第5話 春はまだ遠いのに、梅まつりの話だけ先に始まる
結局、白沢依子は「少しだけ」と言いながら、きっちり十五分ほど101号室に滞在した。
その十五分で何が起きたかといえば、まず大友が初対面の距離感で依子に話しかけて、ひなたがその間をするすると埋め、叔母さんが「いつもお世話になってます」と保護者みたいなことを言い、真琴さんが「隣同士ならそのへん助かるわよね」と余計な後押しをし、朱音が終始むすっとしていた。
俺はというと、配られた紙コップを片手にその全体を眺めながら、朝から情報量が多すぎるんだよな、と改めて思っていた。
「白沢さんって、学校でもこんな感じなんですか?」
ひなたが無邪気に聞いたのは、全員が飲み物を持って少し落ち着いた頃だった。
依子は紙コップを両手で包むように持ちながら、少しだけ首を傾げる。
「こんな感じ、って?」
「ちゃんとしてて、優しくて、でも何かちょっとだけ強い感じです」
「最後だけよく分からないな」
俺が思わず言うと、ひなたはにこっと笑った。
「先輩は分からなくていいんです」
「理不尽だな」
「だって先輩、だいぶ当事者ですし」
「それで理解度下がることある?」
大友がそこで吹き出した。
「あるだろ。むしろ当事者が一番鈍いまである」
「何だその達観した言い方」
「オタクは観測者としての訓練を積んでるからな」
「何の訓練だよ」
「ラブコメを百本読めば分かる」
「役に立たない知見だなあ」
「今こうして役立ってるが?」
その言葉に、一瞬だけ視線が依子と朱音へ向きそうになって、俺は慌てて麦茶を飲んだ。
依子は困ったように小さく笑っている。
朱音は、表情こそ不機嫌なままだが、さっきから会話を一つも聞き逃していない顔をしていた。
そして、その少しあと。
「じゃ、本当にそろそろ戻るね」
依子が立ち上がった。
「ありがとう、差し入れ」
俺が言うと、
「ううん。引っ越しの日って、最初だけ妙ににぎやかだから」
と依子は言った。
「最初だけ?」
叔母さんが聞く。
「うん。最初は人が集まるけど、しばらくすると、その部屋の生活リズムができるでしょ」
「へえ」
「そうなってからが、本当に住み始める感じ」
その言い方が、妙にしっくり来た。
引っ越しとは、荷物を運び終えたら終わりではない。
そこでどう暮らすかが定まって、初めて“住む”になる。
朱音は今、まだその途中なのだろう。
「じゃあ、また」
依子はそう言って、玄関の方へ向かった。
その背中に、叔母さんが柔らかく頭を下げる。
「ありがとうねえ、ほんと」
「いえ」
「恒一くん、いいお隣さんがいてよかったね」
「それは……まあ」
「そうだね」
依子は振り向いて、さらりと言った。
「私も、隣が恒一くんでよかった」
紙コップを持っていた大友の手がぴたりと止まった。
ひなたの目がぱちぱちと瞬く。
叔母さんは「あらまあ」とでも言いたげな顔になる。
そして朱音は、あからさまに眉をひそめた。
俺はといえば、その言葉にどう返すのが正解なのか一瞬分からなくなって、結局、
「……どうも」
という、びっくりするほど間抜けな返事しかできなかった。
依子はそれで十分だとでも言うように、やわらかく微笑んで102号室へ戻っていった。
扉が閉まる。
数秒、静かになった。
その沈黙を最初に破ったのは、やっぱり大友だった。
「お前さあ」
「何」
「隣、強くない?」
「今日それ何回目だよ」
「だって強いだろ。今の“隣が恒一くんでよかった”、だいぶだぞ」
「そういう言い方するな」
「事実じゃん」
「大友くん、楽しんでるよね?」
叔母さんが少し笑いながら言うと、
「はい」
と大友は即答した。
「でもちゃんと手伝ってるんで」
「それは確かに助かってるけど」
「だろ?」
朱音はそこで、ひどく冷静な顔で言った。
「警戒対象Aだ」
「依子ちゃんが?」
ひなたが聞く。
「A?」
「最優先監視対象の意だ」
「物騒だな」
俺が言うと、
「お前は危機感が足りぬ」
と返された。
叔母さんは苦笑いし、真琴さんは「若いわねえ」と他人事みたいに呟いている。
いや、元を辿ればだいたいこの人の雑な手配のせいではあるのだが。
その後、搬入作業は昼前にほぼ終わった。
叔母さんは午後一で一度地元へ戻る必要があるらしく、最後の確認を終えると、朱音に念入りなくらい言い聞かせを始めた。
