潜入
少女は1人で公園にいた。
周りには小さな子供達とその母親達がたくさんいる。
平和な光景。
少女も小さく微笑んでいるように見える。
ユラユラ揺れるブランコに乗りながら、オレンジ色の夕日を背景に考え事をしている少女の姿は美しい。
少女は一体今何を考えているのか。
少年の事なのか、あの魔法の粉の事なのか…
少女はふと公園の外にある歩道に目をやった。
そこには小学生が数人が楽しそうに会話をしながら歩いていた。
横断歩道を渡ろうとしている。
少女は何を考える事もなく、その子供達を見ていた。
その中の1人の男の子が横断歩道の途中で突然止まった。
どうやら、靴ひもがほどけてしまったようだ。
男の子はその場でしゃがみこみ、真剣な顔で靴ひもを直し始めた。
不器用なのか、なかなか上手く結べない。
その様子に1人の女の子が気付き、男の子に近寄っていった。
女の子は、手伝ってやるわけでもなく、ただ隣で男の子を見ている。
それが返って、2人の仲のよさを少女に感じさせた。
他の子供達はすでに横断歩道を渡りきり、反対側の歩道に到着していた。
その時、青信号が点滅し始めた。
その事に2人は気付いていないようだ。
少女は2人に危険を感じ、ブランコから立ち上がった。
猛スピードで走っている白いセダンが見える。
あのままのスピードでは止まれない。
少女は全力疾走で2人の元へ急いだ。
「危ない!!」
反対側の歩道にいる男の子がそう叫んだ。
と、ほぼ同時に少女は動けないでいる2人を抱え、一緒に道路に転がった。
「お前ら何やってんだ!」
乗用車の窓が開き、オヤジの怒鳴り声が響いた。
「うるせぇ!お前だって見えてたのにスピード緩めなかっただだろうが!何キロ出してんだ!ハゲ!」
少女も負けずに怒鳴り返す。
オヤジは舌打ちをし、すぐに窓を閉め、発信した。
「ありがとうございました」
少女に助けられた男の子と女の子は、2人揃って少女に頭を下げた。
「あんたたち、とりあえずこっちきな」
2人の仲間達が駆け寄ってきたが、到着する前に少女は2人の頭を一発ずつ殴った。
2人は涙目で頭を押さえている。
その場に到着した仲間達は、自分の友人が知らない人に殴られている様子をみて、唖然としていた。
「あんな所で止まってたら危ないに決まってんだろうが!今度からは気をつけな」
「はい!」
2人は深くうなずいた。
少女は素直にかわいいと思った。
「みんなで仲良く帰るんだよ」
少女は2人の頭をなで、ニッコリと笑った。
「本当にありがとうございました!」
小学生達は小走りで去っていった。
少女は笑顔のまま見送る。
「お前、何者?」
背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
少女は後ろを向く。
「南條」
そこには少女の担任の南條ソウタがニヤニヤしながら立っていた。
「どんだけいいヤツなんだよ。何戦隊?」
「てめぇふざけんなよ!」
口調はキツいが、少女は明らかに照れている。
南條は嬉しそうだ。
「飯、おごってやるからついてこい」
南條はなかば強引に少女を自分の車に乗せた。
「誘拐で訴えるぞ」
少女は冗談とわかるようにそう言った。
どうやら彼女はこの南條という男には逆らえないようだ。
「そんな事したらマジで誘拐するぞ」
「教師がなんて事言うんだよ」
「お前、俺の事ちゃんと教師だと思ってんだ」
「自惚れんな」
端から見ると、この2人は仲のよい兄妹のようだった。
子供っぽいが面倒見のよい兄と大人びてはいるが手のかかる妹。
少女と南條はある場所に到着した。
「おい」
少女は怒っている。
「なんだ?」
南條は平然と答える。
「飯、おごってくれるんじゃねぇのかよ」
「そうだけど?」
「だったらなんでまたお前の部屋なんだよ!」
南條は悪びれる様子を少しも見せない。
「お前が飯作れ」
「ヤダ」
「あ、そう。じゃぁ、こっから自分の家まで歩いて帰るんだな?」
南條は笑いながら少女に小さな脅しをかけた。
少女は不機嫌になったが、歩くのはいやなので渋々南條の部屋に入っていった。
出来上がった料理を差し出すと、南條の表情はそれまで以上に明るくなった。
「うまそう!これ、マジでお前が作ったの?」
南條は鶏肉のトマト煮を箸でつつきながら言った。
少女の意外な特技を知って、とても嬉しそうだ。
「そうだよ。あんた以外にあたししかいないだろ」
南條は料理に夢中で、すでに少女の話を聞いていない。
「やべ〜!うめぇよ!」
マカロニサラダを口に含みながらそう言う南條は本当に子供のようだ。
