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第9話 帰り道が短く感じるのは、春のせいだけじゃない

夜の梅を見て帰った次の日の朝、俺は起きた瞬間から少しだけ居心地が悪かった。


 理由は分かっている。


 白沢依子と二人で夜の偕楽園を歩いて、帰り道までちゃんと“そういう時間”だったからだ。


 “そういう”の中身を言葉にすると面倒なので、俺はそこをあえて曖昧にしている。

 でも曖昧にしたところで、なかったことにはならない。


 静かだった。

 近かった。

 優しかった。

 そして少しだけ、落ち着かなかった。


「恒一」

 と、手前の部屋から声がした。

「起きているなら返答せよ」

「起きてる」

「ならば出てこい」

「命令すんな」

「朝食の準備が進行中だ」

「言い方」

「早くしろ」

「はいはい」


 布団から出てDKへ向かう。


 ドアを開けた瞬間、味噌汁の匂いがした。

 昨日スーパーで買った豆腐と、わかめ。それから卵焼きらしい甘い香り。炊飯器からはちょうど炊き立ての湯気が立っている。


 ……えらくないか?


 そして同時に、生活への侵食速度が速い。


 朱音はエプロンなんて可愛いものはつけず、黒い長袖の上にそのままカーディガンを羽織って立っていた。料理する格好としてどうなのかと思うが、妙に板についているのが悔しい。


