(4)シクスウェサ
「ああ、ごらん、リツ君。あれがラズワルド王国西の国境の町、シクスウェサです」
ミストの言葉に律は顔を上げ、その目を輝かせた。歩き詰めの疲労から解放される喜びだけではない、初めて見る異国への期待が律の気分を上昇させる。
「城壁だ……すごい。本当に外国なんだな……」
「城壁が珍しいのかい?」
「ええ。日本にはないんです。島国だし、戦争はしないし、必要ないから。……自衛隊っていう、専守防衛用の軍はありますけど」
城壁なんてもの、あの時代の戦争で役立つ時が来たら、それはもう負け戦なんじゃなかろうか。それは既に本土に上陸されていることを意味するのだから。
「戦争がない。魔物もいない……リツ君みたいな少年が育つには、そういう環境が必要なんだねえ。私からしたら、それは夢のような話だよ」
ミストは微笑みながら言って、律の頭を撫でたが、律からすれば、この世界こそが夢のように思われてならない。
城壁の奥に兵の詰め所。まばらな店に、街の人々の住居と思しき建物。その奥に、ギルドと商業区。
城壁の向こうのシクスウェサは、ファンタジィの街といえばこう、という律の思い込みと概ね違わぬ様子をしていた。
「さてと。リツ君も無事に街に入れたことですし、ギルドへ行って依頼の完了報告をしましょう。皆さんよろしいですね?」
「勿論です、ミストさん。お前達も異存ないな?」
オイゲンの問いかけに異議の声は上がらない。律にも異論はない。ギルドで身分証の発行をするつもりだからだ。
「依頼の完了報告って、サインでぱぱーって終わらないんだ?」
「そんなこと認めたら、脅迫してサインを書かせるヤツが出てくるだろう。ギルド職員が立ち会いしてないと完了とは認められないんだ」
「ああ、なるほど」
カインの言葉に、どこにでもズルをする人間はいるのだな、と妙なところで感心する。
オイゲンの先導について行くと、壁を白く塗られた建物が見える。その建物は他のものに比べて、大きく造られており、扉もそれに比例して大きな観音開きになっていた。
「ここが、冒険者ギルド?」
「そうだ。冒険者がたくさん入れるように、大きめ。建物の壁が白で、あのマークがあれば冒険者ギルドだ」
あのマーク、と指し示されたのは、五本の剣が交差する、とくに珍しくもないような印象の紋だった。
「ラズワルド、マルバム、オーレリオン、ネヴァート、キルミツの五国がギルド設立に際して協力した、その証ってやつだな」
「はあ……なんか、多いね」
口ぶりからしてすごいことのようだが、律にはよくわからない。わからないなりに返事をして、扉をくぐる。
建物の中はカウンターで区切られており、カウンターの向こう側には赤い腕章をつけた職員達が働いている。手前側には、装備の見本市といった、様々な防具に身を固めた冒険者達が壁に貼り付けられた紙――依頼書をのぞき込み、ああだこうだと言葉を交わしていた。
そんな中、ひときわ律の目を惹いたのは、柔らかそうな短い毛に覆われた三角の耳――獣耳を頭頂部から生やした二足歩行のヒトだった。ほとんどが腕に赤い腕章をつけている。ギルド職員のようだ。真剣に仕事をしているのだろうが、ぴこぴこと獣耳が動くたび、律の顔は勝手に緩んでしまう。
ふにゃふにゃとした笑顔のままあたりを見回す律と、それを不思議そうに見る獣耳の職員達。彼らは見ず知らずの少年から送られる好意的な、心底幸せそうな視線の理由に全くと言ってよいほど心当たりがなかった。
ミストの申し出を受けて依頼の達成確認を行ったのは猫の耳を持った女性だった。クリーム色の短い毛に覆われた三角の耳が、言葉を交わすごとに動いて、やはり律の顔は笑み崩れ、そんな顔を向けられる女性といえば、そわそわと落ち着きなさげな様子で、時折ちらりと律の顔を伺っていた。
律は女性の視線が自分に向いていない事を確認した上で、視線を女性の頭頂部から下へ向けた。膝丈のスカートから伸びるすらりとした足、きゅっと締まって上向いた形の良い尻――スタイルの良い下半身が見て取れたが、尻尾は見えない。最初からついていないのか、それとも服で隠れているのか。こちらの世界に不慣れだと知られてしまう訳にもいかないので、尻尾の有無を訊ねることはできない。ましてや見せてくださいなどと、口が裂けても言えるはずがない。もしも口に出したならば、律は歴代の渡り人と同様に、相当な変態的思考の持ち主として認知されたことだろう。律は悶々とした気持ちを抱えたまま、女性から視線を外した。
悶々とした気持ちを抱えたまま待つ時間は存外早くに終わった。依頼の達成確認はそう時間を要するものではないらしい。律が初めて目にした羊皮紙――地球ではかなり昔に使用されていた種類の紙に書かれた依頼内容、署名、依頼者と受注者に対する口頭確認――正味十分もかかってはいないだろう。
律の冒険者登録でさえも似たような有り様で、拍子抜けするくらい簡単に終わった。ちょっとした役所にしか見えない場所なのに、お役所仕事という言葉からかけ離れたスピード処理だった。
しかし、何事もなく手続きが終えられたわけではない。ちょっとした問題は起きたのだ。
「おい、気付いているか?」
ニヤニヤと笑いながら問いかけるカイン。もはやこのにやけ笑いはデフォルトなのか、著しく男前を下げているなあ、と考えつつ、頷くことで答えを返す。カインに問われるまでもなく気付いていた。猫耳女性の視線がずっと律を追っていることは。
律は人知れず冷や汗をかく。
――まさか、さっきの尻尾云々の思考と視線がバレた?