少女は少し口元を緩める。
南條の真正面に腰を下ろし、少女も料理を食べ始めた。
料理を食べ終わり、少女は洗い物をしている。
南條は後片付けまで少女に任せ、のんびりタバコを吸っている。
少女が洗い物を済ませ、南條の隣に座った。
タバコの箱に伸びた少女の手を南條がつかむ。
「お前はダメ」
「いいじゃん」
「まぁいいけど」
「いいのかよ」
だけど少女はタバコを吸わなかった。
「お前、テツって名前の男知ってるか?」
南條の突然の問いかけに、少女の心臓が激しく動いた。
少女はテツを知っている。
どうして南條がテツを知っているのか不思議に思うくらいだった。
だが…
知っている、と言ってもいいものなのか。
「そいつがどうかしたの?」
「今は俺が質問してるんだ。答えろ」
少女が南條の真剣な表情を見たのは久しぶりだった。
話をそらすわけにはいかない。
「知ってる…」
知らないフリも出来なかった。
テツを売るか、南條にウソをつくか…
少女にはどうしても南條にウソをつく事が出来なかった。
「居場所、わかるか?」
「わからない」
それは本当だった。
でも、それを南條が素直に信じてくれるか、少女は不安になった。
「そうか」
少女は南條ソウタという男をナメていた。
この男は、少女の事を絶対に疑わない。
心底信用しているのだ。
そんな南條を少女もまた信用していた。
「テツ、何かしたの…?」
南條は下唇をかんだ。
言いにくい事がある時に必ず見せるクセだ。
「実はな、今うちの学校に薬が出入りしてるみたいなんだ。
テツが流してるらしい。
まだハッキリした事はわかってねぇし、そのテツって奴が実在してるかも微妙だったんだ。
でも、お前はテツを知ってる。
という事はテツは実在してるって事だよな。
なんとかして流れを止めたい。だから、俺に協力してくれないか?」
少女は複雑な気持ちだった。
南條の手助けをしたい―でもテツを裏切るわけにもいかない―
テツに一番近い人間の自分なら確実に協力できる―
だけど…―
少女はジレンマに苦しんだ。
「頼む」
南條は床に額をつけている。
少女は南條のこんなに必死な姿を見るのは初めてだった。
テツ…
ごめん…
あたしはこの人を助けたい…
自分の学校を守りたい…
あんたの被害に合うのはあたしだけでいい…
少女は南條を選んだ。
「わかった。でも、居場所は本当にわかんないんだ」
南條はもう一度深く頭を下げ、しっかりした表情で顔を上げた。
「ヤツがよく行って場所ならわかるか?」
少女は少し考え、何かに思い当たった。
「岩佐木組…」
南條はぎょっとした顔で少女を見た。
「マジかよ?!思いっ切りヤクザじゃねぇか!」
「何?ビビってんの?」
少女はニヤリと笑う。
「バーカ!ビビってなんかいねぇよ」
「ふぅん」
少女はまだ疑っているようだが、南條をからかっている場合でもないのでそれ以上は何もいわなかった。
「岩佐木組の本拠地、どこか知ってるか?」
生徒にヤクザの本拠地の場所を尋ねる教師がどこにいるんだ。
「知ってるわけねぇだろ。でも、調べてみようか?」
「調べられんの?」
南條は興味深そうに少女の顔を覗き込んだ。
そして、気づいた。
「お前の親父さん、警察だったよな」
「いや、この場合は親父よりも…」
「他にも情報源がいるのか?」
「まぁな」
「それは助かる。じゃ、頼むよ」
「任して」
2日後。
少女は初めて自分から南條の部屋を訪ねた。
前もって連絡をしている訳でもなかったので、いるかいないかもわからない状態での訪問だった。
エレベーターに乗り込み、『5』のボタンを押す。
エレベーターはカタカタと音をたてて、ゆっくりと上がっていった。
『南條』と書かれた表札があるドアの前に立つと、少女は少しだけ緊張した。
何度も来ているはずなのに。
インターホンを押すと、外にも聞こえるくらいの音がした。
中からは何の反応もない。
少女が「いないのか…」とつぶやいた時に、南條の全くやる気のない声が聞こえた。
「だれ〜?」
「あたしだけど」
少女はあえて名乗らずにそう言った。
「お前か。開いてるから入れ」
南條は軽い声で言った。
少女はドアを開け、中に入った。
相変わらず汚い部屋。
玄関を上がると、南條は寝そべってテレビを見ていた。
「だらけすぎだろ」
「別にいいだろ。俺の部屋なんだから」
「まぁ、どうでもいいけど」
少女が本当にどうでもよさそうに言うと、南條はテレビを消し、起き上がった。
「なんか飲むか?」
少女はうなずく。
南條は、すぐに2つのカップを持って台所から戻ってきた。
1つのカップを少女に差し出す。