「何だ、その顔は」

「いや」

 俺は椅子を引きながら言う。

「普通にすごいなって」

「何がだ」

「朝飯」

「当然だ」

 朱音は平然と味噌汁をよそう。

「食は生活の基盤だ」

「そういうとこだけ聞くと立派なんだよな」

「“だけ”とは何だ」

「そこは流してくれ」


 味噌汁の椀が目の前に置かれる。

 あたたかい。朝の冷えた空気に、この湯気だけでだいぶ救われる気がした。


「どうした」

 朱音が怪訝そうに聞く。

「黙るな」

「いや、昨日まで一人だったのに、朝起きたら味噌汁がある生活ってすごいなと思って」

「……」

「何その顔」

「別に」

「いや、絶対今ちょっと照れたろ」

「気のせいだ」

「耳赤いぞ」

「湯気だ」

「便利だな、お前の世界」


 朱音はふいっと顔を逸らし、代わりに俺の前へ卵焼きの皿を置いた。


「冷める前に食え」

「はいはい」


 箸を取る。

 味噌汁は普通にうまい。卵焼きも少し甘めで、俺の好み寄りだった。


「……これ、甘さちょうどいいな」

「知っている」

「何で」

「昨日の卵焼きに砂糖をどの程度使っていたか、調味料の減りで推定した」

「こわ」

「合理的分析だ」

「そう言われると余計こわいんだよ」


 ただ、その“分析”が当たっているのがまた困る。


 俺はしばらく黙って食べた。

 その間、朱音は自分の分の味噌汁を持って向かいに座る。朝のDKに二人分の食器の音がある。これももう、昨日までの部屋とは違う。


「……昨日」

 と、朱音が何でもないふうに言った。


「昨日?」

「夜の件だ」

「ああ」

 俺は味噌汁の椀を置いた。

「梅のライトアップ?」

「それだ」

「うん」

「静かだったのか」

「静かだった」

「人は」

「いたけど、昼より少なかった」

「そうか」

「あと近かった」

「……」

「景色が、な」

「いちいち補足するな」

「お前がいちいち反応するからだろ」


 朱音は小さく咳払いをして、それ以上そこには踏み込まなかった。


 だが話題を終わらせる気もないらしい。


「隣室個体は」

「その呼び方やめろって」

「白沢は、どうだった」

「どうって?」

「……楽しそうだったのか」

「まあ」

 俺は正直にうなずく。

「楽しそうだったな」

「そうか」

「何だよ、その確認」

「情報収集だ」

「便利ワード」

「うるさい」


 でも、その確認の仕方は少しだけ慎重だった。

 依子のことを敵視しているのは変わらないのに、昨日よりは“相手を知ろうとしている”感じがある。


 梅まつりで言われたことが、少しは効いているのかもしれない。

 依子は敵意を返さず、しかも正面から褒めたり、ちゃんと興味を示したりした。朱音にとってああいう相手は、怒りづらい上に無視もしづらい。


 そこがたぶん、一番やりにくいのだ。


 食べ終わって片づけをしていると、スマホが震えた。

 テーブルの上に置いていた画面に表示された名前を見て、俺は少しだけ嫌な予感がした。


 大友。


 出たくない。

 でも出ないとあとでうるさい。


「もしもし」

『よう』

 開口一番、声がにやついていた。

『で、どうだった?』

「何が」

『夜の部』

「お前、それ昨日からずっとその言い方だな」

『だって大事なイベントだろ。昼の鬼塚さん、夜の白沢さん。春の二大観測対象』

「観測対象って言葉が伝染してる」

『で、結論』

「何の」

『どっちが強かった?』

「朝から最低だなお前」

『真面目に聞いてる』

「どのへんが」

『いや、だってさ。鬼塚さんは分かりやすく近いじゃん? 同居だし、昔からの距離感あるし』

「うん」

『でも白沢さんは、静かに詰めてくるタイプだろ』

「……」

『その顔してんだろ今』

「電話だぞ」

『分かるんだよ』

「何で」

『オタクだから』


 その理屈、本当に万能だな。


「別に、どっちが強いとかない」

『へえ』

「何だよ」

『その返し方、もうだいぶ意識してるやつ』

「してないって」

『あー、はいはい』

「何その態度」

『まあでも、どっちにしろお前の生活は終わったな』

「物騒な言い方するな」

『平穏の話だよ』

「……それは、まあ」

『だろ?』


 少しだけ返事に詰まる。


 大友はそこを逃さず、妙に楽しそうな声で続けた。


『でもさ』

「何」

『そういうの、嫌じゃなさそうなんだよな、お前』

「……」

『前の一人暮らしのお前って、ちゃんとしてたけど、ちょっと静かすぎたし』

「朝からなんでそんなこと言われなきゃなんないんだ」

『友達だから』

「うるさい」

『褒めてるつもりなんだけど』

「余計なお世話だ」


 電話を切ったあと、俺はしばらくスマホを見つめた。


 朱音が横でコップを拭きながら聞く。


「何だ」

「大友」

「どうせろくでもない話だろう」

「その通り」

「なら気にするな」

「お前、たまに正論だな」

「我は常に正しい」

「それは言い過ぎ」


 学校へ行く時間が近づいたので、俺たちはそれぞれ制服に着替える。


 俺が奥の部屋からブレザーを持って戻ると、朱音も手前の部屋からちょうど出てきた。まだ一年の制服は届いたばかりで少し硬そうだが、サイズは合っている。地味な色合いのブレザーの中で、朱音の髪と目元だけが少し強く見える。


