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第8話 夜の梅は、昼よりずっと心の距離を誤魔化す

その日の夜、俺は自分のスマホを三回くらい見た。


 別に壊れているわけじゃない。

 通知が来るたびに見ていたらそうなっただけだ。


 一回目は大友から。


『で、昼の部どうだった? 鬼塚さんと隣、刺し合った?』


 どういう理解だよ。

 そう返したら、


『心でだよ』


 と返ってきた。余計悪いわ。


 二回目はひなたから。


『鬼塚さん、帰ってからちょっとだけ静かでした?』


 妙に鋭い。

 何で分かるんだと送ると、


『たぶんいっぱい情報入ったからです』


 という、優しいようでいてすごく的確な返事が来た。


 そして三回目。


『今日、UME The Lights見に行かない?』


 白沢依子からだった。


 短い。無駄がない。

 そのくせ、断りづらい。


 しかも今日は、昼にもう梅を見に行っている。

 つまり普通に考えれば、「今日はもういいかな」となりそうなものだ。

 それなのに、メッセージの文面を見た瞬間、俺の頭の中に、昼とは違う景色が浮かんでしまった。


 ライトアップされた梅。

 夜の静けさ。

 昼より近く感じる距離感。


「……強いな」


 思わず口に出た。


 101号室のDK。

 夕飯を食べ終えて、朱音は手前の部屋で何やら荷物の整理をしている。今日は昼の外出で少し疲れたのか、さっきから珍しく静かだった。


 俺はテーブルの上にスマホを置いたまま、しばらく天井を見る。


 行くか。

 行かないか。


 昼に朱音と行った。

 その上で夜は依子と行く。

 文字にすると、わりとよろしくない気がする。というか客観的に見るとかなりよろしくない。


 でも、昼に依子は「夜も違う」と言っていたし、俺も少し気になっていたのは事実だ。


 ……いや、気になっていたのは景色だけじゃないのかもしれない。


 そのあたりを考え始めると面倒なので、俺はとりあえずスマホを持って立ち上がった。


「朱音」

「何だ」


 すぐ返事が来る。

 やっぱり起きてるし、荷物整理もそんなに真剣ではないらしい。


「ちょっと出てくる」

「……どこへ」


 声の質が、ほんのわずかに変わった。


「梅のライトアップ」

「……」

「白沢が行かないかって」

「そうか」


 短い。

 短いが、明らかに空気が変わった。


「嫌なら行かないけど」

「なぜ我が許可権を持つ」

「持ってはないけど」

「なら好きにしろ」

「……そうか」


 その返しは、たぶん“行ってもいい”ではなく“止めない”の方だ。


 俺は部屋の前まで行って、半開きの扉の隙間から中を覗く。

 朱音は床に座って、開いた段ボールの中身を整理していた。昼に買った小物や本が脇に積まれている。


「ほんとに行っていいのか?」

「いいといった」

「言ってない」

「近い意味のことは言った」

「言葉の精度雑だな」

「お前がいちいち確認するからだ」


 朱音は段ボールの中から小さな黒いケースを取り出し、棚へ置いた。


「……昼の部の視察は済んだ」

「うん」

「夜の部との差異を、お前が確認してくるのも意味はある」

「理屈が便利すぎるな」

「そう思うならやめてもよい」

「やめろとは言わないんだな」

「言ってほしいのか」

「いや」


 その問いの返事に少し詰まってしまったのが、自分でもよくなかった。


 朱音はそこでようやくこちらを見た。

 相変わらず真っ直ぐな目だ。


「お前は」

「何」

「行きたいのか」

「……少し」

「なら行け」

「そんなにあっさり?」

「何度も言わせるな」

 朱音は少しだけ眉をひそめる。

「我はお前の行動すべてを拘束するつもりはない」

「そういう言い方されると、逆にちょっと怖いんだよな」

