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第7話 隣人は偶然を装って、ちゃんと近くに現れる

「……敵は多いな」


 朱音が小さくそう言ったあと、俺はとりあえず聞こえなかったことにしようかと思った。

 だが無理だった。

 こいつは“聞かせるための小声”を使うとき、妙にうまい。


「聞こえてるって」

「聞かせている」

「だからそれがだめなんだよ」

「だめではない」

「だめだよ」


 俺がそう返している間も、依子はすぐそばの梅を見上げていた。


 咲き方の違う花を見比べるように視線を動かし、ときどき少しだけ細める。その仕草はいかにも“きれいなものを静かに楽しんでいる人”という感じで、そこだけ切り取れば絵になる。

 問題は、それが俺たちのいるタイミングに妙にぴったり重なっていることだ。


「白沢」

 俺はベンチから立ち上がって、少しだけ距離を詰めた。

「ほんとに偶然?」

「うん?」

 依子が振り返る。

「偶然だよ」

「……その返し、逆に怪しいな」

「怪しい?」

「だって、タイミングがよすぎる」

「それは、たまたまじゃない?」

「たまたまをそんな綺麗な顔で言われると、何か騙されそうなんだよなあ」

「ひどい言い方」


 依子は少しだけ笑った。

 その“少しだけ”の加減が絶妙なのだ。大げさじゃない、でも冷たくもない。だから余計に距離を測りづらい。


「それにしても」

 依子は俺の手元を見た。

「甘酒、ちゃんと飲んだんだ」

「そこ?」

「鬼塚さんが飲んでるところ、ちょっと想像できなかったから」

「どういう意味だ」

 朱音がすぐに反応する。

「甘き発酵飲料を摂取してはならぬ理由が我にあると?」

「そういうわけじゃないよ」

 依子は穏やかに首を横に振る。

「でも、もっと苦いものが好きそうだなって」

「……」

「ほら」

 俺が言う。

「何か分かる気する」

「お前まで何を言う」

「黒いコーヒーとか好きそうだし」

「飲める」

「ほらな」

「飲めることと嗜好は別だ」

「急にまともなこと言うな」


 依子はそこで小さく吹き出した。


 この人は笑うときも、周りをよく見ている。

 朱音を刺激しすぎない程度に、俺との会話には自然に入ってくる。

 たぶん無意識ではない。そこが少しだけ怖い。


「二人って」

 依子が言った。

「昔からそんな感じだったの?」

「そんな感じって?」

「会話のテンポ」

「……ああ」

 俺は少し考えてから答える。

「まあ、昔からこんな感じではある」

「へえ」

「お前、それを他人に説明されるの、少し居心地悪いな」

「事実だろう」

 朱音は平然と言う。

「幼少期より、お前は無駄に口が回る」

「お前は昔から急に古語みたいな言い方するときあるよな」

「昔は今ほどではなかったぞ」

「いや、小学校高学年あたりから兆候あった」

「記録を改ざんするな」

「してないって」


 依子はそのやり取りを静かに聞いていた。

 そして、少しだけ視線を下ろして言う。


「いいね」

「何が?」

「そういうの」

「どういうの?」

「昔から知ってる相手の、ちょっとだけ崩れた会話」

「……」


 言われてみると、たしかにそうなのかもしれない。


 依子と話すとき、俺は今も少し言葉を選ぶ。

 大友には遠慮なく雑に返す。

 ひなたには先輩としての距離を少しだけ残す。

 朱音には、昔からの癖でたぶん一番遠慮がない。


 そういう差を、この人はすぐ見つける。


「白沢は、そういう相手いないの?」

 何となくそう聞いてしまった。


 依子は一瞬だけ目を瞬いた。

 それから、困ったようでもなく、少し考えるような顔になる。


「いた、のかもしれないけど」

「けど?」

「今は、そんなにいないかな」


 言い方が静かすぎて、そこで深掘りしていいのか分からない。

 朱音も同じことを思ったのか、珍しくすぐには口を挟まなかった。


 代わりに風が少し吹いた。

 枝先の花が揺れて、微かな香りが流れる。


「……寒いな」

 俺が言うと、

「まだ二月だし」

 依子が答える。

「でも、こういう寒さの中で花があると、春が先に来てる感じするよね」

「昨日も似たようなこと言ってたな」

「え?」

「いや、朱音が。“冬の終わり寄り”とか何とか」

「言っていない」

「言っただろ」

「……お前の記憶力だけ妙に都合がよい」

「お前が珍しくまともに綺麗なこと言うから印象に残ったんだよ」

「まともに、とは何だ」


 依子が、そこで少しだけ目を細める。


「鬼塚さん、そういう言い方するんだ」

「問題があるか」

「ううん。ちょっと好きかも」

「……」