「……似合うじゃん」

 俺が何となく言うと、

 朱音は一瞬だけ動きを止めた。

「お前」

「何」

「最近、そういうことを軽く言いすぎではないか」

「軽くっていうか、思ったから」

「思っても口に出すな」

「なんでだよ」

「調子が狂う」

「お前、ほんと分かりやすいな」

「うるさい」


 それでもちょっと嬉しそうなのだから、本当に分かりやすい。


 部屋を出ると、共用廊下の空気はまだ少し冷たかった。

 でも日差しは昨日よりも明るい。階段の手すりに触れると、朝の冷えがまだ残っている。


 103号室の扉が開き、大友が眠そうな顔で出てきた。


「おはよう地雷原」

「誰がだ」

「お前んち一帯」

「物件名みたいに言うな」

「お、鬼塚さん。今日は機嫌どう?」

「平常だ」

「それはまあ分かる」


 104号室からはひなたも出てきた。今日は少し遅めらしく、髪の毛がいつもよりふわっとしている。


「おはようございます」

「おはよう」

「先輩、寝不足です?」

「なんで」

「顔がちょっと考え事してる顔」

「顔が考え事って何だよ」

「分かるんですよ」

「ひなたまでそれ言うのか」


 俺たちは四人で一階の廊下を歩き、外へ出た。

 そのタイミングで、102号室の扉も開く。


「おはよう」

 白沢依子だった。


 その声を聞いた瞬間、俺は自分でも分かるくらいほんの少しだけ体が固くなる。

 昨日の夜を思い出したからだ。

 たぶんそれは、朱音も気づいている。


「おはよう」

 俺が返すと、

「眠そう」

 依子は小さく笑った。

「昨日、遅かった?」

「別にそこまでじゃ」

「でも、ちょっと考え事してる顔」

 依子まで言う。


「何でみんな同じこと言うんだよ」

「見れば分かるよ」

 と依子。

「恒一くん、分かりやすいから」

「ひなたにも言われた」

「でしょうね」


 大友が後ろで何かに耐えるみたいな顔をしている。

 お前は笑うな。今それをやると全部面倒になる。


 依子は何でもない顔で俺の隣に並んだ。

 昨日の夜の帰りと同じ距離。

 でも朝の住宅街だと、夜よりずっと日常の中に見える。


「昨日、寒かったよね」

「まあな」

「でも、夜の方がきれいだった」

「そうだな」

「……」

 朱音が横で妙な沈黙を作る。

「何だ」

 と俺が聞くと、

「別に」

 と返ってきた。


 その“別に”が別にではないのは、もう分かる。


 学校までの道は全員同じではないので、途中でひなたと大友が別の角を曲がる。

 残ったのは、俺と依子と朱音――のはずだったが、朱音は一年校舎の方へ行く都合で、途中から自然に少し前を歩く形になった。


 つまり、結果として俺の隣には依子がいる。


「鬼塚さん、怒ってる?」

 依子が小さく聞いた。


「怒ってるっていうか……」

「警戒されてる?」

「それはそう」

「そっか」

「でも、お前も分かってるだろ」

「うん」

「なのに普通に来るよな」

「だって隣だし」

「その言葉、万能すぎるだろ」

「便利だから」

「自覚あるんだ」


 依子は少しだけ笑ってから、前を歩く朱音の背中を見た。


「でも、鬼塚さんってちゃんと待ってくれるよね」

「え?」

「さっきから、少し前を歩いてるけど、置いていかないでしょ」

「……」

「たぶん、恒一くんが困ると分かってるから」

「それは」

「優しいよね」


 その評価はたぶん、正しい。

 そして正しいからこそ、返しづらい。


 朱音は露骨に敵意を見せることはあっても、俺が明らかに困る一線は越えない。昔からそうだ。むしろ越えそうで越えないから余計に面倒なのだが。


「お前、ほんとよく見てるな」

 俺が言うと、

「見てるよ」

 と依子は平然と答えた。

「恒一くんのことも、その周りのことも」

「……」

「変?」

「変っていうか」

 俺は少しだけ言葉を探した。

「そこまで言い切られると、さすがにちょっと怖い」

「また怖いって言った」

「だって」

「でも」

 依子はほんの少しだけ声をやわらかくした。

「見てるの、いや?」

「……いやではない」

「うん」

「でも、慣れない」

「それならいいよ」


 それでいいのかよ。

 いや、いいのかもしれないけど。


 学校へ着くと、当然ながら校舎はいつもの朝の顔をしていた。

 教室、廊下、ざわつき、提出物、眠そうな声。

 昨夜のライトアップも、ハイツ水戸黄門のDKも、全部少しだけ遠くなる。


 依子もここでは“隣人”ではなく“同級生”の顔になる。

 それがいつも少し不思議だ。


「じゃあ、また後で」

 依子が言う。

「うん」

「今日も帰る時間、だいたい同じ?」

「たぶん」

「分かった」


 何が分かったんだ。

 いや、何が分かったのかはだいたい分かる。

 分かるからこそ、ちょっと困る。


 教室に入ると、大友がもう席にいた。

 俺の顔を見るなり、にやっとする。


「おはよう」

「お前その顔やめろ」

「何も言ってないが?」

「言う前から分かるんだよ」

「じゃあ、分かるついでに質問」

「却下」

「白沢さん、朝からナチュラルに隣取ってたな」

「うるさい」

「鬼塚さん、明らかに前行ってたな」

「よく見てんな」

「観測者だから」

「その設定いつまで使うんだよ」


 俺が鞄を机に置くと、大友は机に頬杖をついた。


「でも、あれ面白いな」

「何が」

「鬼塚さんって、分かりやすく独占欲あるのに、ちゃんとお前の邪魔にはならないだろ」

「……」

「白沢さんは白沢さんで、ちゃんと近いのに押しつけがましく見えないし」

「……」

「つまり、お前の周り、今いちばんラブコメとして美味しい状態ってことだ」

「本人に言うな」