決して厭らしい気持ちで下半身を見たわけではない。ないのだが、熱心に盗み見たのは事実だし、先ほどまでかなり締まりのない顔をしていたのは自覚している。そこを指摘されたら謝るしかない。謝ってどうにかなるかは別として。どうにかならなかったら異世界に来て一週間もたたないうちにわいせつ罪で捕まることになる。
そんなのは嫌だ。どうか熱視線の理由は着ている服が珍しかったという、両者にとって当たり障りのない平和的なものであってほしいと、律は切に願った。
「お? なんだよ、出るのか? つまんねえ」
視線から逃れるように背を向け、扉へ足を進めるが、それは律の躊躇いを反映して数歩で止まってしまう。
――だめだ。このままとか、無理。
知らんぷりしてこの建物を出ようかとも考えたが、わいせつ罪で強制連行される想像がそれをさせてくれない。不安の種は早々に取り除かなくては、後でうじうじと考えてしまうだろうことは、今までの人生経験から分かっている。歩き詰めで疲れているのだ、宿では夢も見ずにぐっすりと眠りたい。
「カインさん」
「おう、どうした」
「こちらでどういう言い方をするのか知りませんが……骨は拾ってくださいね」
「それでこそ男だ。行って落とすなり玉砕なりしてこい」
落とす?
カインは何か勘違いをしているようだった。何でもかんでも下半身に話を持って行くのはやめてほしいと思う。まさに下半身から始まったに違いない問題ではあったが、律はそう思った。
律は猫耳女性に向き直り、しっかりと視線を合わせた。
「あのっ」
女性と律の声が被った。一瞬の沈黙の後、女性は顔を赤くして俯いてしまった。
あー、そうですよね。厭らしい視線を向けてくる男に話しかけられるのって、恥ずかしかったり、気持ち悪かったりしますよね。だというのに勇気を振り絞って見ないでくださいって言おうとしたんだよね――本当に申し訳ないです。
「ゴメンナサイ、モウミナイヨ」
自己嫌悪で床を転がり回りたい気持ちが言語野に影響してカタコトになったが、意味は通じただろう。
律はお手本になりそうなほど完璧な姿勢で頭を下げ、回れ右をした。そして突然電池が切れたロボットのようにぎくしゃくとした動きで右手と右足を同時に振り出した。事の成り行きを見守っていた男性陣は一斉に吹き出す。
「ぶはっ! どうして……そこでっ……回れ右っ!?」
「諦め早すぎんだろっ! 笑かすな!!」
「……奥手ですねえ」
笑い転げる男性陣のところへロボットまがいの行進をした律を、ミストが生暖かい眼差しで迎え入れる。
「リツ君。男の子はもう少し積極的でないと、お嫁さんをもらえませんよ」
優しい声音でだめ出しをされた。律はミストの非情とも言える言葉に青ざめる。
「積極的に見たらわいせつ罪で逮捕されてしまいます」
――異世界の男たちって、恐れ知らずなんだ……。
律にはどうしたって真似できそうにない。性犯罪者のレッテルを貼られたまま生きていくのは想像しただけで苦痛だ。
渡り人の少年から畏怖の視線を向けられた大人組は、最初何を言われたのか理解できなかった。
「は?」
「え?」
「……おまえの世界って……見ただけで捕まるの?」
「よく生まれたな」
「異世界すげえな」
「奥ゆかしい文化……なんでしょうか?」
もしもそのルールがこちらで適用されたら男は全員牢屋行きになって、結果、男女は出会えないままに終わり、人類は滅亡するだろう。男性陣三名は確かな自信を持って終末を想像した。
項垂れる律を余所に、ひそひそと子孫繁栄とエロについて言葉を交わす男性陣。これに対し、女性二人は見切りをつけた。馬鹿な男は放っておいて、今は落ち込む少年を慰めなくてはいけない。
律には放っておけないと思わせる何かがあることに、二人はとっくに気付いていた。
