S.11 アイリーン
S.11 アイリーン
「ふう~っ。こういうときは小さな家でよかったと思うね」
先ほどリビングルームの丸テーブルで薬によって眠らされたヒロシの体を、マスターKはやっとリビングルームのソファーに運び終えたところだった。
「シルビア、ヒロシを頼んだぞ。いや、待てよ…この場合、ヒロシにシルビアを頼んだほうがいいのか?」
(ま、どっちだっていい。二人が無事でまたこの世界に戻ってきてくれさえすればそれでいい。そうだよな、アイリーン。)
書斎に飾ってある、1枚の写真に向かってアイリーンズ・バーのマスターはそう話しかけた。それには、30代半ばらしき女性が熊のぬいぐるみを抱えた4, 5 才ぐらいの女の子を抱きかかえた姿が写っていた。その写真の女性は女の子をとても大事に愛していることが見てわかる、そんな写真だった。その写真の人物こそがアイリーンだった。そしてこのCafé barの名前にもなった人物だった。
「アイリーン、シルビアももうすっかり一人前の女性になったよ。そろそろ俺の役割も終わりだな。今まで、シルビアが独立できるまでって何とか頑張ってこの店を守ってきたが、そろそろ潮時のようだよ」
マスターはアイリーンの写真に向かって語りかけた。
今から18年前。
――あれはある雨の降る晩だった。そうさ、アイリーン。キミがはじめてここのバーのドアを開けた日だ。
「いらっしゃい。ずぶぬれじゃあないか。さあこっちのテーブルにどうぞ。今、タオルを持ってきますから」
そういって俺はカウンターの奥から、乾いたタオルを2枚、キミとキミの抱えた女の子に渡したんだった。あの時の事は今でもよく覚えている。するとキミは
「ありがとう。シルビィー、あなたもこのおじちゃんにお礼をいいなさい」
って言ってくれた。すると
「おじちゃん、ありがと」
とキミの愛娘の幼かったシルビアがはじめて俺に話しかけてくれたんだ。
「さて、何かご注文は?」
と俺が聞くと、キミはメニューを隅々まで見て、ちょっと後に、
「ハチミツ付のバター・トーストを1枚、それとお水を」
って言った。それで俺には彼女の状況が少しわかった気がした。本来ならディナータイムだし、断るところだったんだが、このときは、そうしなかった。カウンターの店員も
「これ、モーニングのメニューでしょ? よく受けましたね。それに、ずいぶんと厚く切りましたね。ひょっとしたら彼女って、マスターのタイプです?」
「バカヤロー。余計なことを考えるな。それよか、早くジョッキが冷たいうちに向こうの客にさっさと持っていけ」
そして俺はたっぷりとバターを塗ったトーストにハチミツを沿えて、キミのいるテーブルに持っていった。
「さあ、どうぞ、召し上がれ」
それをキミは丁寧にナイフで半分に切り分けて、片方にはハチミツをたっぷりかけ、愛娘に食べさせはじめた。そしてキミは容器に余ったハチミツを右の人差し指でとると、今度は自分のトーストに塗りつけ食べ始めたんだ。それから、店が忙しくなって、気がつくと2時間後、まだキミたち親子はそこにいた。そして、結局は閉店の午前0時までキミたちはずっとそのテーブルにいたんだった。その間無料のお水だけを3杯もおかわりをして。まだ幼かったシルビアはキミの横でもうすっかり寝ていた。
「あのう、すみませんが、もうそろそろ閉店時間になるのでお代をもらってもいいですか?」
と俺が言うと、
「ええ、そうね、おいくらかしら?」
と妙にきどった声で返してきた。その声が彼女の格好と不釣合いだったのでちょっとおかしくって俺は
「はい、1ドル80セントになります。マドモアゼル」
ってこちらもホテルのラウンジのボーイのように気取って答えたんだ。
「アラッ!? あんなに量があったのに。とってもお安いのね」
キミはちょっとびっくりしたようだった。
「ええ、お客様のご注文した品は当店の今夜だけのスペシャル・メニューだからです」
「……アナタ、とってもやさしいのね…。チップたくさんはずんじゃおうかしら」
さきほどと変わらずにまるでロデオ・ドライブあたりで買い物をするマダムたちのような口調でキミは言ったんだ。