温かいミルクティー。
「テツの居場所、わかったのか?」
少女は首を横に振る。
「それはまだわかんないけど、岩佐木組の本拠地ならわかった」
南條は驚いた表情を見せた。
「お前、すげぇな。仕事早いし。で、岩佐木さんはどこでお仕事してらっしゃるの?」
少女はその場所を口にした。
「うわ〜、なんていうか…まんまだな」
少女は不安そうな顔を見せた。
南條はすぐにそれに気がつく。
「どうした?」
少女は一度うつむき、再び南條の顔を見た。
「岩佐木組の本拠地なんて聞いてどうすんの?乗り込もうとか思ってないよね?」
南條は少女に真剣な眼差しを向け、すぐにニッコリと笑った。
「心配すんな」
少女は南條のその言葉を聞いて、一気に泣き顔になった。
「あんた何考えてんの?!バカじゃない?!相手は岩佐木だよ!!ただの教師がヤクザに勝てるわけないじゃん!!」
少女は南條に岩佐木組の本拠地を教えてしまったことを後悔した。
南條はまだ笑ったままだ。
折れないモノを心に秘めているような表情。
「勝てるとは思ってねぇよ。
でも負けるとも思ってない。
やってみなきゃわかんねぇしな。
でもな、俺は戦いに行くわけじゃねぇぞ。
ただテツを見つけ出したいだけだ。
俺はさ、誰が何と言おうが教師だ。
自分の学校を守りたいと思うのが当然だろ。
薬なんかに侵されてたまるか!
生徒達が何よりも大事だから」
南條は、正義感とか使命感とかそんなものでこんな無謀な事を言っているのではない。
ただ生徒を守りたいという思いだけで言っているのだ。
少女もそのことをわかっていた。
だからこそ、南條に全面的に協力しようと決意したのだ。
「本気?」
「当然」
「だったら、いいこと教えてあげる」
「何?」
「テツが行きそうな場所、思い出したんだ」
「本当か?!どこ?!」
「ギルティー」
南條のスーツ姿は確実にカタギには見えない。
ましてや教師なんてありえない。
少女は異常に露出の多い格好をしている為、実年齢より少し大人に見える。
2人が何故このような格好をしているかというと、『ギルティー』に行く為。
『ギルティー』とは、テツが出入りしている可能性のあるクラブである。
目立つと困るので、雰囲気に馴染めるような格好で来いという少女の指示に、スーツとジャージしか服を持っていない南條が出した結論がヤクザに扮装するというものだった。
このクラブでも薬の売買が行われている可能性が高いので、ヤクザがいてもおかしくはないという南條の気の利いた発想に少女は驚いた。
「脱ぎたい」
ただ、問題点がある。
南條本人はスーツが苦手なのだ。
「あんた、自分で言い出したくせに何言ってんの?ここにいる間だけとりあえず我慢しろ!」
南條は小さく「はい」と言った。
入り口の真っ黒のドアには銀色で『guilty』と書いてある。
南條はその文字を見つめ、おもむろに言った。
「お前、『ギルティー』の意味わかるか?」
「わかんない」
南條はドアを睨みつけた。
いつもの穏やかな表情からは想像できないような表情だった。
「有罪」
「え?」
「『ギルティー』は有罪って意味なんだよ」
少女も南條と同じようにドアをにらみつけた。
「ピッタリだ」
店の中は薄暗く、少し肌寒い感じだった。
「お前、寒くない?」
「大丈夫」
普通の客と同じように自然に振る舞うのは意外に難しい。
2人はとりあえずカウンターに腰を落ち着ける事にした。
「何にする?」
南條が少女に聞く。
「カシスソーダ」
「そうか。じゃぁ、俺は何にしよっかな」
「そうかって…いいの?」
南條は少女の方を向き、片方の眉をつりあげた。
「どうせいつも飲んでるんだろ?」
「まぁ」
「それに、こんな所でジュースなんて飲んだりしたら不自然だ」
南條は少女のカシスソーダと自分のレッドアイを注文すると、辺りをキョロキョロと見回し始めた。
「だいぶ不自然だけど」
少女は呆れたように言った。
「そうか?」
「そうだよ。っていうか、あんたテツの顔知らないんだから探したってわかんないでしょ」
注文していた酒がそれぞれの前に差し出された。
レッドアイを飲んだ南條は、険しい表情になった。
「どしたの?」
「俺、酒ダメなんだ」
「じゃぁなんで注文したんだよ」
「強がり」
「バカか」
そんな他愛のない会話をしていると、背後から他の客達の激しい笑い声が聞こえてきた。
少女はそれを少し不快に思い、笑い声の方に視線を向けた。
そこにはテツがいた。
少女は南條に肩を寄せ、ささやく様に言った。
「テツがいた」
