プロローグ~S.01 アイリーンズ・バー
はるかな旅へ
-Dreamland-
――人は生きているかぎり、誰かと出会い、また別れるときがやってくる。そして一度別れると多くの場合、再び出会うことはまずできないものだ。彼が旅人であっても、そうでなくても…。だから人は誰でも時を旅する旅人である。――「ヒロシの日記」より
<登場人物の紹介>
ヒロシ…「はるかな旅へ」のレギュラー・メンバーでありこの物語の中心的な存在。イギリスの出身らしい。実は彼の旅の真の目的は誰にもわからない。
ハセ…ヒロシの旅の仲間であり、ヒロシの数少ない心を許せる親友的な存在。国際A級ライセンスを持つ一応レーサーでもあり、車の整備士としての腕も優れている。料理の腕もいい、またかなりのグルメでもある。ニュージーランドの小さな村の出身。
クルミ…謎多き女。ヒロシたちがウエスト・コーストを旅しているときに何度か会ううちに知り合うようになった。そしてときおり一緒に旅をするときもある。彼女の旅の目的はわからないが、かなりリスキーなことを行っているようだ。
リョウ…ヒロシたち4人の中では一番最後に加わった少年。クルミにはまるで弟のように慕われている。ウエスト・コーストのポートランドのダウン・タウンで孤児たちのリーダーをしていた。ある理由で今はヒロシたちと旅をするようになった。また、ときおりクルミの手伝いをすることもある。
シルビア…今回の話の中では中心人物。マスターKと共にフォッグストンにある「アイリーンズ・バー」で働いている。またそこではシンガーも兼ねている。
マスターK…アイリーンズ・バーの経営者。またヒロシのよき理解者。
アイリーン…アイリーンズ・バーの名の由来になった、ピアノを弾き歌うシンガーだった。そしてシルビアの亡くなった母親。
コロ…ヒロシの子どもの頃よく遊んだ白い犬。今はもう亡くなっているが、Dreamlandで再開する。
ナルア…ハセの子どもの頃、一緒に遊んでいたマオリの族長の長女。やはり今はもう亡くなっているが、Dreamlandで再開する。
ケイト…ケインのビジネスを手伝っている女。一見冷淡なようだが、内面はそうでもないらしい。
ケイン…Dreamlandに入るための「サプリメント(?)」をビジネスにしている、正体不明の人物。
ゴードン…シルビアにつきまとう、シルビアに言わせると嫌な奴。しかし、ただそれだけではなさそうな謎の男。
ベルナー…Dreamlandの世界に住みながらそこの世界の研究を続けている。シルビアが何度かそこを訪れているうちに、いつの間にかシルビアにとっては心強い味方となった。
カール…Dreamlandではベルナーの馬番として暮らしている。Dreamlandにいる「幻獣」を間近で見た唯一の人物。
◆プロローグ◆
サンタ・クルーズを過ぎると、ルート1は広大な入り江に沿って右にカーブしていく。1920年から30年代はこの湾でのイワシ漁は盛んで、フォッグストンには今でもその名残のイワシの缶詰工場の跡が残っている。今では、そこはちょっとした観光名所の建物となっている。ハセとリョウのたっての願いで、俺たちはフォッグストンに向かう前に、このサンタクルーズの森の奥にある不思議なスポット、その名も<ミステリー・スポット>と呼ばれるところに立ち寄ることにした。またクルミはというと、一人でバイクで人と会うとか言って、今朝のモーテルをすでに俺たちよりも先に出てしまった。そしてこのサンタ・クルーズにきているはずだ。後を追うなというメモをリョウ経由で渡された。一体クルミは誰と会うっていうのだろう。