「いい? 困ったことがあったらすぐ言うのよ」
「分かっている」
「食事抜いたりしない」
「しない」
「お風呂で寝ない」
「寝たことはない」
「寝そうになったことはあるでしょう」
「それは……不可抗力だ」
「あるんじゃない」
俺は思わず目を逸らした。
見送る立場なのに、微妙に同居人としての注意事項まで共有されている気がする。
「恒一くんも、ほんとごめんね」
叔母さんが最後に俺へ向き直る。
「しばらく面倒かけると思うけど」
「いや、大丈夫です」
「この子、変なこと言うけど、根は普通だから」
「母上」
「そこは否定しないの」
「普通という定義が曖昧すぎる」
「はいはい」
叔母さんは朱音の頭を軽く撫でる。
朱音は嫌そうな顔をしつつ、振り払わなかった。
そして叔母さんは真琴さんの車で帰っていった。
見送りのあと、ハイツ水戸黄門の前は少しだけ静かになる。
さっきまでの段ボールと人の出入りが嘘みたいに、いつもの住宅街の昼へ戻っていた。
残ったのは、俺と朱音と、一階の住人たちと、二つの部屋分の生活の匂いだけだ。
「……帰ったな」
俺がぽつりと言うと、
「帰ったな」
と朱音も言った。
その声音が、ほんの少しだけ小さかった。
「昼飯どうする?」
と、俺はできるだけ何でもないふうに聞く。
「買いに行くか、適当に作るか」
「……作れるのか」
「お前、急に失礼だな」
「昨日までは一人分だったのだろう」
「二人分くらいでそんなに難易度変わんないよ」
「そういうものか」
「そういうもの」
すると、大友がすかさず手を挙げた。
「はい! ここは引っ越し完了記念で外食イベントでは!?」
「お前まだいたのか」
「ひど」
「でも、ちょっと買い物も必要ですよね」
ひなたが冷静に言う。
「生活用品とか、足りないもの出ると思います」
「たしかに」
俺はうなずいた。
「洗剤とかは増えたけど、食材とか調味料は二人分仕様に見直さないとだな」
「そのついでに昼も食べる?」
とひなた。
「ついでのスケールが大きいな」
「でも、せっかくですし」
朱音は少し考えるような顔をした。
「……外界の補給所を確認する意味では悪くない」
「普通に“買い物ついでに飯行く”って言え」
「言える」
「じゃあ言え」
「買い物ついでに飯へ行く」
「最初からそれでいいんだよ」
そんなわけで、一階メンバーで近所の店へ昼を買いに行くことになった。
と言っても、全員で遠出するほど大げさではない。
ハイツから少し歩いた先にあるドラッグストアとスーパー、それから安いファミレス的な店。水戸らしさを前面に出すほどではない、でも学生の生活圏としては十分現実的な場所だ。
風はまだ冷たい。
けれど日差しは昨日までより少しだけ明るい気がする。
「そういえば」
と、大友がドラッグストアの入口手前で言った。
「もう梅まつり始まってるんだよな」
「ああ」
俺はうなずいた。
「たしかもう始まってる」
「水戸って、この時期になるとそれっぽい話題増えるよなあ」
「観光客もちょっと増えるしね」
ひなたが言う。
「学校でも話してる人いました」
「梅まつり……」
朱音がその単語を拾った。
「何だ、それは」
俺たち三人が一瞬そろって朱音を見る。
「え、知らないの?」
と、大友。
「知らぬ」
「偕楽園の、梅のイベントみたいなやつだよ」
と俺が言うと、
「“みたいなやつ”って説明雑すぎません?」
ひなたが笑う。
「まあでも、そんな感じでもありますけど」
朱音は少しだけ顎に手を当てた。
「梅……花か」
「花だな」
「祭りなのか」
「まあ、そう」
「花を愛でる儀式的集会……?」
「言い換えすぎだろ」
「でも間違ってはないですね」
ひなたがフォローする。
スーパーの中へ入りながら、大友が続けた。
「クラスのやつらも何人か行ったらしいぞ。夜のライトアップもあるとか」
「へえ」
「お前んとこ、隣の白沢さんとか好きそうじゃね?」
「なんでそこで依子が出るんだよ」
「いや好きそうだろ、ああいう静かできれいなやつ」
「……まあ、分からなくはない」
と言ってしまったのがまずかった。
朱音が横で、すっと俺を見た。
「何だ、その間は」
「別に」
「今お前、隣室個体の適性を想像したな」
