第6話 従妹と歩く梅の下では、昔の距離感が少しだけ戻ってくる
結局、梅まつりへは俺と朱音が先に行くことになった。
なった、というより、なぜかそういう流れになっていた。
日曜の朝。
ハイツ水戸黄門の一階は、平日よりずっと静かだ。二階の大学生組はたぶんまだ寝ているし、大友もさすがに朝から騒いでいない。ひなたはたぶん早起きして何かしているだろうけど、少なくとも廊下には出てきていない。
そんな中で、101号室だけが朝から妙にそわそわしていた。
「恒一、遅い」
「まだ約束の時間より十分前だろ」
「こういうものは現地到着を基準に考えるべきだ」
「お前、イベントに行くテンション高いな」
「視察だ」
「便利だな、その言葉」
俺は靴ひもを結びながらそう返した。
今日は二月の終わりにしては少しだけ空が明るい。寒さはあるが、風は昨日ほど強くない。こういう日の方が外に出る気になる。部屋の中にいても、なんとなく落ち着かない種類の天気だ。
朱音は黒いショートコートに、昨日と違って少しだけ細身のパンツを合わせていた。相変わらず色は黒寄りだが、全体のバランスはおかしくない。というか、普通に似合っている。
ただし肩から下げている小さめのバッグだけ、妙に金具が多くてちょっとだけ中二病っぽかった。
「何だ」
視線に気づいた朱音が言う。
「別に」
「見ていた」
「お前、そればっかだな」
「お前の視線が分かりやすいのだ」
「はいはい」
「で、何だ」
「いや、普通に出かける気ある格好だなって」
「当然だろう」
朱音はふんと鼻を鳴らす。
「外界へ赴く以上、最低限の装備は整える」
「その言い方やめろって」
「だが事実だ」
「まあ……似合ってるとは思うけど」
口にしてから、少しだけ早かったかと思った。
朱音は一瞬だけ止まり、それから何でもないふうを装って玄関の鍵に手を伸ばす。
「……そうか」
「何その反応」
「別に」
「耳赤いぞ」
「寒いのだ」
「今日そこまで寒くないだろ」
「我の体感は気温とは無関係だ」
「何その無敵理論」
けれど、少しだけ機嫌がよくなったのは分かった。
ハイツ水戸黄門を出る。
住宅街の朝はまだ静かで、空気だけが少し冷たい。道路脇の草は色が薄く、木々もまだ本格的な春の顔はしていない。けれど、日差しの当たる部分だけは、どこかやわらかく見えた。
駅方面へ向かう道を歩きながら、俺たちは特に大きな会話もなく進む。
気まずいわけではない。
むしろ逆で、沈黙がわりと普通に成立する。
これが依子だったら、静かな会話が続く。
大友ならずっと喋っている。
ひなたなら、こっちの空気を見ながら要所で言葉を挟む。
でも朱音は、こういうとき、本当に必要なことしか言わない。
その代わり、横にいること自体はあまり不自然じゃない。
「そういえば」
と、俺は歩きながら言った。
「こっち来てから、ちゃんと街歩くの初めてか」
「正式にはそうなる」
「どう? 水戸」
「定義が広い」
「感想言いづらいなあ」
「駅前は人が多い」
「うん」
「少し外れると急に静かになる」
「うん」
「道路が妙に広い場所と狭い場所の差が大きい」
「具体的だな」
「観測とはそういうものだ」
「それ観測っていうか生活感想じゃない?」
「似たようなものだ」
朱音はそんなことを言いながら、歩道の先を見る。
「今のところ、嫌いではない」
その一言が、妙に真っ直ぐだった。
「そっか」
「ただし」
「ただし?」
「まだ、よく分からぬ」
「まあ、そりゃそうだよな」
知らない高校。
知らない街。
知らない生活。
俺が一年前にここへ来たときだって、最初の数週間は妙に疲れた。誰も知り合いがいないわけじゃなくても、“生活する”ということ自体が、新しい場所では少し重い。
朱音はそこを、中二病でごまかしているのだろう。
偕楽園に近づくにつれて、人が少しずつ増えてきた。
家族連れ、年配の夫婦、カメラを下げた人、友達同士らしい学生。いかにも地元っぽい人もいれば、少し遠くから来た感じの人もいる。水戸の梅まつりは観光地の大規模イベント、というほど肩肘張ったものじゃないが、それでもこの時期にはそれなりに人を集める。
「……多いな」
朱音がぼそっと言った。
「これでもたぶん、まだピークじゃないぞ」
「十分多い」
「人混み苦手?」
「苦手ではない」
「そうか」
「ただ、数が多い」
「意味一緒だろ」
「違う」
でも歩く速度が少しだけ落ちた。
俺はそれに気づいて、何となく人の流れの少ない方へ位置をずらす。朱音は何も言わなかったが、そのあと少しだけ歩くのが楽そうになった。
園内へ入ると、空気が変わる。
まだ咲ききっていない木もある。