道はミステリー・スポットに向かうほど、どんどん細くなってきた。大型バスなどでは行くことができないところだった。またその分、森の木々の葉が道に枝垂れかかったりなんとなくその名に相応しい雰囲気になってきた。
「なんか不気味な雰囲気になってきたね」とリョウがいうと、
「ワクワクしてくるぜ」とハセ。
ハセは怖いもの知らずというか、むこうみずなところがちょっとある。そういえばハセのいたニュージーランドには過激なスポーツが多かった。その点リョウはポートランドの下町育ちだから危険察知が極めて早かった。しかし、今回はハセに同意だ。このミステリー・スポットは危険なところではなく、重力・磁気異常地点ということで、いろいろと変わったことが起こる。ちなみにオカルト的でもない。前に行った時には目の前の身長の違う二人が場所を入れ替わると高さが同じに見えたり、ボールが下から上に転がっていったり、鉄の振り子を右から押した場合と左から押した場合では重さが違って感じたりと…その理由を自分なりに考えてみたが結局はわからなかった。で、今回もハセたちと行ってみたが、謎は深まるばかりだった。とにかく常識では通用しないそんな場所がこのサンタ・クルーズの森の奥にひそやかにだが存在している。
そのミステリー・スポットの見学の後、偶然にも、途中の道でクルミと合流した。それから俺たち4人は遅めのランチをとったのだが、その後に、急にクルミはリョウを連れて先にカーメルに行くことになった。なんでもサンタ・クルーズであった友人がカーメルの高級ホテル<ラ・プラード>のスイートルームを予約してくれたらしい。
「じゃあ、夕食はどうするんだ?」俺がクルミに尋ねると、
「実は、夕食つきなの」ということだった。
「ラ・プラードでディナーだって!?」
「そんなにすごいの?」とリョウがきいてきた。
「ラ・プラードはカーメルでは最高級のホテルなんだよ。料理だってフランス料理のフルコースだぞ」
「え、そんなにすごいホテルだったの?ヒロシは泊まったことあるの?」とクルミが今度はきいてきた。
「まさか⁉︎ 1泊スタンダードの1シングルベッドの部屋でも最低でも300ドルは下らないんだぞ。クルミの友人って実はすごーいお金もちなんだな。それにしても、変わってる友人だ。自分は森の奥でひっそりと暮らして、友達にはあんなすごいホテルのスイートルームに泊まらせるんだからな…」
「金持ちの考えることなんて所詮我々プロレタリアにゃ、わからないってことさ」とハセがもっともだというそぶりで言う。
「だから変人っていったでしょ」とクルミ。それで、13才の特権ってやつでリョウがクルミと一緒に泊まることになったのだが、
「ところで、リョウはジャケットはあるにしても、ネクタイとワイシャツは持ってるのか?」
「まさかー、おいらが持ってるわけないじゃん」
「だろうな。クルミ、どうするんだ?」
「そうね、カーメルの町で適当にみつくろっておくわ」
「え~ないとだめなの?」
「それなりのホテルのディナーなら、やはりカッコはつけないとな。リョウを連れて、カーメルのオーシャン・アベニュー沿いのザ・プラザに行くといい。あそこなら、服ならたいていのものが揃うから」
「サンクス、ヒロシ。じゃあ、お店が閉まらないうちに、リョウを乗っけて先に行くわね」
「ああ、じゃあ、二人とは明日の朝、10時にフォッグストンのキャナリー・ロウの前で」
「キャナリー・ロウね。で、何そこは?」
「いわし工場跡さ。現在はお土産屋等が入っている観光地だから、時間もつぶせるだろうし」
「わかったわ。明日の朝にまたね。リョウちゃん、必要なものだけもってきてね」
「うん」
「それは置いていけ」とハセ。
「えーっ!?おいらのおやつぶくろ…」