「いいえ、結構ですよ。マドモアゼル。そのお気持ちだけいただいておきます」
と言うと俺はその場を去った。そして、次のテーブルでつぶれているお客のところに行き、何とか起こしてお代をもらおうとしていたときだった。突然、バーの隅においてある、ほこりのかぶっていたピアノが久々に音を奏でた。
振り向くと、そこにキミがいた。そして軽く鍵盤に指を下ろすと信じられないぐらい、流れるようにエヴァンスの「I LOVE YOU, PORGY」を弾きはじめた。それはこのBAR始まって以来の上等なメロディーだった。そしてこのダウンタウンの小さなBARを一瞬でマンハッタンにあるあのブルー・ノートの会場のようにしてしまった。カウンターでも、
「お代は全部で18ドルになります」
俺は帰ろうと席を立った客に言うと、
「…やっぱり、さっきのもう一杯頼むよ。誰だい、あのコ? とってもうまいじゃないか」
と言って、再びテーブルについてしまった。
また、数名の常連たちの雑談もピタッとやんだ。誰もが彼女のその繊細でかろやかなそのピアノから流れてくる心地よい旋律に耳を傾けた。
約10分近くの曲が終わると1テンポ遅れてその場から拍手が沸き起こった。そして2曲目では「NOT MEANT TO FALL」を弾き始め、ボーカルも披露してくれた。そして彼女はレコードの60年代のジャズ・シンガーのようなヴォイスに現代のニューヨークを生きる者たちの憂いをまぜたような声で軽やかに、時にはせつなく歌い続けた。その声は小さな店の中では納まりきらず、深夜の町へとあふれ出していった。その彼女の声を店の前をたまたま通って聞いたものたちが次々と入ってきた。そして彼女がその後2曲を歌い終える頃、店の中は満席どころか立ち見の客であふれていた。
――その1時間後、店を閉めるときに、
「そういや、名前をまだ聞いていなかったね」
と俺が彼女に尋ねると、
「アイリーンよ」ってキミは微笑んで答えた。
「そうか、アイリーン、あんたの曲、とっても良かったよ」
「そう。良かったわ」
「失礼。俺はあまりそっちの業界のことは詳しくないんだけれどキミは、ジャズ・シンガーなのかい?」
それにはキミは答えなかったから、俺は今でもキミの過去は知らない。
「で、これ良かったらとっといてくれないか?」
そこで俺は今晩彼女がピアノを弾き始めてからの売り上げから少し分け前を渡そうとした。そしたら
「それなら、さっきの料理のチップにあなたにあげるわ。それよりも、今晩泊まるところ紹介してくれない? もちろん安いところでかまわないから」
って言った。それから俺は、
「そうだな…。正直言ってこのあたりにはモーテルはあるにはあるが…今の時間、小さな女の子を負ぶって歩いていくのは薦められないな」
「そう…。困ったわ。ここら辺なら安宿があるって思ったんだけれど…」
「けれど、一軒いいところを知ってるよ」
「ほんと?」
「ああ、この裏にあるトレーラーハウスなんだけれど…」
「トレイラーハウス? B&Bか何かなの? そこって安いの? いくらぐらい?」
「さぁ、それは…。でもたぶん今なら、ただなんじゃないかな?」
「まさか!? からかわないでよ。いまどきただで貸すモーテルなんて聞いたことがないわ。そんなオーナーがいたらぜひ顔を見てみたいわ」
「…それなら、もう見てるさ」
それから、まだそのときは新しかったこのトレーラーハウスの、今シルビアが使っている部屋を俺はキミたち親子に提供したんだ。
その翌日の夕方、キミはまた店に現れると、今度はすぐにピアノに向かった。その夜の売り上げは、この店始まって以来の大盛況だった。キミはピアノを弾き、歌い、また、歌わないときは、ジョークを言い、周りの客を笑わせた。そのうわさは瞬く間に人から人に広がり、それからの数年はこのアイリーンズ・バーの黄金時代だった。キミに提供した部屋はいつしかそのままキミとシルビアの部屋になっていた。俺もそれでよかった。どうせ男の一人暮らしだったし、キミはなかなかチャーミングな女性だったし、シルビアもとってもかわいかった。また、住み込みということで、給与も少なくてすんだ。それにはキミも不平を言うこともなく、毎晩ここで歌ってくれていた。一度取材に訪れた雑誌記者がいたけれど、それにはキミは一切の取材の許可を与えなかった。不思議には思ったが、それでも十分なほどお客は毎晩入っていたから俺も満足だった。それからキミも俺も半年後にはだいぶ懐が温かくなっていた。しかし、キミはというと、その生活はとってもきりつめていたね。店に出るとき以外の服はほとんど買っていないようだったし、昼間はもっぱらTシャツにジーンズにスニーカーといういでたちだった。俺はそのときは不思議に思ったものだった。しかし、その答えは数年後にはっきりとした。