でも、早咲きから中咲きの梅がところどころに白や薄紅の色を作っていて、冬の色の残る景色の中にだけ、先に春が来ているようだった。
「……へえ」
と、朱音が言った。
たったそれだけ。
でも、本当に少し驚いた声だった。
「どう」
「悪くない」
「毎回それだな」
「よいものを見たときの評価語彙をあまり増やしたくない」
「何そのポリシー」
「軽く言いたくないだけだ」
「ああ……なるほど」
それなら少し分かる。
何でもかんでも大袈裟に褒めると、本当にいいと思ったものまで軽くなる気がする。朱音のその感覚は、わりと昔から変わっていない。
俺たちはゆっくり園内を歩く。
梅の枝越しに差し込む光。
人のざわめき。
少し甘い香り。
屋台ほどではないが、温かい飲み物や軽食を売っている場所の匂いも混じる。
「なんか、春って感じするな」
俺が言うと、
「まだ寒い」
と朱音。
「するだろ、でも」
「……まあ」
少し間を置いて、朱音は認めた。
「空気が、冬の終わり寄りではある」
その言い方がおかしくて、俺は笑う。
「何だ」
「いや、お前ってほんと、微妙に詩的なこと言うよな」
「そうか?」
「そうだよ」
「お前の語彙が貧しいだけではないか」
「喧嘩売るなよ」
それでも、今の言い方は綺麗だったと思う。
冬が終わる、ではなく、冬の終わり寄り。
その曖昧さが、今の景色にちょうどよかった。
少し歩いたところで、朱音の視線が小さな売店の方へ向いた。
「何」
「別に」
「いや、今見ただろ」
「……甘酒」
「飲みたいのか」
「飲みたいとは言っていない」
「分かった分かった」
「勝手に解釈するな」
「でも飲む?」
「……せっかくだから、観測対象として」
便利ワード再びである。
俺は売店へ向かい、甘酒と、ついでに自分用の温かいお茶を買った。戻ると、朱音は少しだけ目をそらしながら甘酒を受け取る。
「礼は言わぬ」
「別に期待してない」
「そうか」
「その代わり、熱いから気をつけろよ」
「うむ」
紙コップを両手で持つ朱音は、いつもより少しだけ年相応に見えた。
最初のひと口を飲んで、目を少しだけ丸くする。
「……甘い」
「甘酒だからな」
「米なのに」
「そういう飲み物だよ」
「不思議だ」
「お前、知らなかったのか」
「存在は知っていた」
「飲んだことは?」
「ない」
その返事が妙に素直で、俺は少しだけ驚く。
「そうなんだ」
「地元の祭りではあまり見なかった」
「まあ、地域差あるか」
「あと」
「あと?」
「母上が、“お前は熱いものをすぐこぼす”と言って避けていた」
「言われてみれば、ありそう」
「今、肯定したな」
「少しだけ」
「覚えておけ」
甘酒の湯気越しに睨まれても、あまり迫力はない。
むしろ可笑しい。
そのあと、少し高い場所の方まで歩いた。
梅の木々の向こうに広がる景色は、観光案内の写真みたいに完璧ではないが、ちゃんと外へ出てきた感覚をくれる。朱音はしばらく無言でそれを見ていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……知らない場所だ」
「そりゃそうだろ」
「分かっている」
「でも実感した感じ?」
「うむ」
風が少し吹く。
朱音の髪が揺れて、コートの裾が小さくはためく。
「地図で知っているのと、実際に立つのは違う」
「そうだな」
「進学とは、こういうことかと少し思った」
「急に真面目なこと言うな」
「我は元来真面目だ」
「中二病が全部邪魔してるけどな」
「そこを分離して考えぬのが、お前の浅さだ」
「ひどい」
でも、今の言葉はたぶん本音だ。
進学。
引っ越し。
生活の変化。
こいつにとっては全部、まだ“現実になりきっていない現実”なのだろう。
だからこうして梅を見に来て、街を歩いて、知らない人の多さを感じて、やっと少しずつ実感が追いつく。
「大丈夫だろ」
と、俺は言った。
朱音がこっちを見る。
「何がだ」
「いろいろ」
「雑だな」
「雑だけど」
俺は肩をすくめた。
「学校も、そのうち慣れるだろうし。街も、住んでりゃ分かってくるし。分かんなくても、その都度覚えればいいし」
「……」
「まあ、最初は疲れると思うけど」
朱音は何も言わず、少しだけ視線を落とした。
「お前」
小さく呼ばれる。
「何」
「そこは、“我ならすぐ順応できる”とでも言うべきではないのか」
「言ってほしかった?」
「そういうわけではない」
「じゃあ、いいだろ」
「……そうか」
少しだけ間を置いて、朱音がコートの袖を軽く引っ張った。
ほんの一瞬だった。
意識していなければ気づかないくらいの弱さで。
けれど俺は、昔もこういうことがあったのを知っている。
人混みの中で。
祭りの帰り道で。