「一泊ぐらい我慢しろ。それにうまい夕食くえなくなるぞ」と俺が言うと、
「わかったよ。チェッ…」とリョウは悔しそうに舌打ちした。
それからまもなく、クルミはリョウを連れて先に出発した。
夕食をハセの要望で桟橋のレストランに入った。ゆでたダンジネス・クラブとクラム・チャウダーを頼んで食べた。ハセの情報は当たっていて、まずまずのうまい料理だった。
俺は実は以前一人でこの町に来たことがあった。そのときに、親しくなった懐かしいカフェ・バーにこれからハセを連れて行こうと考えていた。
S.01 アイリーンズ・バー
木枯らしも吹く11月頃だったな。寝るのにはまだもったいないと思い、その日お泊りのMunrus Ave.沿いの安いモーテル近くのBARで「ブルー・ムーン」という名のオレンジの香りのする半濁色のエールを飲んでいたときだった。そこに2人のロッカーらしき若者が入ってきて俺の一つ隣の席に腰をかけたんだ。年は20代前半ぐらいだった。
「バドを2つ」
というと、その二人はすぐに話し始めたんだ。
「なんで、リクエストを無視したんだ。あのお客さん、チップのはぶりたいそうよかったっていうのに。一体どうしたっていうんだ」
「俺はロッカーだからよ。『金髪のジェニー』なんて歌えるかよ!ってんだ」
「そんなくだらない理由でか」
「くだらないとはなんだよ。俺にもロッカーっていうプライドぐらいあるんだよ」
「ったく、お前のプライドにもあきれるぜ」
「おい、いいか、教会の聖楽隊にポップスを歌えって言ってやってくれるのか」
「ああ、ウーピィならやってくれるさ、きっと」
「俺はウーピィとは違う」
「そうだよな、彼女は大スターだ。お前はただのロッカーだものな」
「言ったな、そういうお前だってただのバンマスだろう」
「ああ、そうさ、だから、俺にはチップが必要なんだよ。頼むからその鼻持ちならないプライドなんとかしてくれよ…」と言った。
「……とまあ、だいたいこんなやりとりだったよ」
午後に着いたフォッグストン町の中心地から、やや離れた小さなバーのカウンター席で俺の左隣に座っているヒロシがいつものようにその町での思い出を俺に聞かせてくれた。俺もヒロシのそういった話を聞くのが楽しみだった。
「で、そのあと二人はどうなったんだ」と俺は興味津々できいた。
「ああ…」とだけ言うと、ヒロシは、自分の手元の先ほど注文したウイスキーのロックの残りを飲み干した。
「実はね、そのバーってのがここなんだよ」って教えてくれた。
「へ~っ、それならだいぶ昔のことなんだろう?」って俺は尋ねた。
「いいや、ハセに会う3年ぐらい前のことだから、今からもう4年も前のことになる」
「いいえ、正確には3年と9ヶ月よ。」と、突然ヒロシの左隣に腰掛けてきた赤いロングドレスの女が話しに割り込んできた。そしてヒロシが振り向きざまに言った。、
「シルビアじゃないか!?」
「お久しぶりね、ヒロシ。お元気?」とその美女が答えた。
「ああ、でも今日は休みだってマスターKが言ってたもんだから…」
「ええ、そのことならマスターがさっき私に電話をくれたのよ。あなたが来てるってね。あなたのお隣のイケメンさん、紹介してもらえるかしら」
「ヒロシ、誰だい、その美女は?」俺はヒロシの耳元で小声で話した。
「そうせかさないでくれよ、二人とも。シルビア、彼はハセ。ハセ、彼女は―」
「シルビアだろ、それはわかったよ。よろしく、シルビア」
「こちらこそよろしく、ハセくん」
「で、俺が聞きたいのは…」
「私たちの『関係』でしょ?」
そういうとシルビアは小悪魔っぽく微笑み、ヒロシの反応を見るかのように視線を彼に向けてきた。