南條は少女が思っているよりバカではなく、すぐに後ろを向いたりはしなかった。
「覚えてる範囲でいいから、状況を説明してくれ」
少女は目をつむり、一瞬だけ見たテツとテツの周りの様子を頭に思い浮かべた。
「入り口から数えて3番目のテーブル席…
男女合わせて5〜6人かな。
テツは白のタンクトップに軍パン。
シルバーのネックレスもつけてると思う」
少女の観察力に南條は驚いた。
「充分だ。お前はもう後ろを向くなよ」
少女は小さくうなずいた。
南條は一瞬だけテツの方に視線を向けると、すぐに向き直った。
「アイツか…」
南條の目つきが変わった。
南條は腰を捻ったりのびをしたり、あらゆるカモフラージュをしながら、頻繁にテツの行動をを見張っていた。
しばらくその状態が続くと、予想外の人物が動いた。
カウンターの向こうにいたバーテンが姿を消していたのだ。
「しまった!」
バーテンがいない事に気がついたのは南條が先だった。
少女は背後に意識を集中していた為、前方の人間が消えている事に全く気がつかなかった。
バーテンはおそらくテツの仲間。
南條と少女の会話を聞いて、それをテツに報告しに行ったに違いない。
「おい、出るぞ」
南條はテツに聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの声で言った。
少女は南條に腕をひっぱられるようにして走る事になった。
だが、向かった先は出口ではない。
少女と南條は、出口のすぐ横にあるトイレの入り口付近に身を隠した。
「出るんじゃないの?」
「出る訳ねぇだろ。何しに来たと思ってんだよ。あ、ほら見ろ」
南條はあごでテツの方をさした。
テツもバーテンも他の仲間達も、少女と南條の姿を探しているようだ。
2人はしばらく様子を見ていた。
すると、テツ達は少女達が店を出たと思い込んだようで、また楽しそうに騒ぎ出した。
バーテンもカウンターに戻っていった。
「これからどうすんの?」
少女は不安そうにたずねる。
「もうちょっと見張る」
南條はテツから一瞬も目を離さずに言った。
少女も素直に従った。
「たぶん、そろそろ動き出す」
「どういう事?」
「あいつら、薬の売買いつもこの店のトイレでするらしい。決まった時間にな」
「調べたの?!」
南條はニヤリと笑っただけで何も言わなかった。
少女は、南條には教師よりも合った仕事があるような気がした。
「あと5分」
時計を見ると、午後11時55分だった。
「ちょっと動くぞ」
南條は少女にギリギリ聞こえる声でそう言うと、また少女の手を引き、今度はトイレの個室に入った。
数秒後、足音が聞こえた。
さらに数秒後、もう一つ足音が聞こえた。
「どうも〜」
低いが軽い声が聞こえた。
若くはないようだ。
「どうも」
今度は間違いなくテツの声。
「最近、量多くない?」
「そうっスか?まだ足りないくらいっスよ」
「体は大事にしろよ」
「これがない方が俺の体ヤバくなりますよ」
2人の笑い声。
嫌な笑い。
「うちのは純度いいからねぇ〜。そこらのとは質が違うのよ。じゃ、親父さんに宜しくな」
「うぃっス」
テツがそう言うと、薬を売ったと思われる男がトイレから出て行った。
今このトイレ内にいるのはテツと少女と南條の3人だけ。
少女は直感的にヤバいと思った。
少女の予感は的中した。南條は個室から飛び出し、背後からテツの口を塞いだ。
「お前がテツだよな?」
テツは何度も頷いた。
怯えている。
南條の扮装は効果抜群のようだ。
「今、薬買ったのか?」
テツはまた何度も頷く。
意外に正直なようだ。
もしくは、ただの小心者。
「誰から?」
どこにしまってあったのか、南條はテツに紙とペンを差し出した。
用意周到。
「さっさと書け」
どうやら南條はテツの首を軽くしめているようだ。
テツは震える手で紙とペンを受け取り、答えを書き始めた。
「ウソ書いたら殺すから」
南條はテツの耳元で優しくつぶやいた。
少女はその様子をずっと個室の中から見ている。
南條から、出てくるなという指示があったわけではないが、出ていってはいけない事はなんとなくわかっていたから。
テツは答えを書き終わり、紙とペンを南條に返した。
《sugarっていうホストクラブのオーナーから》
紙には汚い字でそう書いてある。
「薬の名前は?」
《スパーク》
「オーナーの名前は?」
《鮫崎ショウヘイ》
「鮫崎がいってた親父さんってのは、岩佐木の事か?」
テツがうなずく。
「スパークってさ、ピンク色の錠剤か?」
テツは一瞬眉間にシワを寄せた。
なんでこいつがスパークを知っているんだ?