「リツ殿、大丈夫か? 私が見たところ、彼女はあなたの視線を嫌がってはいないように思えたのだが……」
「そうよ。馬鹿共に比べたらリツはとっても紳士だったわよ――というかヘタレだったとも言えるけど」
「ヘタレ……ああ、まあ、このままでは嫁取りは難しいと言わざるを得ないが」
「どうして引き下がっちゃったの? 女の子に声かけるのもハードルが高いってこと?」
「だって……」
理由を口にしようとして、言い淀む。
皆は律が猫耳の彼女をナンパしようとし、撃墜されたのだと勘違いしているが、実際のところはセクハラの謝罪をして逃げ帰っただけなのだ。事実を言えば、セクハラってなあに? と説明を求められ、芋づる式に尻尾の有無を確認したかったことまでバレてしまう。疚しい気持ちはなくとも、女性陣からの軽侮の視線は免れない。
黙り込んだ律の言葉の続きを、二人の女性は優しく、しかし絶対に逃がさないという意思を込めて待った。律はそろりと上目遣いに伺って、二人が諦めないだろうことを悟ると、とうとう観念して口を開いた。
「しっぽ……」
「うん、尻尾が?」
「獣耳があるなら尻尾もあるんじゃないかと……思って……見てました……申し訳なく思っております、ハイ」
「好きなの、尻尾?」
「……はい。ふさふさだったり、長かったりするといいと思います。でも、短い尻尾をぴこぴこしてる猫も可愛いです」
律は肉球派ではないことを知った二人は、それで? と話の続きを促した。
「え、それで? それで……不躾に見てしまい、えー……女性には大変不愉快な思いをさせたのではないかと反省いたしまして……」
「ああ、それで謝っていたと」
「仰せの通りでございます……」
事の次第を聞いた二人は顔を見合わせ、笑った。
「リツ殿、気にしすぎだ。周りに獣人がいなかったのなら、当然持つ好奇心だと、私は理解している」
「そうよ。それにたとえリツがあの子に尻尾を見せてくれって言っても、彼女は怒らなかったと思うわよ?」
「本当?」
「ええ。もう一回行って、尻尾見せてもらえば? それだけじゃ済まないだろうけど」
「それはそれでリツ殿の目的に沿うのではないかな。ん? いや、嫁となる女は何かから助けなくてはいけないのだったか? ……まあ、どうにかなるだろう」
意味深な言葉から導かれた不穏な未来の予想。尻尾を見せてほしいと頼むこと、それはつまり――
「やらないか、ってことなのか!」
まともな思考回路が残っていれば簡単に導き出せた答えも、獣耳のインパクトにやられていた脳には、大いなる真理を発見したに等しい衝撃をもたらした。
「言わなくてよかった……」
初対面でベッドに誘うような破廉恥な人間にはなりたくない、そういった純真な心がまだ律には備わっていた。
「何事も挑戦よ?」
「再挑戦するか、リツ殿?」
「し、しないよっ! だからぼくはまだそういうのはハードルが高いって言ったじゃんか!」
からかわれていることを承知で必死に否定する。
尻尾は見たいが、そういうことは責任を取れるようになってからでないといけない。母、姉、従姉妹による鉄拳フェミニスト教育を受けてきた律に遊び半分で女性に手を出すという考えはあり得ないものだった。
これ以上ここにいたらずっとからかわれ続けると判断した律は、ヒートアップするごとにどんどん声高になっていく男性陣のエロ談義を止めるという理由をつけて、撤退した。
だから、後に女性二人が交わした会話など知る由もない。
「それはそれで可哀想だと思うのだがな」
「結構可愛い子なのにね、もったいない」
律は人生で初めて出会った、猫耳という大変稀少な属性を持つ女性からの好意に、しばらく気付くことができなかった。