山道で足場の悪いところを通るときに。
朱音は「助けて」とは言わない。
でも、たまにこうして、確認みたいに触れてくる。
「……何だ」
今度は俺が聞く。
「別に」
「袖」
「風が強い」
「風のせいで俺の袖掴むのか」
「そういう現象もある」
「無理ありすぎるだろ」
「うるさい」
それでも手を離さないのだから、分かりやすい。
俺は何も言わず、少しだけ歩く速度を落とした。
しばらくして、人の少ないベンチが空いていたので、そこで少し休むことにした。
甘酒はほとんど飲み終わっていて、俺の紙コップのお茶もぬるくなりかけている。周囲では家族連れが写真を撮っていて、離れたところから子どもの声が聞こえた。
「……静かだな」
朱音が言う。
「さっきまで人多いって言ってたのに」
「ここは静かだ」
「まあ、場所によるな」
「そうか」
朱音はベンチに座ったまま、両膝の上で空の紙コップを回している。
「恒一」
「何」
「お前は、こちらへ来たときどうだった」
「どうって?」
「不安は、なかったのか」
俺は少しだけ考えた。
「なかった、は嘘だな」
「やはり」
「でも、想像してたよりは何とかなった」
「お前は鈍いからな」
「そういうまとめ方する?」
「違うのか」
「違わなくはないけど」
俺は笑ってから、少しだけ真面目に言う。
「最初の頃は、帰っても誰もいないのが妙に変な感じしたよ」
「……」
「家で一人って分かってて住み始めたのに、しばらくは“ああ、そうか”って毎日思った」
「そういうものか」
「そういうもんだと思う」
「ふむ」
朱音は小さく頷く。
「ならば」
「うん」
「今は、誰かいるのは変ではないのか」
「……どうだろ」
それは、昨日からずっと俺の中にある問いだった。
一人暮らしの静けさに慣れていた部屋。
そこに朱音が入ってきた。
さらに隣には依子がいる。
朝は大友とひなたがいて、二階には真琴さんたちもいる。
変ではある。
でも、変だから即嫌だ、とはならない。
「変ではある」
俺は正直に言った。
「でも、今のところは」
「今のところは?」
「そんなに悪くない」
「……そうか」
朱音が、ごく小さく笑った気がした。
そのときだった。
「――あれ?」
聞き覚えのある声がした。
俺と朱音が同時にそちらを見る。
梅の木の並ぶ小道の向こうから、白沢依子がこちらを見て立っていた。
薄い色のコートに、落ち着いたマフラー。手には小さなバッグ。いかにも“たまたま来ていた”顔をしているが、このタイミングでこの人が現れると、それだけで少し何かを疑いたくなる。
「……白沢」
と俺が言うと、
依子はやわらかく笑った。
「やっぱり。恒一くん」
「何でいるんだよ」
「梅、見に来たの」
「それは分かるけど」
「だめだった?」
「いや、だめではないけど」
隣で、朱音の空気が明らかに変わる。
さっきまで少しだけ緩んでいた表情が、一瞬で引き締まった。
分かりやすいにも程がある。
「鬼塚さんも一緒なんだね」
依子は穏やかに言う。
「うむ」
「楽しんでる?」
「視察中だ」
「そうなんだ」
依子は少しだけ笑った。
「じゃあ、順調だね」
この返し方がうまいんだよな、と俺は思う。
朱音の変な言い回しを否定もしないし、茶化しもしない。自然に受け止める。だから会話が途切れない。
ただ、その自然さが、時々少しだけ不気味だ。
「白沢も一人?」
俺が聞くと、
「うん」
「友達とかとじゃなく?」
「今日は一人で見たくて」
「……へえ」
その言い方がまた少し静かすぎて、何とも返しづらい。
依子はそのままベンチの近くまで歩いてきて、咲いている梅を見上げた。
「きれいだね」
「だな」
「うん」
依子は俺の返事に小さくうなずく。
「昼の梅もいいね。夜とはまた違う」
夜。
その単語に、俺と朱音の間で空気が少しだけ変わる。
依子は気づいているのか、いないのか、分からない顔のままだった。
「夜?」
朱音が言う。
「何の話だ」
「ああ」
と俺は答える。
「昨日、ちょっと話題に出てただけ。ライトアップもあるらしいって」
「そう」
依子は相変わらず穏やかだ。
「静かできれいだよ、たぶん」
“たぶん”と言ったのは、まだ行っていないからか、それともこれから行くつもりだからか。
そのどちらにしても、空気は少しだけややこしい方向へ動いていく。
朱音が、紙コップを握ったまま小さく言った。
「……敵は多いな」
「聞こえてるからな、それ」
俺が小声で返すと、
「聞かせている」
と返された。
依子は聞こえなかったふりをしているのか、本当に聞こえていないのか、梅の枝先を見ながら微笑んでいた。
春はまだ遠い。
でも、たぶんこういうところから、距離は少しずつ動き始めるのだ。