「マスター、私にいつものお願いね」
「O.K.」
「ブルー・ムーンかい?」とヒロシは彼女に言った。それはまるで話題を変えたがっているかのようにも思えた。
「いいえ、それはもう…。マスター、早くして」という彼女は先ほどとは違って少し元気がなく、やや寂しげな口調だった。
「ちょっと待ってくれ。あちらの常連さんのテーブルの注文が先だよ」
「あちらって―」
「ようシルビアじゃあないか、あいかわらずいい女ときてる。たまんねえぜ。今晩暇なら付き合えよ。いいだろう」
声のする方へ振り返ると、わりとゆったりとしたイタリア製らしい黒のジャケットにチャコールグレーのシャツに、ブルース・ブラザーズがかぶっているような黒の帽子を深くかぶった男がいた。こっちからだと向かって右目しか見えないが、歳は40代ぐらいだろうか。
「最悪、ゴードンが来てるなんて…」今度ははき捨てるように彼女は言った。
「シルビア、誰なんだい?」
「ヒロシ、あなたは知らなくっていいの。イヤな奴…それだけよ」
「おっ、シルビアがいるぜ」
「ほんとだ、シルビアだ」
「なあ、シルビア、せっかくだから何か歌ってくれよ」と急に店の奥にたむろっていた、常連客らしい者たちがせわしなくなってきた。
「もう、しょうがないわねぇ。ヒロシ、ちょっとここで待っていてね。向こうで2、3曲歌ってきちゃうから」
「了解」ヒロシは先ほど注文したジェイムソンのロックを一口飲むとそう答えた。
「そうだ、あなたに久しぶりだから歌ってあげるわね、あの曲を」
「あの曲?」ヒロシはすぐにはその曲のことが浮かばなかったようだった。
「シルビアが歌ってくれるぞ!」
「待ってました!」また先ほどの常連客らから声があがった。
するとシルビアがピアノのある小さなステージにいこうとしたときだった。先ほどのゴードンとかいう奴の前を通ろうとしたときに、奴はおもむろに彼女の手を掴んだ。とほとんど同時に一瞬だが二人の目が合った。その後、すぐにシルビアの方から手をふりほどこうとした。そのとき、彼が立ち上がり彼女の耳元に何かを囁いた。すると彼女は顔にしわをよせたかのように見えた。
「ええ、わかってるわ…」とシルビアが答えた。すると男は席に座りなおした。
「さて、ご来場の皆さん、静粛に。こんばんは、いつもいつもこんな今にも倒れそうな古いBARに飲みに来てくれてありがとう。でもね、この今にもつぶれそうなこの店を新しく作り直すのにはまだまだ皆さん飲んでくれないとダメみたいだわ。それに私のこのドレスだってもうみんな見飽きちゃったでしょ。私の新しいドレスが見たいんだったらもっとじゃんじゃん注文してヘドが出るくらい飲んでちょうだい。みんな、わかった!」
「ハハハ、今日は一段とシルビア節がさえまくってるじゃないか」
「ドレスだったらこの俺が買ってやるよ~!」また常連たちから声が上がった。すると、シルビアが切り返した。
「そうよ、フェス。久しぶりの友達が見えてるんだから。スティーブ、あなたの見立ては趣味悪いから遠慮しておくわ。さあ、それではまずこの1曲からね。CALLING YOUよ」
「ったく、シルビアの毒舌にはかなわんよ。ここだってオールドタウンの昔からある少しは名の知れたBARだっていうのに…」とマスターが愚痴りながら俺たちに話しかけてきた。
「俺はこの雰囲気好きだよ。それにしても、シルビアの毒舌はあいかわらずだなぁ…」とヒロシが懐かしむようにそれに答えた。
「ああ、特に今夜は誰かさんのせいで、調子いいみたいだな。お帰り、ヒロシ。今度はどのぐらいこの町にいられるんだい」
「まだ、今のところ決めてない」