「失礼だ」

「でも」

 俺は小さく笑った。

「帰ったら感想くらいは聞けよ」

「……ふん」

「それ、聞く気あるやつだろ」

「解釈は任せる」


 耳が少しだけ赤い。


 分かりやすいな、と俺は思う。

 そしてそれに少しだけ安心する。

 たぶん、昼のあとで一番落ち着くのは、こういう分かりやすさの方なのだ。


「じゃ、行ってくる」

「うむ」

「遅くなりすぎる前には戻る」

「当然だ」

「心配?」

「規律の問題だ」

「はいはい」


 玄関を出ると、夜の空気は昼よりずっと冷たかった。


 ハイツ水戸黄門の外廊下は静かで、共用灯の明かりが少し頼りない。102号室の前に依子がもう立っていて、俺に気づくと小さく手を振った。


「ごめん、待った?」

「ううん。私も今出たところ」

「絶対それ嘘だろ」

「どうして?」

「なんとなく」

「じゃあ、なんとなく本当だよ」


 そう返されると、それ以上突っ込みにくい。

 依子は薄いグレーのコートに、暗めのマフラーを巻いていた。昼より少し落ち着いた色合いで、夜にはそっちの方が似合っている気がする。


「鬼塚さんは?」

「部屋」

「そっか」

 依子はそれ以上聞かなかった。

「じゃあ、行こっか」

「うん」


 夜道を二人で歩く。


 昼と同じ道のはずなのに、景色が全然違う。

 住宅街の窓明かり、車の音、冷たい空気。人通りも少ないぶん、足音の方がよく聞こえる。


「昼、どうだった?」

 依子が聞いた。


「梅?」

「うん」

「普通によかった」

「鬼塚さんは」

「“悪くない”って言ってた」

 そう答えると、依子は少し笑った。


「想像つく」

「昼間お前、だいぶ朱音に踏み込んでたよな」

「そうだった?」

「自覚ないの怖いんだよ」

「怖いってよく言うよね、恒一くん」

「最近ちょっとそう思うこと増えた」

「へえ」


 依子は前を向いたまま言う。


「じゃあ、もっと怖くなったらどうする?」

「何その質問」

「たとえば」

 依子は少しだけ俺を見た。

「隣に住んでるだけじゃ、足りなくなったら」

「……」

「冗談だよ」

「冗談に聞こえないんだって」


 夜のせいかもしれない。

 この人の声は、昼より少しだけ近く聞こえる。


 偕楽園へ着くと、昼とは本当に別の場所みたいだった。


 ライトに照らされた梅の花は、昼より白さや紅さが浮いて見える。人の数は昼より少なく、ざわめきも落ち着いていて、歩いているだけで妙に空気が澄んで感じられた。


「……あ」

 と、俺が小さく声を漏らすと、

「ね」

 と依子が言った。


「これは確かに違うな」

「でしょ」

「昼より静かだ」

「うん」

「でも、静かなのにちゃんときれい」

「うん」


 依子は俺の反応を見るのが楽しいみたいに、少しだけ笑っていた。


 俺たちは人の流れに合わせてゆっくり歩く。

 昼と違って、夜は視線が自然と近いところに落ちる。遠くの景色より、枝先の花や、足元の明かりや、隣を歩く相手の気配の方が強くなる。


「こういうの、好き?」

 俺が聞くと、

「好きだよ」

 依子はすぐに答えた。

「静かなのに、ちゃんと特別感があるから」

「分かる」

「人と来ても、うるさくならないし」

「それも分かる」

「だから、恒一くんと来るのにちょうどいいかなって思った」

「……」

「またそういう顔する」

「どんな顔だよ」

「ちょっと困ってる顔」

「そりゃ困るだろ」

「どうして?」

「言い方が自然すぎるんだよ」

「何が?」

「俺と来るのにちょうどいい、とか」

「本当にそう思ったから」


 依子はそれを、何の照れもなく言う。


 夜の光の中だと、そういう真っ直ぐさが少し危ない。

 昼なら流せるものまで、妙に引っかかる。


「昼の鬼塚さんとの空気も、あれはあれでいいなって思ったけど」

「思ったけど?」

「私はたぶん、こういう方が好きかな」