その数年後の初夏のある日の午後、いつものようにキミは洗濯をした服を乾かそうと庭に干そうとしていた。
「マスター、洗い物、たまってるんじゃないの? こんな天気のいい日に干さないなんて手はないわよ。まだ、シルビアの分あるからついでにやっておくわよ」
「ああ、ありがとう。それじゃあ、お願いするかな」
「じゃあ、すぐにランドリーまで持ってきてね」
しかし、俺が洗い物をランドリーまで持っていくと、アイリーンはいなかった。
「アイリーン? どこにいるんだい? 忙しいなら自分でやるよ。洗剤はどこにあるんだい?」
しかし、アイリーンはそれには答えなかった。そして俺は庭に出た。
「アイリーン、洗剤…」
キミは、庭にうつぶせになって倒れていた。俺は急いで、救急車を呼び、小さなシルビアを連れて、一緒にその救急車に乗った。
キミの症状は急性心不全だった。もともと心臓に小さな穴が開いていて、不整脈があったらしい。俺はドクターにお願いをして、彼女を清潔な個室にかえてもらった。
2日後に彼女は意識を取り戻し、俺は彼女と話しをした。
「アイリーン、心配したぞ。でも良かった。無事、意識が戻って」
「マスター、店は?」
「店なんて…、休みにしたよ。こんなときに開けるわけにはいかないだろう」
「そんなの、ダメよ。それじゃあ常連さんたちがかわいそうじゃないの。毎晩あのバーでお酒を一杯飲むのを楽しみに来てる人たちだっているのよ」
「ああ、いいんだ。2日ぐらい休んだって、そのぐらいどうってことない。それよりもキミの身が俺には大事だ。アイリーン、聞いてくれ。この2日間俺は考えたんだ。俺にとってキミはかけがえのない女性だってことを…。アイリーン、俺はキミのことを…愛している」
「マスター…」
「だから、俺と結婚してくれないか?」
「でも私には子供がいるのよ、シルビアが。それでもいいの? それに、持病もちよ。それも心臓の。そんな私でもいいの?」
「ああ、いいんだ。シルビアはとってもいい子だよ。俺もあの子が自分の子になってくれればいいと思っていたんだ。それに、キミがいない人生なんて意味がない。心からキミを愛してる。だから俺と結婚してくれ! アイリーン」
――それから俺たちは結婚をした。式は近くのプロテスタントの教会で。そしてウェディング・パーティーはこのアイリーンズ・バーで盛大に行った。それからの日々は二人にとってとても幸せな日々が続いた。
しかし、そんな幸せもあっという間に過ぎていってしまった。
2年後の冬の寒い朝だった。キミはインフルエンザにかかって、高熱を出したんだ。普通ならインフルエンザはそれほどこわい病気ではないけれど、心臓に持病を持ったキミにとってそれは致命的な病だった…。
そして、キミとの最期の晩にキミは俺とキミの娘のシルビアを呼んだ。
「ねぇ、二人ともこれから話すことをよく聞いてね。この2年間、いいえ、あなたと会ってから私はとっても幸せだったわ。それは、これまでの私とシルビアの人生の中でも最も充実していたわ。第3者から見れば、決して長い幸せではなかったかもしれない。でもね、私は満足しているの。そして二人には感謝してるわ。シルビィー、あなたが私の娘でいてくれて本当に良かったって…。いつだって私はあなたを愛していたのよ。これからは私の代わりにケイの面倒を見てあげてね。そしてケイ、まだまだシルビアには助けが必要よ。あなたには負担になってしまうけれど、シルビアがいつか好きな人が現れて幸せになる日まで見守ってあげて。これがわたしからの最後のお願い」
