天敵
突然、意識がハッキリする。
激しい息切れを感じた。
汗をかいている。
不快。
きっと、何か嫌な夢でも見ていたのだろう。
まったく覚えていないけど。
ひどく喉が渇いた。
水でも飲もうと冷蔵庫に手をかけた瞬間、頭がフラフラして、その場に膝から崩れ落ちた。
冷蔵庫の取っ手をつかみ、腕の力だけで立ち上がると、そのまま冷蔵庫の中のミネラルウォーターを乱暴につかんだ。
500mlのペットボトルの半分を一気にのどに流し込むと、少し気分が楽になった。
ふと時計を見る。
午前5時を少しすぎたところ。
もう1度寝ようかとも思ったが、どうせ6時半には起きなければいけないので、潔く起きる事にした。
あたしの名前は藤嶺カヅキ。
高校で音楽の教師をやっている。
特別教師になりたかったというわけでもないのだが、気がついたら生徒の前でピアノを弾いていた。
あたしが教えている生徒たちは、人の言うことを聞かない事に関しては天下一品だ。
まぁ、あんたたちの気持ちもわかるけどさ、ちょっとくらい聞いてくれたっていいじゃん。
時計が午前7時30分を回り、あたしはさっさと家を出た。
あたしの家から職場まではバスと地下鉄を乗り継いで40分弱。
今日は朝の職員会議がないから、学校に着いても授業が始まるまでには少し時間がある。
コーヒーでも飲もうか。
学校で飲むコーヒーはなぜかやたらとおいしい。
くだらない事かもしれないが、あたしが教師を続けているのはこのコーヒーの為かもしれない。
コーヒーを飲み終わると、いいタイミングで予鈴がなった。
さて、音楽室行くか。
1時間目から音楽って絶対めんどくさいよな。
職員室の入り口のすぐ横にかけてあるたくさんの鍵の中から音楽室の鍵を取り、職員室が出た。
廊下を歩き、階段を3階まで上がって、また少し廊下を歩いてやっと音楽室。
廊下を歩いている最中で、早くもぎゃあぎゃあとうるさい声が聞こえてきた。
うんざり。
あたしは嫌々ドアに手をかけた。
だが、開けようと思っても開かない。
生徒があたしに意地悪をしている訳ではなく、ただ校舎が古いだけなのだが、必要以上にイライラする。
あたしが必死でもがいていると、男子生徒から声を掛けられた。
「何やってんの?」
このクラスの狭間コウスケがのろのろと廊下を歩きながら、そう言い放った。
堂々の遅刻だが、なんの悪気もなさそうだ。
「ドアが開かなくて」
「ふぅん」
「開けてくれない?」
コウスケは、ものすごい勢いでドアを蹴った。
中の騒がしい声が止む。ドアが開いた。
「あんた、いつになったらこのドア開けられるようになるわけ?」
あ、ムカつく。
でも、とりあえず礼は言っておく事にした。
「ありがとう」
あたしは引きつった笑顔をコウスケに向けた。
コウスケは無表情でスタスタと教室内に入った。
あたしもそれに続いて入る。
軽く全員を見回してみると、ため息が出そうになった。
クラスのほぼ全員ががあたしに興味を示さない。
ものすごく真面目な生徒が1人くらいいてもよさそうだが、このクラスにそれは期待できない。
生徒達は、各自メイクやらメールやら読書(マンガやファッション雑誌)で何かと忙しそう。
たまに音楽の教科書を開いているやつがいるかと思ったら、バッハの肖像画に落書きしているだけだったり。
あんたらさ、ちょっとは学ぼうよ。
そのためにガッコウってあるんだよ。
まぁ別にいいんだけどさ。
「今日は何するか覚えてる?」
誰にというわけでもなく聞いてみた。
「覚えてませ〜ん」
妙に色っぽいこの子は矢崎ユウリ。
なぜだかいつもあたしに絡んでくる。
そんなにあたしが嫌いか?