「言い方!」
「しかも否定しなかった」
「会話の流れだろ」
「ふん」
買い物かごを押しながら、朱音は明らかに面白くなさそうだ。
だが、大友はそこへ追撃を入れる。
「でも鬼塚さんも、ああいうの好きそうじゃん」
「我が?」
「だって雰囲気あるし」
「梅の木に呪詛でもかけそう」
俺が言うと、
「お前の中で我は何なのだ」
と朱音が睨んできた。
「しない。花に罪はない」
「そこだけ妙にまともだな」
「当然だ」
ひなたが商品棚からシャンプーの詰め替えを取りながら、小さく笑う。
「でも、春っぽいイベントが近くにあるのっていいですよね」
「分かる」
大友が即うなずく。
「こう、生活に“季節来てる感”が出る」
「学生のイベントって感じもあるし」
俺も言う。
「学校で話題になって、休日に誰かが行って、また月曜にその話する感じ」
「それだ」
大友が指を鳴らした。
「青春っぽいな」
「自分で言うなよ」
朱音は、買い物かごの中へインスタント味噌汁を入れながら、しばらく黙っていた。
そしてレジへ向かう少し前に、何でもないふうを装って言う。
「……それは、誰でも入れるのか」
「梅まつり?」
俺が聞くと、
「うむ」
「誰でもっていうか、普通に行けるだろ」
「地元住民以外でもか」
「当たり前だろ」
「ふむ」
その反応が少しだけ妙だった。
「行きたいのか?」
俺が聞くと、
「行きたいとは言っていない」
「じゃあ何」
「情報収集だ」
「便利な言葉だなあ」
「知らぬ土地の季節行事を把握するのは重要だ」
「それはまあそう」
「ならば、視察対象としては妥当だ」
「普通に“ちょっと興味ある”でよくない?」
「よくない」
でも、その横顔は、少しだけ期待しているようにも見えた。
買い物を終えたあと、俺たちは近くのファミレスみたいな店へ入った。
昼には少し早い時間だったからか、店内はまだ空いている。窓際の席へ案内され、四人で向かい合う形になった。
注文を終えて、水だけが先に来る。
「でさ」
と、大友がストローを指でいじりながら言った。
「どうすんの、梅まつり」
「どうすんのって」
「行くのか行かないのか」
「そんな今すぐ決める話か?」
「こういうのは勢いだろ」
「オタクの悪いとこ出てるぞ」
「イベントは発生した時点で拾わないと損なんだよ」
ひなたがメニューを閉じながら、少しだけ楽しそうに言う。
「でも、鬼塚さんがこの町に慣れるにはちょうどいいかもですね」
「う」
朱音が反応した。
「我は別に、慣れを必要としているわけでは」
「してるだろ」
俺が言うと、
「お前、今日やけに真っ直ぐ刺してくるな」
「朝から一緒にいると遠慮が薄れる」
「最悪だ」
「お互いさまだろ」
大友がげらげら笑う。
「いいなあ、同居幼なじみ」
「幼なじみじゃなくて従妹だ」
「両方だろ」
「言い方変えると情報量多いな」
「それが売りじゃん」
「何の話?」
そのとき、俺のスマホがテーブルの上で震えた。
画面を見る。
差出人は、白沢依子。
『買い物終わった?』
短い一文だった。
タイミングがよすぎる。
「……誰です?」
ひなたがすぐに聞いた。
「いや、別に」
「今の間、だいたい白沢さんですよね」
「なんで分かるんだよ」
「先輩、分かりやすすぎます」
「そんなことないだろ」
「あります」
大友が身を乗り出す。
「で?」
「で、って」
「何て来た」
「買い物終わった? って」
「強」
「何が?」
「生活圏の把握能力」
「お前、ほんとその観点好きだな」
「だって強いだろ」
朱音は水のグラスを持ったまま、無言になっていた。
表情の変化は大きくないが、空気が少しだけ冷える。
俺は慌ててスマホを伏せた。
「別に変な意味じゃないだろ」
「そうかもしれないですね」
ひなたが妙に冷静に言う。
「でも、タイミングは完璧です」
「やめろ、そんな分析」
大友がにやついたまま言う。
「返すなら、梅まつりの話振れば?」
「何で」
「いや、流れ的に」
「何の流れだよ」
「春イベントの」
「雑だなあ」
けれど、その提案自体は妙にしっくりきた。
依子はたぶん、ああいう静かなイベントが好きそうだ。
そして朱音は、興味があるくせに自分からは言いにくそうにしている。
……いや、待て。
この流れ、下手に動くとややこしくないか?