「本人だから言うんだろ」

「最低だな」


 大友は楽しそうに笑うだけだった。


 放課後まで、授業は普通に進んだ。

 眠気と戦い、先生の話を半分聞き流し、ノートを取る。

 けれど頭のどこかにずっと昨夜の帰り道が残っている。


 依子と並んで歩いた夜の梅。

 静かな会話。

 “私でよかった?”という問い。

 そして帰ってきたら、101号室の玄関から顔を出していた朱音。


 それぞれの距離が、昨日で少しだけ変わった気がする。


 気のせいかもしれない。

 でもその“少しだけ”が、たぶん一番厄介だ。


 放課後、いつも通り教室を出ると、廊下の角で依子が待っていた。


「帰る?」

「うん」

「じゃあ、一緒でいい?」

「……まあ」

「ありがとう」

「別に許可制じゃないだろ」

「でも、聞いた方がいいかなって」


 依子はそう言うが、聞き方がすでに自然に“隣を取る側”なのだ。


 校門を出ると、夕方の空気は朝より少しだけやわらかい。

 風はあるけど冷たすぎない。梅の季節はまだ終わっていないのだと、こういうときに分かる。


「今日、鬼塚さん早かったね」

 依子が言う。

「一年って、最初のうちは早く終わる日あるでしょ」

「ああ、たしかに」

「もう帰ってるかな」

「たぶん」


 その“たぶん”を口にした瞬間、妙な感覚があった。


 帰れば、朱音がいるかもしれない。

 昨日まではなかった感覚だ。

 しかもそのことを、依子と話している。


「……変な感じだな」

 俺が思わず言うと、

「何が?」

 と依子。


「いや」

 俺は少しだけ笑った。

「帰ったら誰かいるかも、っていうの」

「うん」

「一人暮らし長かったから、まだ慣れなくて」

「そうだよね」


 依子は歩幅を緩めながら言う。


「でも、ちょっとうらやましい」

「何が」

「帰ったら誰かいるの」

「……」

「私の部屋、帰ってもずっと静かだから」

「お前だって一人暮らしなんだもんな」

「うん」


 その言い方は、昨夜より少しだけ弱かった。


 依子は何でもない顔で話す。

 でも、こういうときだけ、たまにほんの少し本音が見える。


「寂しいのか?」

 俺が聞くと、依子は少しだけ考えるようにした。


「どうだろ」

「どうだろって」

「一人なのは慣れてる」

「うん」

「でも、隣から人の気配がすると、ちょっと安心する」

「……」

「前はそれだけだったけど」

「けど?」

「今は、隣にいるのが恒一くんだから、前より気になるのかも」


 また、そういうことを静かに言う。


 派手じゃない。

 でも、言われた方はたぶんずっと覚えてしまう。


 ハイツ水戸黄門の前が見えてきた。

 古びた外観と、見慣れた階段。

 帰り道の最後の角を曲がると、依子が小さく笑った。


「もう着いちゃった」

「……ほんとだな」

「短かったね」

「そうだな」

「帰り道」


 言われてみて、俺も同じことを思っていた。


 たぶん、昨夜よりさらに短かった。

 会話していたから。

 歩き慣れてきたから。

 それもある。


 でも、それだけじゃない気がした。


 依子といると、時間の感覚が少し曖昧になる。

 静かなのに退屈しないからかもしれない。

 何を考えているのか分かりそうで分からないからかもしれない。


「ねえ」

 依子がアパートの前で立ち止まって、俺を見た。

「帰り道が短く感じるのって、いいことだと思う?」

「……どうだろ」

「私は、ちょっと好き」

「そうか」

「うん」


 依子はそれだけ言って、102号室の方へ先に歩いていく。

 俺はその背中を見ながら、少しだけ遅れて101号室の前へ向かった。


 玄関を開けると、すぐに声が飛んできた。


「遅い」

「お前もそれ言うんだな」

「何だ、その言い方は」

 朱音がDKから顔を出す。

「誰かと比べているのか」

「いや、別に」

「その顔は比べている」

「何でそんなに分かるんだよ」

「分かるからだ」


 そして、俺の返事を待たずに続ける。


「隣室個体とか」

「……」

「やっぱり聞いてるだろ」

「お前が玄関前で妙な間を作るからだ」

「間って」

「帰り道がどうこうと言っていた」

「……聞いてるじゃねえか」

「聞こえた」


 壁、薄いな。

 いや、壁じゃなくて廊下か。どっちにしろよくない。


「で」

 朱音は腕を組む。

「短かったのか」

「何が」

「帰り道」

「……」

「いちいち言わせるな」


 俺は靴を脱ぎながら、少しだけ笑った。


「まあ、短かったかも」

「そうか」

「何だよ」

「別に」

「お前、それで終わらせるのか」

「終わらせてはならぬのか」

「いや、そうじゃないけど」

「なら問題ない」


 でも、その“そうか”の中に、少しだけ面白くなさそうな響きが混じっているのも分かる。


「晩飯どうする?」

 朱音が急に話題を変えた。

「今日は味噌汁の残りがある」

「切り替え早いな」

「空腹は待たぬ」

「それはそう」


 DKへ入ると、湯気の立つ鍋と、切り分けられた豆腐、それからまな板の上に置かれた長ねぎがあった。

 昼間の帰り道の短さも、昨夜のライトアップも、この部屋に入ると少しだけ現実に押し戻される。


 けれどその一方で、ここにはここで別の近さがある。


 隣の同級生との帰り道。

 同居の従妹との夕飯の支度。

 その両方が、もう同じ日常の中にある。


 帰り道が短く感じるのは、春のせいだけじゃない。


 たぶんそれ以上に、俺の生活の中にいる人間が、少しずつ増えてきたせいだ。

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