「こういう方って」

「二人で、静かに歩く方」


 その一言だけで、俺はたぶん少し黙った。


 依子もそれ以上急がない。

 ただ、歩幅をこちらに合わせて歩く。


 こういうところなんだよな、と俺は思う。

 押しすぎない。

 でも下がりすぎもしない。

 気づけば隣にいる。


 その“隣”が、アパートの物理的な意味だけじゃなくなってきているのが、分かってしまう。


「ねえ」

 依子が小さく言う。

「鬼塚さん、怒ってなかった?」

「なんで」

「私が昼に合流したこと」

「……あー」

 俺は少し考える。

「怒ってたっていうか、警戒してた」

「そっか」

「でも、お前もだいぶ慣れてるよな」

「何に?」

「朱音の扱い」

「扱ってはないよ」

「いや、あれはだいぶ」

「だって分かりやすいんだもん」

 依子は少しだけ楽しそうに言った。

「敵って思ってる相手には、ちゃんと敵意見せてくれるし」

「それ、喜ぶことなのか?」

「うん」

「なんで」

「本気で何も思ってないなら、もっと無視されると思うから」

「……」

「だから、ちゃんと見てもらえてるんだなって思う」


 またその理屈だ。


 でも、間違っていないのが厄介だ。


「お前、強いよな」

 俺が言うと、

「何が?」

「考え方」

「そうかな」

「そうだよ」

「じゃあ、褒め言葉として受け取っておくね」

「勝手にそうしろ」


 依子は少し笑って、それからライトアップされた枝を見上げた。


「でも」

「うん」

「ほんとは、ちょっとだけ緊張してる」

「え?」

「夜に恒一くんと二人で出るの、初めてだから」

「……そういうの後出しにするなよ」

「今言った方が効くかなって」

「自覚あるのかよ!」

「少しだけ」


 だめだ。

 やっぱりこの人、会話の温度管理がうますぎる。


 熱くなりすぎる前に下げて、下がりすぎる前に少し上げる。

 だからずっと、落ち着かないまま一緒にいられる。


 歩いているうちに、人の流れが少し切れる場所があった。

 周りの音が少なくなって、ライトの色だけが静かに残る。


 そこで依子が足を止めた。


「恒一くん」

「何」

「今日、来てくれてありがとう」

「……いや、俺も気になってたし」

「うん」

「昼と夜、だいぶ違った」

「でしょ」

「お前が言ってた意味、分かった」

「よかった」


 依子はそう言ってから、少しだけ表情を変えた。


「ねえ」

「何」

「隣に住んでるの、私でよかった?」

「……」

 不意打ちだった。


 いや、昼にも似たようなことを言われた。

 そのときはうまく返せなかった。

 でも今は、少しだけちゃんと答えないといけない気がした。


「……よかったよ」

 俺は正直に言った。

「助かってるし」

「助かってる、か」

「そういう顔するなよ」

「うれしいよ」

「ならいいけど」

「でも、もう少し別の言い方も期待してた」

「注文多いな!」

「冗談」

「そう言えば許されると思うなよ」

「半分だけ本気」

「やめろ」


 依子はくすっと笑った。


 その笑い方が、昼よりずっと近く感じる。

 夜のせいだ。たぶん。


 帰り道は、行きより少し短く感じた。


 話していたせいなのか、夜の景色に意識を取られていたからなのか、それとも別の理由なのかは分からない。


「今日のこと、鬼塚さんに聞かれたらなんて言う?」

 依子が歩きながら聞いた。


「そのままじゃない?」

「そのままって?」

「夜の梅見てきたって」

「それだけ?」

「それ以外何があるんだよ」

「たとえば、静かでよかったとか」

「言う必要ある?」

「ないかも」

「だろ」

「でも」

 依子は少しだけ目を細めた。

「私は、よかったって思ってるよ」


 そう言ってしまえるのが、ほんとにずるい。


 ハイツ水戸黄門が見えてくる。

