告白
ふと時計を見る。
やっぱり午前5時。
いつものように、ミネラルウォーターを飲もうと冷蔵庫に向かった。
少しずつ喉に流し込むと、気分がスッキリした。
今日はドライブがてらに車で通勤しようか。
生徒に傷でもつけられたらたまらないのでいつもは車では行かないけれど、今日はなんとなく車に乗りたい気分だ。
7時50分になったので、家を出た。
電車じゃないので、家を出る時間も少し遅い。
高校生の時に父親に買ってもらった愛車のボルボに乗り込み、エンジンをかける。
同時に音楽が鳴り出した。
「よし、行くか」
1人でつぶやき、アクセルを踏んだ。
見慣れた景色も気分によって、良くなったり悪くなったりするもんだ。
流れている音楽を軽く口ずさみながら、学校へと向かった。
学校に到着すると、騒がしくあたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
「藤嶺先生!藤嶺先生!」
せっかく気持ちのいい朝なのに誰だよ。
うるさい。
声の主はすぐにわかった。
つるっぱげで脂性のこの学校の教頭だ。
「なんですか?」
「あの、ちょっと話があります」
この教頭はなぜか、あたしと話をする時はいつもビクビクしている。
「だから、なんですか?」
とにかく、めんどくさい事を言われそうな気がしてならない。
「申し訳ないんですが…」
そう思うなら、その先は言わないでほしい。
「担任をやってもらえませんか?」
「は?」
「3―Aの担任をやって頂きたいんです」
くそ〜。
話が見えない。
この教頭はったおしてやろうかな。
「どういう事です?あのクラスにはちゃんと担任がいるでしょう」
キツい口調で言うと、教頭はあたしから目をそらした。
「そうなんですが…柳先生が…」
柳とは、この間まで3―Aの担任だった教師だ。
「柳先生が何ですか?」
教頭のスローペースの話し方があたしをイライラさせた。
「蒸発しました」
何を言い出すんだ、このタコは。
「蒸発?なんで?」
あたしはついに敬語を忘れた。
「理由はわかりませんが、とにかく行方不明になったんですよ」
「はぁ…で、どうして後任があたしなんです?」
「それが…誰もあのクラスの担任をやりたがらなくて…だから、生徒に一番年齢が近い藤嶺先生がいいんじゃないかと思いまして…」
あたしの事怖い割にはけっこう言いたい事言うじゃねぇか。
つまり、一番年下で身分も低いあたしに、イヤな仕事を押し付けようってわけなんでしょ?
「そうですか、わかりました」
教頭は、あたしが意外に素直に引き受けたもんだから驚いている。
「引き受けて頂けるんですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
教頭はあたしの手をつかみ、無理矢理に握手をした。
いてぇよ。
キモいよ。
放せよ。
他の教師たちもホッとしているのが見え見えだった。
重い気持ちで3―Aに向かっていると、自然とため息が出てきた。
3―Aの生徒が嫌いとかではなく、担任を持つ事自体がもうめんどくさいのよ。
そんな気持ちを抱きながらトロトロと歩いていると、目的の教室に着いてしまった。
教室のドアに手をかける。
ドアを開ける。
この一連の動作に、できる限り時間をかけた。
ドアが開くと、生徒達の目は一斉にあたしを捉えた。
なんだか気まずい。
「はぁ?なんで藤嶺?意味わかんねぇ」
さっそく矢崎ユウリに罵声を浴びせられたが、気にしない。
「えっとー、今日からあたしがこのクラスの担任だからよろしくね」
「は?マジ何言ってんの?」
あたしは一応先生なんだけども。
なんだ、この扱いは。
「このクラスの担任だった柳先生は、体調が悪いのでしばらくお休みです。だから、その間はあたしが担任することになったの」
「柳先生、大変な病気とかなんですか?」
今度は連城ツバキだ。
この子にはあたしを敬う気持ちが少しあるようだ。
あたしが高校生だった頃はどっちかっていうと、ユウリみたいなタイプだった。
むしろ、ユウリに勝る悪ガキだった。
その時のあたしの担任から言わせると、あたしが学校に行くという事自体がすでに奇跡だったらしい。
学校には行かないわ、行ったら行ったで暴れるわで大変だったんだって。
『お前はただ椅子に座ってるだけでいいから』
それが唯一出された担任からの課題だった。
それすら守れなかったあたしに課された新たな課題は、
『1分でもいいから学校に顔をだせ』
どうやらこれが担任の中での最低ラインらしいと気づいたあたしは、その課題だけは確実にこなした。
毎日短時間でも学校に顔を出すことによって、学校の楽しさというものもわかってきた。
キチンと6時間授業に出ることも増えていった。
もともとそれほどバカではなかったみたいで、必死で勉強したら大学にも入れた。
あたしが更正できたのはその先生のおかげだと思う。
もし、あの時の担任が違う教師だったらと思うとゾッとする。
だからたぶん、あたしはその先生に一生感謝し続けるだろうな。
「大丈夫よ。ただ少し体調が悪いだけだから」
「そっか。ならよかった」
ツバキはあたしにニッコリ笑いかけた。
あたしもそれに応じた。
チャイムが鳴ったので朝のショートホームルームを終え、職員室に戻ると、またもや不穏な空気が漂っていた。
今度は何よ。
あたしは誰とも目を合わさないように自分の机に向かった。
「あ、藤嶺先生」
声を掛けられてしまった。
もー。
「何でしょう?」
「狭間コウスケが退学届を持ってきました」
「は?」
教頭はとにかくコレを見ろ、というように封筒を差し出した。
白い封筒には『退学届』ととても整った字で書いてある。
コウスケが退学?