でもまぁ、そういう年頃だよね。
あたしだって、あんたたちくらいの年の時は意味もなく教師という生き物が嫌いだったよ。
「今日はドラムのテストするから、名簿の順にたたいてね」
「そんな事聞いてませ〜ん」
その語尾の伸ばし棒をなんとかしていただきたい。
「言ったわよ。リズムのプリントも配ったはず」
あたしは正直テストが嫌いだ。
少し前までは一切やらなかったんだけど、もう1人の音楽教師に怒られたので仕方なくやっている。
普段、態度の悪い子が実技テストで意外な才能を発揮してもいい成績はつけたくない。
その場だけの評価で成績なんてつけたくない。
こう見えて、あたしは意外に真面目なセンセイなんだよ。
ドラムのテストは速やかに進み、コウスケの番がきた。
「じゃぁ次、狭間くん」
コウスケは無言でドラムに向かって歩いてくる。
ドカッとイスに座ると、スティックを見つめた。
「どうしたの?」
コウスケはあたしをチラッと見ただけで、返事をしなかった。
コウスケがリズムを刻み出すと、そこにいる全員がすぐに引き込まれた。
何の狂いもない見事なドラムさばき。
たたき終わった事にも気づかないくらい聞き入ってしまった。
「終わったんだけど」
コウスケがぶっきらぼうに言った。
「え?あぁ、ゴメン。お疲れ様。もういいよ」
あたしがそう言った後も、なぜか目を離さない。
「何?」
そう聞くと、コウスケはやっぱり無愛想に言った。
「スティック変えた方がいいんじゃない?」
スティックをよくみると、傷だらけだった。
「そうね。検討しときます」
次は矢崎ユウリの番。
「矢崎さん」
「なに?」
「次、あなたの番」
「めんどくさい」
そう言うあんたがめんどくさいワケよ。
ユウリは机の上に足を乗せて、一向に動こうとしなかった。
「めんどくさいとか言わないで、やってくれないと困るのよ」
「あんたが困っても、あたしには関係ねぇよ」
「とにかく…」
言いかけた時、ガタンと大きな音が教室内に響いた。
コウスケが椅子に座りながら、自分の机を蹴り倒していた。
「さっさとしろよ」
コウスケにそう言われたユウリは、むくれた。
「なんであんたに言われなきゃなんないの?」
消え入るような声でそう言ったユウリだったが、荒っぽく立ち上がると、ドラムの前の椅子に座った。
が、そのまま足と腕を組み動かなくなった。
「何してるの?」
ユウリは明らかに不機嫌だ。
「どうすればいいのかわかんない」
「さっき説明したでしょ?このリズムをドラムでやって」
あたしは、リズムがプリントされている用紙をユウリに差し出した。
ユウリは乱暴に用紙を受け取り、それをあたしの目の前にかざした。
「何?」
「あんた、ウザいよ」
ユウリはイヤな笑みを浮かべると、そのままの表情でリズムの用紙をあたしの顔の真ん前でビリビリと破った。
「こんな事やってられっかよ」
破った紙をクシャクシャに丸め、あたしの顔に投げつけ、そのまま出て行ったユウリはすでにこの教室内の生徒全員の注目の的となっている。
あたしは、うつむいたまま体を震わせた。
心臓もパンクしそうなくらいにドキドキしている。
もちろん、泣いているのではなく怒りのせい。
「せんせ〜、泣かないで〜」
何人かの男子生徒が、勘違いをして慰めの言葉をかけている中で、1人だけあたしの心情に気付いていた。
「先生。我慢しなよ。首になったら困るだろ」
狭間コウスケが言った。
コウスケは、あたしがなんとかユウリに仕返しをしようと思ったことを見抜いたのだ。
確かに、首なったら困る。
「大丈夫。ありがと」
あたしがニッコリ笑って言うと、コウスケも少し笑った。
他の生徒達は、あたしたちの会話の意味がよくわからなかったらしく困惑している。
コウスケ。
あんた、いいヤツ。
ユウリ以外の全員がテストを終えても、まだ授業は終わらなかった。
10分残っている。
「じゃぁ、あと10分は自由にしてていいよ」
すぐに音楽室は一層騒がしくなった。
先程までは一応抑えていたようだ。
「ねぇ、先生」
あたしが、油断しきった顔でぼーっとしていると、1人の女子生徒が声をかけてきた。
「ん?」
「コウスケの事、どう思う?」
また…なんというか…予想外の質問だわ。
女子生徒は心配そうな顔をしている。
「どうって…いい子だと思うけど」
女子生徒は益々心配そうになった。
「それだけ?」
「それだけ」
「ホント?」
「ホント」
女子生徒はようやく納得したようで、明るくかわいらしい顔になった。
この子の名前は、連城ツバキ。
ツバキは、お人形さんのような外見をしていた。
校則違反の明るい茶色のくるくるパーマは、注意する気が失せるくらいよく似合っている。
「よかったぁ」
ツバキは満面の笑顔を見せてくれた。
なんだ、この笑顔。
食っちまいたい。
思わず持って帰りたくなってしまいくらい可愛らしい笑顔だった。
この子はコウスケの事が好きなのか…
そう思うと、自分の中に違和感が生じた。
小さな嫉妬心。
あれ?