「やめてよ、ママ。まるでこれじゃあ、ママが死んじゃうみたいじゃない」
「そうだよ。アイリーン。最後のお願いなんて…」
「人間って、不思議ね。始まりはよく覚えていないのに。終わりが近づいているときはなんとなくわかるみたいなの。でもその方が私はいいわ。だってさよならの言葉を言えるでしょ。それにそれ以上に感謝の言葉を言えるでしょ。でもね、実は私は、人の魂ってなくならないって思っているの。私ね、会ってきたのよ。私のママやおばあちゃんにね」
「アイリーン、何をいってるんだい?」
「信じてもらえるかどうかわからないけれど、…前に私が庭で倒れたときがあったでしょ?」
「ええ、あれは2年前のことよね? それがきっかけでママとマスターは結婚したんだよね」
「ええ、そうよ。そのときにね。私、2日間ぐらい意識がなかったでしょ?」
「ああ。たしかにキミは2日の間、病院のベッドで点滴を受けながら意識を失っていたよ。あの時はそれこそ…」
「あの時、私には意識があったのよ。もっともこっちの世界でのことではないんだけれど。そこではね、たくさんの人々が生活していたわ。そして私は、草原をしばらく歩いてある町にに着いたの。そこでね、わたしはわたしのママとおばあちゃんに会ったのよ。二人は前のようによく話してはぶつかっていたわ。でも二人とも私と会えてとっても喜んでくれたのよ。そしてしばらく一緒に過ごしたの。向こうの世界では一週間もいたかしら…とてもその間は楽しかったわ。でもそのうちに二人はわたしにこう言ったの。『さぁ、そろそろアナタの住む世界に戻る頃よ』って。『ここにはいずれまた、来ることができるでしょう』ってね。私も本当にそんな気がしたわ。でも、それがいつになるのかずっとわからなかった。けれど、今はもうわかるわ。それとね、その体験をしてからね、私は死ぬことは怖くなくなったの。きっと死ぬとそこに行けるって今は信じてるから。けれど、あなたたち二人とお別れをする悲しさまではやっぱり消えないみたい…」
すると、キミの両目から涙があふれて頬にこぼれていった。
「シルビィー、私はいつだってこれからもあなたを見守っているわ。だからね、あなたは自分のやりたいことに進みなさい。夢を持って生きるのよ。そして、きっと幸せをつかんでね。…ママみたくね」
そしてキミは苦しそうに咳き込みはじめた。
「ええ、ママ、わかったわ。でもママ、死んじゃダメだよ。まだまだ私にはママが必要だよ。だから死なないでよ。ママ。お願いよ…」
「そうだよ、アイリーン頼むよ。俺だってお前がまだまだ必要だ」
「ごめんなさい…。二人とも、もっと強くなって…。人はいつか…必ず別れるときが来るものよ。いつかは…その日がやって来るの。それがいつ訪れるのか、それは誰にもわからないわ。だから…後悔しないように……毎日を大切に生きてね。そして、…自分の幸せだけじゃなくて周りの人にも幸せを……分けてあげて。あれをしておけばよかった。こうすればよかったって、後悔しながら過ごしてはだめ…よ。だって……しないで……後悔するより……して後悔するほうが……ずっといいでしょ? なんでも……試してみなくっちゃ、人生……おもしろくないわよ。だから……自分を信じてあげて。がんばるの。……シルビィー、いつかまた……きっと……会えるときが……くるわ。その日を……楽しみに、してるわ。そのとき……まで、元気でね…。………二人とも……愛してる…わ……」
それからキミは穏やかな顔で最後の息をしたんだった。
「マ、ママ!? いやよ。ママ、起きてよ。お願いよ、ママ、目を開けてよ。ママ~ッ!」
「アイリーン…」
キミが亡くなって、数日後にキミの遺品を整理していたら、ある封筒が見つかったんだ。それはキミから僕宛のものだった。そこには手紙と一緒に1冊の銀行の通帳が入っていた。その通帳の名義はシルビアで、毎月300ドルずつ、積み立てがされていた。キミの倹約はそのためだったんだね。キミの手紙どおり僕はまだこの通帳を大事にしまってある。けれど、そろそろこれをシルビアに渡す時期なんじゃあないかって最近思うんだけれど…キミは賛成してくれるかい、アイリーン?
8話目につづく…