「景色の見方が綺麗」


 その一言に、今度は朱音が明らかに戸惑った。


 敵意を向ける相手から、正面から褒められる。

 それはたぶん、やりにくい。


「……お世辞か」

「別に」

 依子は首を振る。

「本当にそう思っただけ」

「……」


 朱音はそのまま黙り込んだ。

 耳が少しだけ赤い。警戒しているのか照れているのか分かりにくいのがまた面倒だ。


「白沢、お前そういうの自然に言うよな」

 俺が言うと、

「言わない方がよかった?」

「いや、そうじゃなくて」

「じゃあ、いいでしょ」

「……そうだけど」


 依子はまた梅の方へ視線を戻した。


 少しだけ沈黙が落ちる。

 その沈黙は気まずくはない。ただ、誰も完全には気を抜いていない感じがした。


「そうだ」

 依子が思い出したように言う。

「この先、もう少し歩くときれいなところあるよ」

「お前、詳しいな」

「前に来たことあるから」

「本当に何でも知ってるな」

「何でもじゃないよ」

 依子はこっちを見て、わずかに笑った。

「恒一くんのことほどじゃない」


 その言葉に、今度は俺が止まった。


「……え?」

「え?」

「今さらっと言ったけど」

「言ったね」

「自覚あるんだ」

「ないように見える?」

「見えなくはない」

「ひどいな」


 依子は困ったように笑う。

 だが否定はしない。


 ――ああ、やっぱりそうなんだ。


 この人は、俺の生活を少し見すぎている自覚がある。

 その上で、こうして隣に立つ。

 穏やかな顔のままで。


 そのことを改めて認識すると、妙に胸のあたりが落ち着かなくなった。


「恒一」

 低い声が横から来る。

「何」

「行くぞ」

「どこへ」

「“もう少し歩くときれいなところ”だ」

「え」

「案内があるのだろう」

「えっと……」

 俺が依子を見ると、

「うん、いいよ」

 と依子は当然みたいに答えた。


 そして三人で歩くことになった。


 最悪ではない。

 だが、かなりややこしい。

 朱音は俺の少し右。依子は左。人の多い道ではないのに、妙に立ち位置が定まらない。


 歩きながら、依子が俺に聞く。


「鬼塚さん、もうだいぶ慣れた?」

「質問が漠然としてるな」

 と、朱音が先に返した。

「街か、部屋か、人か」

「全部かな」

「欲張りだな」

「じゃあ、一つずつでもいいよ」


 依子の返しが丁寧すぎて、俺は逆に少し感心した。

 こういうふうに相手のペースに合わせて下がれるのが、この人の強さなのかもしれない。


「部屋は、昨日よりはましだ」

 朱音が答える。

「街は、まだ情報不足」

「人は?」

 依子が聞く。


 朱音は少しだけ黙った。


「……分類中だ」

「分類?」

「警戒対象、保留対象、無害対象」

「やめろそのシステム」

 俺が即座に止める。

「俺は何なんだよ」

「既知個体」

「カテゴリですらない!」


 依子がくすりと笑う。


「私は?」

「警戒対象A」

「Aなんだ」

「最優先、という意味だ」

「へえ」

 依子は、なぜか少しだけ嬉しそうに笑った。

「ちゃんと見てもらえてるんだね」

「は?」

 今度は朱音が固まる番だった。

「どういう解釈だ」

「だって、興味もない相手なら分類しないでしょ」

「……」

「だから、鬼塚さんの中では、私はちゃんと気にする相手なんだなって」

「……」

「やっぱり強いな……」

 思わず俺が呟くと、

「先輩、今ちょっとぞわっとしてます?」

 いつの間にか後ろにいたひなたみたいなことを、脳内のひなたが言った気がした。実際にはいない。いないが、そのくらいの衝撃だった。


 朱音は完全に言葉を失っていた。


 敵意を向けても、正面から受け流され、しかも少し前向きに変換される。

 この人、ほんとに会話がうまい。


「……怖いな」

 と、俺が小さく言うと、

 依子は聞こえたらしく、少しだけ笑った。


「何が?」

「いや、何でも」

「変なの」

「お前なあ」

 朱音がようやく復帰する。

「そういうふうに受け取るのは反則だぞ」

「反則?」

「相手の構えを崩すな」

「それは鬼塚さんが勝手に構えてるだけじゃない?」

「……っ」


 朱音が珍しく、ちゃんと言い返せずにいる。


 その表情を見ていると、ちょっとだけ可哀想で、でも少し面白くもあって、俺は複雑な気分になった。


「まあまあ」

 と、俺は間に入る。

「せっかく梅見に来てるんだから、そんなにバチバチすんなよ」

「してないよ」

 依子はすぐ言う。

「してる」

 朱音が言う。

「鬼塚さんが」

「お前だろ!」

「はいはい」

 俺は両手を軽く上げた。