「そうか、だったらしばらくはいてもらえるとうれしいね。もし、まだ宿が決まってないんだったら俺の家に部屋が1つ空いてるからなんだったらここにいる間使ってもいいんだよ。どうだい」
「ああ、あそこか…。とりあえず今晩の宿はみつかってるんだ」
「あ、あの、ぜひそうさせてください、マスター。ヒロシ、ここはご厚意をうけよう。少しでもお金は節約しないと…」
ヒロシと一緒に旅をしはじめてからもう半年はたつ。俺たちはわけあって、といってももっぱらヒロシが決めるんだけれど、一つのその町に長く居続けるときがあった。そしていざ宿泊はというと、ダウンタウンの比較的リーズナブルなモーテルを使うこともしばしばあるが、こんな風にその町で出会った人の家に泊まらせてもらうこともある。こんなチャンス、みすみす逃す手はない。それに今回はヒロシの昔なじみの人の家なわけだし…。
「ハセ、BARで飲みながらいうセリフじゃあないと思うんだけれど…。それにさっき仮予約済ませてきたろう」
「そんなの、いつものことだろ。ここは費用節約さ。マスターぜひお願いします!」
「やあ、ハセ。ようこそわがBARへ。うれしいねぇ。このヒロシよりも話がわかるじゃあないか」
「いえ、『長旅は節約』が肝心ですから」
「ふ~ん、で、昨日も町の情報誌に載ってる店で名物料理食べようって率先して食べに入ったのは誰だったかな?」
「アハハハ、そ、そりゃあさぁ、旅行にはグルメも大事な要素だしね」
「ハセ、もう一度言ってくれないか、今の『セリフ』」
「えっ、旅行には…」
「ハセ、前にも言ったが俺たちは『旅』をしている。観光旅行とは違うぞ」
「ああ、わかってるよ…。でも旅行も旅もどうせなら楽しいほうがいいに決まってるよ。ねぇ、マスター」
「ヒロシ、おまえさん、ハセにはまだ…」
「マスターK、そこまでだ。これ、おかわり頼むよ」
「あ、ああ…O.K.すぐ作るとしよう」するとマスターはその場から逃げるかのように俺たちの前から離れていった。
「ところで、マスターK、いつから彼女のドリンクの好みは変わったんだい?」
「お前がこの町を去ってからすぐだよ。シルビアはな…」
「ああ、わかってるよ…。でも俺の答えは決まっていた。そしてこれからも…」
「ヒロシ、お前はいつまでこの『旅』を続けるんだ。そもそもお前の旅の終点ってのはどこなんだ」
「マスター、ヒロシは絶対にそのことについては誰にも話さないんだ。俺も何度もそのことは聞いたよ。でももう今ではどうだっていい。俺はヒロシと共に一緒に旅を続ける。それが楽しいしうれしいんだ。…明日何が待ってるかわからない。時には不安なときやちょっとヤバかったときもあったけれど、でもそれでも俺はヒロシと一緒にこの旅を続けていきたいんだ」
「ハセ君、ヒロシはいわば俺やシルビアにとって他人じゃあない。家族みたいなもんだ。だから、そのヒロシと共に旅を続けるキミもこれからはヒロシ同様、家族のように迎えよう。これからもヒロシをよろしく頼むよ」
「ええ、こちらこそ、マスター」
「よかったら、Kと呼んでくれ」
「ええ」
「マスターはマスターKさ」とヒロシが言った。
「そうか、…じゃあ俺も『マスターK』」
「なんかその呼び方は照れるな」と言ってマスターは照れ隠しに笑った。
それからしばらく3人でいろいろと話をしているとシルビアが再び戻ってきた。
「ずいぶん話が盛り上がってたじゃない。二人とも私の歌なんて全然どこ吹く風ってかんじね」
「いや、シルビア。キミの歌、そのとっても、よかったよ」と俺はとっさに取り繕った…つもりだったんだけれど。
「ふ~ん。ハセくん、キミおもしろいわね」とあっさりと流されてしまった。