「先輩?」
ひなたが面白そうにこちらを見る。
「今、“詰んだかも”って顔してます」
「してない」
「してます」
「してるな」
大友まで乗ってくる。
俺は深く息を吐いた。
「まだ行くって決まったわけじゃないから」
「決めればいい」
朱音が、不意に言った。
三人がそろって朱音を見る。
「……何だ」
「いや」
「別に、視察対象として妥当だと言っただけだ」
「うん」
「だから、日程を決めるなら早い方がよい」
「すごい自然に参加表明したな」
「していない」
「しただろ」
「してないですか?」
ひなたが追い打ちをかけると、
「して……いなくもない」
と、朱音はほんの少しだけ視線を逸らした。
その顔を見て、俺はもうだめだった。
少し笑ってしまう。
「分かったよ」
「何がだ」
「今度、タイミング見て行く」
「……そうか」
たったそれだけなのに、朱音の表情がほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間、俺はまた思う。
こいつは本当に分かりやすい。
分かりやすくて、面倒で、強がりで、でもたぶん、今はまだ知らない街で少し不安なのだ。
だから春のイベントなんてものに、わりと素直に興味を示す。
料理が運ばれてきて、会話は一旦そちらへ流れた。
ファミレスのハンバーグ、ドリア、パスタ、日替わりランチ。学生らしい適当な昼食だ。
けれど食べながらも、俺の頭のどこかには“梅まつり”の文字が残っていた。
春はまだ少し遠い。
風も冷たいし、朝は寒いし、部屋の中だってまだ暖房が要る。
でも、季節のイベントの話だけは、少し先に始まる。
そういうところから、たぶん日常は動くのだろう。
店を出る頃には、空の色が少しだけ明るくなっていた。
ハイツへ戻る道すがら、朱音は買い物袋を持ったまま、何でもない顔で言う。
「恒一」
「何」
「梅の件だが」
「うん」
「もし行くなら、昼と夜とで環境が違うのか」
「違うらしいな」
「ならば比較対象として両方必要ではないか」
「欲張るな」
「合理的判断だ」
「便利ワードにするなって」
「重要だ」
「はいはい」
大友が横で腹を抱えて笑っている。
「鬼塚さん、マジでいいキャラしてるわ」
「キャラではない」
「うんうん」
「納得してないだろ」
「してない」
ひなたまで笑っていた。
ハイツ水戸黄門の一階は、今日も少しだけ騒がしい。
でもその騒がしさの中に、春の話題が一つ混ざった。
梅まつり。
まだ行くとは決まっていない。
誰と行くかも、どういう形になるかも分からない。
ただ、それだけで少しだけ先の予定ができた気がして、俺は不思議と悪くない気分になっていた。
そのとき、ポケットの中でスマホがもう一度震えた。
白沢依子からだった。
『よかったら今度、梅も見に行きたいな』
タイミングが良すぎるだろ。
俺は思わず空を見上げた。
春はまだ遠い。
なのに、面倒ごとだけはきっちり季節先取りらしい。