「どっちでもいいけど、せめて花の前ではもう少し穏やかにしてくれ」

「穏やかだ」

「穏やかに見える?」

 俺が依子に聞くと、

「私には見えるよ」

 と返ってきた。

「鬼塚さん、わりと分かりやすいし」

「……」

「たぶん、慣れたら可愛いと思う」

「……可愛い、とは何だ」

「そのままの意味」

「……」


 また赤くなっている。


 こいつ、褒められ慣れてないのかもしれない。いや、昔からそうだった気もする。変に意地っ張りだから、素直に受け取る前に構えてしまうのだ。


 その先には、たしかに少し景色のいい場所があった。


 人の流れが少し分かれていて、梅の枝越しに見える空が広い。近くの喧騒から半歩だけ離れたような静けさがある。依子の言う通り、ここはきれいだった。


「……ああ」

 と、俺が小さく声を漏らすと、

「ね?」

 と依子が言った。


 朱音も何も言わない。

 ただ、しばらくその景色を見ていた。


「どう?」

 依子が聞く。

「鬼塚さん」

「……」

「気に入らなかった?」

「いや」

 朱音は少しだけ顎を上げる。

「悪くない」

「またそれ」

 俺が笑うと、

「語彙を安売りしない主義だと言っただろう」

 と返ってくる。


 依子はその言葉にまた微笑んだ。


「じゃあ、また今度もっと咲いた頃にも来る?」

「え」

 今度は俺が反応した。


 依子は自然な顔で続ける。


「まだ満開って感じじゃないし。時期が少し変わると、見え方も違うでしょ」

「それは……そうかもしれないけど」

「夜もあるし」

「……」

「比較対象としては、昼と夜、両方必要なんだよね?」

 依子が朱音へ向かって言うと、

 朱音はわずかに目を見開いた。


 前に自分が言ったことを、きっちり覚えられている。


「……貴様」

「何?」

「よく聞いているな」

「うん」

 依子はさらりと頷く。

「鬼塚さんの話、面白いから」


 もうだめだ。

 この人、完全に自分のペースを持っている。


 俺は妙に疲れた気分になって空を見上げた。

 春はまだ遠い。梅はきれいだ。風は少し冷たい。

 なのに俺の周りだけ、人間関係の温度差がすごい。


「恒一」

 と、朱音が呼ぶ。

「何」

「お前はどう思う」

「何が」

「また来ることについてだ」

「……別にいいんじゃないか」

「そうか」

「でも、今度はみんなで来る感じになるだろうな」

「みんな?」

 依子が少しだけ首を傾げた。

「大友とか、ひなたとか」

「それはそれで賑やかそうだね」

「お前と朱音だけで来る方が、もっと静かだったけどな」

 俺が何となく言うと、

 依子は一瞬だけ黙った。


「……そうだね」

 と、静かに言う。

「それも、ちょっと見てみたかったかも」


 その一言だけは、少し違った。


 いつもの穏やかな調子のままなのに、ほんの少しだけ本音が混じっているように聞こえた。


 朱音も、それを聞き逃さなかったらしい。

 俺を挟んだ空気が、また少しだけきりっと張る。


 まずい。

 このままだと本格的に気まずくなる。


「……とりあえず」

 俺は無理やり話題を変えた。

「そろそろ戻るか?」

「そうだね」

 依子がすぐにうなずいた。

「帰りに何か食べる?」

「恒一」

 朱音が低い声を出す。

「何でだよ」

「我はまだ甘酒しか摂取していない」

「だから?」

「空腹だ」

「最初からそう言え」

「そう言っている」

「今言ったんだよ」


 依子がまた笑う。


「鬼塚さん、思ったより普通だよね」

「何だその評価」

「もっと怖い人かと思ってた」

「誰情報だ」

「見た目」

「貴様」

「でも、今はちょっと安心した」

 依子はそう言って、ほんの少しだけ目を細めた。

「恒一くんの近くにいる人が、ちゃんといい人で」


 その言葉は、うれしいのか、重いのか、少しだけ判断に困った。


 けれど朱音は、その一言で完全に理解した顔になった。


「……やはり敵だな」

「聞こえてるよ」

 依子が穏やかに言う。

「うむ。聞かせている」

「もうそれやめない?」


 結局、俺たちは三人で園を出ることになった。


 最初は俺と朱音の二人だったはずなのに、帰り道には依子が当然みたいに隣にいる。

 それがすごく自然で、だからこそ少しだけ怖い。


 でも、その自然さに俺自身が少し慣れ始めている気もして、そこが一番落ち着かなかった。


 隣人は偶然を装って、ちゃんと近くに現れる。

 しかも、その距離の詰め方がうまい。


 春はまだ遠いのに、面倒なことだけは着実に近づいてきているらしい。

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