 古びた外観と、頼りない共用灯。夜に見ると、昼より少しだけ味がある気もするが、やっぱり名前のダサさは消えない。


「着いたな」

「うん」

「寒かった?」

「少し」

「じゃあ、帰って温かいもの飲めよ」

「恒一くん」

「何」

「そういうの、自然に言うんだね」

「……なんだよ」

「うれしいなって思っただけ」


 ほんとに、最後までこうなのか。


 俺が返事に困っていると、102号室の前で依子は立ち止まった。


「今日はありがとう」

「うん」

「また、行こうね」

「また、って」

「昼でも夜でも」

「……考えとく」

「うん。それでいいよ」


 依子はそう言って、扉の鍵を開けた。


 そのときだった。


 101号室の玄関が、がちゃ、と音を立てて少しだけ開いた。


「……遅い」


 出てきたのは朱音だった。


 黒い部屋着の上にカーディガンを羽織り、いかにも“つい今出てきただけ”みたいな顔をしている。だが、その顔で待っていたのはだいぶ無理がある。


「お前、起きてたのか」

「寝ていないだけだ」

「それ起きてるって言うんだよ」

「細部はどうでもいい」


 そして朱音は、俺ではなく一度だけ依子を見た。


「観測は済んだか」

「うん」

 依子は穏やかに答える。

「すごくきれいだった」

「そうか」

「鬼塚さんも見た方がいいよ」

「……そのうちな」

「じゃあね」

 依子はそれだけ言って、102号室へ入っていった。


 扉が閉まる。


 夜の廊下に、また静けさが戻った。


 俺は朱音を見る。

 朱音は俺を見る。

 それから、ふいっと視線を逸らした。


「……どうだった」

 と、朱音が言う。


「何が」

「夜の部だ」

「聞く気満々じゃん」

「感想の収集は必要だ」

「はいはい」


 俺は小さく笑って、101号室の方へ歩いた。


「綺麗だったよ」

「そうか」

「昼より静かで、光の感じが違って」

「うむ」

「あと、思ったより寒かった」

「そこは予想できた」

「それはそう」


 玄関の中へ入る。

 夜の101号室は、昼のにぎやかさが嘘みたいに落ち着いていた。テーブルの上には俺が出る前に片づけきれなかったマグカップが一つ残っていて、手前の部屋からは朱音の荷物の気配が少しだけする。


「で」

 朱音が靴を脱ぎながら言う。

「それだけか」

「それだけって?」

「もっとこう、夜特有の差異とか、細部の印象とか」

「めっちゃ気になってるじゃん」

「情報収集だ」

「ほんと便利ワードだな」


 俺はコートを脱ぎながら、少しだけ考える。


「……距離が近く感じた」

「は?」

「景色がって意味な」

「最初に補足しろ」

「お前がすぐ変な顔するからだろ」

「していない」

「してたって」

「していない」


 でも耳が赤い。


「昼より、周りの音が少ないんだよ」

 俺は続けた。

「だから話してる声とか、隣に人がいる感じとか、そういうのが近い」

「……」

「たぶん、お前が昼に言ってた“比較対象”としては合ってる」

「そうか」

「だから」

「だから?」

「たぶん、お前も見た方がいいんじゃないか」

「……」


 朱音はそこで黙った。


 それから、少しだけ目を伏せて、ほんの小さな声で言う。


「なら、次は」

「次は?」

「我も同行する」


 その言い方が、妙に素直だった。


 俺は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、

「はいはい」

 とだけ返した。


 夜の梅は、昼よりずっと心の距離を誤魔化す。


 でも、誤魔化していたはずのものが、帰ってきたあとには少しだけ輪郭を持って残る。

 そのせいで、たぶんこれからもっと面倒になる。


 ……まあ、今さらだけど。

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