そんなバカな。
封筒から中身を取り出し広げてみると、便箋の真ん中にたった1行『一身上の都合で自主退学させていただきます』とだけ書いてあった。
その『一身上の都合』っていうのをみんな知りたいんだけどな。
「この退学届いつ持ってきたんですか?」
「ついさっきですよ」
今思えば、さっき3―Aの教室に行った時コウスケはいなかった。
あたしは職員室を飛び出した。
「藤嶺先生!どこ行くんですか?!」
そう叫んでいる教頭を無視して、あたしはコウスケを探した。
どこにいるんだろう。
どうして退学届なんて出したの?
何が何でも理由を聞き出してやる。
あたしは自分が高校生だった頃を思い出し、コウスケの居場所を予想した。
何かイヤな事があったり、考え事をするときには必ず行った場所。
息切れを感じながらたどり着いたその場所は、屋上。
生徒の出入りは禁止してあるため、赤いポールが置いてあったが、あたしはそれをどかして屋上に入った。
広い殺風景な屋上のど真ん中には、タバコをくわえて空を見上げているコウスケの姿があった。
あたしの心臓は、そんなコウスケを見て何度か激しく動いた。
昔の自分に似ているからだろうか…
「もう見つかった」
コウスケはあたしの方を見ないで言った。
あたしが来ることをわかっていたような言い方だ。
「すごい走ったからね」
あたしが言うと、コウスケはフッと笑った。
かすかに笑ったその顔は、とてもキレイだった。
かっこいいとか男前という言葉よりも、コウスケにはキレイという言葉が相応しい。
コウスケの隣に腰を下ろすと、コウスケはあたしにタバコの箱を差し出した。
あたしが首を横にふると、また少し笑ったあとに箱を引っ込めた。
「なんで退学届なんて出したの?」
コウスケの目をじっと見つめると、コウスケも見返してきた。
キレイな目。
カラーコンタクトでもしているのだろうか、ほんのりグリーンがかっている。
「別に」
「理由がないわけないでしょ?」
「ただ学校くんのがめんどくさくなっただけだよ」
あたしから目をそらしたコウスケは明らかに嘘をついている。
「本当の理由を言って」
あたしはコウスケを睨んで言った。
コウスケもあたしを見た。
しばらく無音の会話が続く。
『言いなさい』
『理由なんてないって』
『そんなわけない』
『本当だって』
『早く言え』……
「わかったよ」
コウスケがため息混じりに降参した。
「兄貴がさ、壊れたんだよ。だから学校なんて来てる場合じゃねぇんだ」
壊れたって何…?
「どういう事?」
コウスケは黙ってしまった。
聞いてはいけない事を聞いてしまったような気がする。
「薬」
「薬…」
あたしは…すごい告白をさせてしまったのではないだろうか。
こんなに身近な所にまだジャンキーがいるなんて……
「あたし…あなたの相談に乗れるよ」
「無理しなくていいよ。あんまり関わらない方がいい」
あたしなら、本当にコウスケの話を聞いてあげられる。
助けてあげられるかもしれない。
「そういう訳にはいかない。あたしはあなたの担任なんだから」
「担任?」
コウスケは首を傾げ、いつもより多くまばたきをした。
「柳先生ね、蒸発しちゃったんだって。だから今日からあたしがあなたのクラスの担任になったの。でも、他の子には柳先生は病気だって言ってあるから内緒ね」
「ふぅん」
柳の蒸発話には興味がないらしく、正面を向いてしまった。
「ねぇ」
コウスケがもう一度あたしを見てくれればいいな、と思いながら話しかけた。
「ん?」
こっちを向いてくれた。
あたしの心臓はまた小さく跳ね上がった。
「学校…やめないで?」
自分でも驚くくらい情けない声が出た。
顔が赤くなるのを感じて、すごく恥ずかしくなった。
すると、コウスケがあたしの頭に手を置いた。
「そんなに悲しい声出さないで。
兄貴の事がなかったとしても、そのうちやめてたと思うよ。
だって俺、頭もそんなに良くないし、教師たちにもいいように思われてないし、ここにいたって意味がない。
だから、ごめんね」
今の状況、どっちがガキだかわからない。
「他の先生がどう思ってても、あたしにはあなたが必要よ。
あなたが本当はすごく優しいって事も、面倒見がいいって事も知ってる。
だから…」
コウスケはあたしを自分の胸に引き寄せ、がっちりと抱き締めて笑った。
「なんでそんなに必死なの」
そう言いながらケラケラ笑っているコウスケを見て、あたしは少し腹が立った。
でも、タバコの匂いとほんのり甘い匂いが混ざり合っているコウスケの制服の香りが懐かしく、居心地がよかったのでなかなか離れられなかった。
離れたく…なかった。
「じゃぁ、やめない?」
なんだか今日は、いつもの自分でいられない。
「もうちょっとがんばってみるかな。あんたが担任なら少しは楽しくなりそうだしな」
「よかった。じゃぁ、何かあったらあたしに言ってね」
「わかったよ」
コウスケはあたしを離し、立ち上がった。
ズボンについた砂をはらっている。
その時、おしりのポケットから何かが見えた。
あ〜忘れてた。
「とりあえず、コレは没収ね」
あたしはコウスケのおしりのポケットからタバコの箱をスッと取り出した。
「なんだよ、今更」
「一応これも仕事だから」