「そ、そうかな、ハハ…」俺は笑うしかなかった。そんな俺をみておもしろそうにヒロシは笑った。ちっくしょう。
「で、マスター、ヒロシは泊まるんでしょ。わたしたちの家に」
「わたしたち?」と俺は思わず声に出してしまった。え、この二人一緒に暮らしてたのかよ。ってことはつまり…。
「アレ!?まだ、言ってなかったの?二人とも」
「ハイ」と、マスターとヒロシはハモって答えた。
ヒロシと俺はこのあと間もなく、このBARのすぐ横のトレーラー・ハウスに向かった。
「本当はどこかいいレストランでって言いたいところだけれど、こんばんはおうちでディナーよ。ところで、ヒロシ、ハセ、二人は何を飲むの?ワイン?それともビール?まだあるわよ。コーラでしょ、オレンジジュースにティーバッグの紅茶にインスタントのコーヒー。何がいい?」
「コーラで。」と俺は言った。
「ヒロシ、あなたは何にするの?」
「水でいいよ」
「了解。食後に紅茶だったわよね。今晩はとっておきのあるわよ。二人は先に飲んでいてね、私、着替えてくるから」するとクルミは玄関横にある彼女の部屋に入っていった。外からはわからなかったが、なかなか中は快適な造りだった。
10分ほどしてから、シルビアは先ほどのBARのときとは変わって履着古したブリーチのジーンズに足元はスニーカー、胸元の開いたピンクのTシャツの上に紺のパーカーを着ていた。この国に入ってからよく見かけるカジュアルな装いだった。髪もさっきまではアップでまとめていたのを今はおろしている。肩下 20センチぐらいのダークブラウンのソバージュだった。これはこれでまた彼女の魅力を引き出していた。
「さて、わたしはワインでも飲もうかしら」
「どっちを飲むんだい?」とヒロシがシルビアにたずねた。
「白がいいな。たしか冷蔵庫にナパ・バレー産のシャルドネが残ってたはずなんだけど」するとヒロシが立ち上がって冷蔵庫へ向かっていった。
「O.K.これだな。シルビアはそこで座ってな。グラスは洗面台の上の棚だったよな」
「ええ、ありがと、ヒロシ、優しいんだ」彼女はヒロシを見て、はにかみながら答えた。
ヒロシもシルビアを一瞬見つめた。そのすぐ後、ヒロシはシルビアのグラスにそのワインを注ぎながら言った。
「ワインってのは女が一人、手尺で飲むもんじゃないだろ」
へ~っ、そうなんだ…覚えとこ。
「ところで、マスターKは?」とヒロシがライトイエローに塗られた壁にかかっている、やや古びた木製の壁時計を見ながら言った。
「もうすぐ来るわ。先に始めててって。実はきのうの残りなんだけれど、わたしの特製ミートローフが冷蔵庫にあるんだけれどよかったら、みんなで温めて食べない?あまりもので悪いんだけれど、味はけっこういけるわよ」
「O.K.俺がそれを温めるよ」と今度はすばやく俺が立ち上がった。
「オーブンで1分半で充分よ。ありがと、ハセ君。二人の紳士がいて、今晩は幸せだわ」と言ってシルビアは微笑んだ。
「うわぁ、これうまそうだ。シルビアは、歌だけじゃあなくて料理もうまいんだ」と俺は思わず舌なめずりしながら言った。
「そうよ。歌だけじゃないわ。結婚したらいい奥さんになるんだから…」すると、シルビアは立ち上がって冷蔵庫を開けた。
「えっ、じゃあまだ結婚してないんだ!?」
「誰と?まさか、マスターとですって?フフっ、やめてよ。悪い冗談は。あ~んもう私ったら、せっかくシーザーサラダ作ったのにドレッシングがきれてるわ。どうしましょう」
俺はなぜかホッとした。
シルビア、オリーブ・オイルはあるかい?」と俺はたずねた。
「ええ、それならあるわ」
「だったら、ちょっと待ってて」すると俺は、部屋から出て行こうとした。
