これは嬉しかった。
あまりにも嬉しかったから、ハミルドやカラファンドによくしていたようについ抱きついてしまって、珍しく掃いていた口紅をメトロウド殿の服にべっとりとつけてしまった。メトロウド殿が背が高いために、私の唇がちょうど肩に当たってしまうのも不運だった。
相手が誰で、自分が何をしてしまったに気づいた時、私は正直顔を引きつらせたと思う。よりによって口紅をつけてしまうなど、どう詫びればいいのかと恐る恐る見上げたものだ。
しかし見かけの割に気性の荒いメトロウド殿は、このときは全く怒らないでいてくれた。
このとき以降、私にとってのメトロウド殿の印象はよくなったと思う。これぞ男からの贈り物の目指すところだろう。
私が最も喜ぶものを贈るという点では、贈り物の王道をいっていると思うが、これも普通の贈り物とは違うようだ。
その点、カドラス家のルドビィス殿は違う。
ライラ・パイヴァーを母に持つという、恐らく帝国でも屈指の財力を持つ貴公子は、私への贈り物を惜しまなかった。美しい異国渡りの絹織物を母や側室方の分までくれたし、私の目の色に合わせた見事な装飾品も何の気負いもなくくれる。
母や側室方への贈り物はパイヴァー家との取引量を増やすための投資、ということを差し引いても、ルドビィス殿からの贈り物は、装飾品の類にそれほど関心のない私でさえ心躍るものばかり。
投資とはこうあるべきだ。そう伝えてくれるような実践ぶりだ。こういう極意を見せてくれるのはありがたい。
それに、初対面で刷り込まれた目つきも口も悪い男という印象は、私が目を輝かせるときにふと見せる優しい表情で帳消しになった。普段が厳しいと、優しくされると嬉しさが倍増すると言うのはこのことか。
こんな風に効果的な贈り物ではあるが、私へのものは男装に合うようなものばかり。やはり問題があるような気がする。
皇族の証を名に持つファドルーン様は……この方は何もくれない。
何かくれというわけでもないが、本当に何もくれない。
皇族というと華々しい印象があったが、実際に華々しいのは、皇帝陛下と莫大な収益を上げる直轄地を有する上位の皇族だけらしい。
ファドルーン様の父君は直轄地の管理を任された上位の皇族になるのだが、ファドルーン様はその庶子。母君はたいそうな美女ではあられるらしいが、生家は没落寸前の貧乏貴族らしい。多少の収入はあるようだが、どうやらマユロウ家の方が財力ははるかに上のようだ。
そう言う事情と、あくまで皇帝陛下のお気に入りの甥という地位のため、私が贈り物をいただくどころか、マユロウ家がファドルーン様に住居を提供し、不自由な生活をしないように常に気を配っている。食事も毎回山盛りだ。
こういうのはかなり違うと思う。
マユロウの本邸は、こんな日々の繰り返しだ。
はじめにあった緊張感を失ったまま、それなりに心地よい日常が続いていた。