こいつは一体誰なんだ?そんな事を考えていそうな表情だった。
テツが返事が遅いからか、南條はテツの首をしめている腕に少し力を込めた。
すると、テツは涙目になりながらコクコクとうなずいた。
その時、トイレの中に他の人間が入ってきた。
どうやらただの客のようだったが、少女は音がしないようにさっと個室のドアをしめた。
南條はテツの口を塞いだままうしろから抱き締め、顔をさらに寄せた。
今までの流れを知らない人間が南條とテツのこの体勢を見たら、確実に誤解し、そして納得するだろう。
ここはそういう店なんだ、珍しくはない、と。
南條の機転のよさに少女はまた驚かされた。
今トイレに入ってきた客は、テツと南條をチラリと見ただけで特に何の疑いも持っていないようだ。
1分もしないうちにただの客は用を済ませ、トイレから出て行った。
それを見届けた南條は、テツから少し体を離し、ただの客が入ってくる前の体勢に戻した。
「やっぱ男に抱きつくのはキツい」
南條のその言葉を聞いて、少女はまた個室のドアを少し開けた。
少女がここにいるという事は、まだテツには気付かれていない。
《なんでスパークの事知ってんだ?名前は知らなかったくせに。あんた誰なんだ?》
テツが南條を睨みつけながら紙を差し出した。
南條に対しての恐怖がだいぶ薄れてきたようだ。
「それをお前にいう必要はねぇ。それより、お前スパークのプッシャーだよな?高校生にも売ってるんだろ?」
テツは首を横に振った。
「ウソついたら殺すって言ったはずだけどな。もう一回聞くぞ。高校生にも売ってるんだろ?」
テツは、しばらく間を開けてから観念したようにゆっくりうなずいた。
「俺の妹の学校にも流れてきてて困ってんだわ。
妹もハマっちまってさ。
お前から買ったって言ってんだけど、どうしてくれんの?」
真っ赤なウソだが、本当の正体を現すわけにもいかないので仕方ない。
《そんなの俺のせいじゃねぇよ。買った妹が悪い》
「お前がいなきゃ妹は買ってない。だから全部お前のせい」
南條はさらに腕に力を入れた。
それ以上力を入れたら死んでしまう。
《わかったよ。もうその学校の生徒には売らない。どこの高校?》
「○○学園」
《わかった》
「おんなじ事やりやがったら、お前の安全保障できねぇから」
《約束する》
南條はテツに差し出された紙をじっとみつめ、テツの首と口に置いてある手を離した。
テツは豪快に咳き込んだ。
その時、トイレ内にガタッという大きな音が響き渡った。
南條がテツを殴ったりしなかった事に安心して気を緩めてしまった少女が、個室の中にあるゴミ箱を蹴ってしまったのだ。
出口を目前にしていたテツが、その音に振り向いた。
「何の音だ?」
テツが訝しげに聞いた。
「何でもねぇ。気にすんな」
南條は言ったが、言い逃れ出来るはずもなかった。
テツは少女が入っている個室に近づいていく。
南條はテツを止める言葉が思い付かない。
少女も逃げる事は出来ない。
テツがドアを蹴ると、ダンッという音と共にドアか勢いよく開いた。
テツと少女の視線が合う。
「お前、なんでここにいる?」