「ハセ、今頃にどこに行くんだ?」
「ちょっと車にね。とっておきの持ってくるよ」
「ああ、なるほど。了解とヒロシが手を上げて答えた。
「ねえ、彼一体何を持ってくるっていうの?」
「ああ見えても、奴はけっこうなグルメなのさ」
「へぇ、人ってみかけによらないのね」
「ああ、人は必ずしもみかけどおりじゃない…」
ヒロシたちのいるトレーラー・ハウスから外に出ると、BARの裏手にある駐車場へ向かった。それにしてもシルビアたちの住んでいるこのトレーラー・ハウスは俺の故郷の町の家々と比べても大きかった。やはり、この国はすべてが大きい。それに人間もでかい奴らがいっぱいいる。それにしてもヒロシはいったいこれまで何カ国旅をしてきたんだ。たしか彼の故郷はイングランドっていってた。それに、フランスやイタリアのこともよく知っているようだった。そしてこの国。しかも家族同然の親しい仲間もいる。今さらながら、彼の交友関係と旅の経歴のすごさを感じる。そして、やはり気になるのはヒロシの旅の目的だ。彼は絶対にこの長い旅の目的を決して明かさない。ヒロシはいつか俺に旅の真の目的を教えてくれるのだろうか?それとも…。
「あった~。これこれ、モデナ産の極上8年物のバルサミコ・ソース。やっぱ、サラダにはこれだね!」と、俺がガソリンと同じくらい大事なこのバルサミコ・ソースをとったときだった。
「出て行ってくれ!」先ほどいたバーの方から声が聞こえた。
「ああわかった。但し期限は守れよ。遅れたらアイリーンズ・バーはどうなっても知らないからな。俺にだって限界がある。いいな」
「ああ、約束は守る。だから、今日みたいに人前でシルビアに手を出すな」
なんだって!?
「ふん、いい加減娘離れしたらどうだ。あれだけのいい女ほっておいたらバチがあたるってもんだろ。それよりも本当にそろえられるんだろうな。タイム・リミットまで時間がないぞ」
「ああ、わかってる。だからこんばんはもう帰ってくれ。頼む」
「O.K.じゃあまたくるぜ。それまでせいぜい頑張ってくれよ。じゃあな」話しているのは、マスターとさっきのシルビアがいっていたいやな奴だった。これってけっこうヤバい展開じゃないか。ヒロシに知らせないと…。
そのとき、誰かが後ろから話しかけてきた。
「おっと、そのままじっとして。キミは今の話をきいていたようだね」
「いや、俺はその…このソースをとりに今きたばかりで…」と俺は彼に言われたとおり、背を向けたまま言った。たしかにへたに顔を見ないほうがいいかもしれないとそんな気がしたからだった。
「それかい。モデナ産のバルサミコ・ソースか。なかなかいいもの使っているみたいだね。私もそれの愛用者だよ。でもそれが割れたりしたら気の毒だな」
「割れるって?」と俺は言った。また、声の主が穏やかな物言いだったので、俺は彼に向き合うことにした。その男の身長は1m90cmはあった。彼は黒いロングのトレンチ・コートを羽織っていた。目は赤いサングラスをかけていてよくわからなかった。金髪のロンゲに同じ色の髭を口元に生やしていた。
「いやぁ、キミがおとなしくついてきてくれればそんなことにはならないと思うがね…。キミしだいだよ」
一方、ダイニングでは―
「ハセ、何やってんだろうな」
「そうね、あれからもう15分にもなるっていうのに。ひょっとしてグロッサリーにでもドレッシングをわざわざ買いに行ってくれてるのかしら?」
「それなら、奴はエキストラ・ヴァージン・オリーブ・オイルを買ってくるだろうな」
「グルメだから」今度はシルビアとヒロシがハモって言った。
「ヒロシ、待ってる間、ワイン付き合わない?」
「ああ、そうするかな」
2話目へつづく…