(2)転移
異世界に転移した、という実感はなかった。
感じたのは、目眩。貧血を疑い、頭から倒れないように、先んじて膝をつく。
そして目眩が治まり、視線を上げたところで――満月。それも、とびきり美しいのが二つ。
あっけない。律が思ったのはそれだった。
クローゼットの中に入る必要も、魔法陣を描いて呪文を唱える必要もない。それどころか本人の意志すらも必要としない――非常にあっけない転移だった。
呪いと称するだけあって、人に御せるものではないのかもしれない、と、金と朱金に輝く双月を見上げながら思う。
「はー。ひとりぼっちの異世界か……どうすりゃいいんだか」
海外旅行すら行ったことがないと言うのに、初めての一人旅が異世界とは……それも、自分が始祖にあたる男であった場合、家に帰ることができないという、片道切符での旅行。
今、涙が出てこないのが不思議なくらいだ。
「できれば僕じゃない人間が、始祖になってくれると嬉しいんだけどね……」
どうやらそれも、望み薄のようだった。
股間に違和感がある。
ズボンを緩めて確認したら、今までついていなかったものがついていたのだ。
「コレ、確か弱点なんだよな……」
打ち付けたらとっても痛いという……外に出た内臓みたいなものらしいから、それを考えたら、まあ、痛いのも無理はない。
なるべく打たないようにしよう。律は強く思った。
とにかく、確固とした性別を取り戻した以上――自分が始祖となるかどうかは別として、望月の男子としての義務を果たさなくてはいけない。
律は後ろを振り返る。
祖父から継いだ望月邸がそこにある。
「屋敷にまで呪いをかけるって……便利だけど、なんだかなあ」
呪いを屋敷と共有することによって、異世界での生活基盤を手に入れるための行動を取らずに済んだ――野垂れ死にの可能性がなくなったのだが、その準備が大変だった。
律が呪いについて知ったのは今日。祖父の葬儀があったのも今日。異世界に渡る可能性が高いと示唆され、そして渡ったのも今日。
葬儀が終わり、すぐに片付けと親族たちの撤退が始まった時には何事かと思ったが……このまま呪いのかかった屋敷に、呪い持ちと一緒にいれば異世界へ移動してしまう。急ぐのも、焦るのも、無理はない。
なにしろ十六年前、巻き込まれて異世界へ行った妊婦がいるのだ――そして戻ってきて見れば、生まれた子どもは性別を失っていた……。
まあ、撤退するのが賢い大人というものだ。
「ただ、説明不十分っていうのはいただけないよな」
慌ただしい撤退準備の中で聞いた伯父の話。そして祖父からの手紙。そこから分かったのは、先代の呪い持ちが死んだ場合、呪いは別の誰か――男子に移動するということ。
呪いは満月の晩に最も強くなり、異世界へ渡るということ。
異世界へ渡った場合には、人を助け、タイムパラドックスを防ぐために行動すること。
――帰れるかどうかは、確約できないということ。
望月邸は、そのための家で、そのために準備された遺産だ。
呪いの継承者が異世界で野垂れ死なないようにするための、言わば、スターターキットだ。
誰も、何も、文句を言わないわけだ。
遺産と呪いがセットだと知っているのならば、わざわざ継承に名乗りを上げたりしない。継ごうと思って継げるようなものでも、ないようだし。
ともあれ。
望月律は異世界へ渡った。
性別も取り戻した。
誰に憚ることなく、望月家男子を名乗れるようになったからには、やるべきことは一つ。
「――嫁取りだ」
いや、まずは人助けだったか。
まあ、どちらでも一緒だろう。
妻との馴れ初めが、困っているところを助けた、なんて話、よく聞くものなんだし。




