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第4話 ハイツ水戸黄門一階は、朝から人間関係が渋滞している

 引っ越し当日の朝というのは、もっとこう、殺伐としているものだと思っていた。


 たとえば段ボールが玄関を塞ぎ、誰かが焦り、誰かが怒り、誰かが重い荷物を落として悲鳴を上げるような、そういう種類の混乱だ。


 実際には、混乱していたのは主に人間関係の方だった。


「うわ、ほんとに業者来た」

 103号室の大友が、まるでイベント開始の合図でも聞いたみたいな声を出す。

「これ、俺らも普通に戦力扱いされる流れ?」

「最初からそのつもりで来ただろ」

 俺が言うと、

「それはそう」

 と大友はあっさり認めた。


 玄関の外では、軽トラックから段ボールが次々と降ろされ始めている。叔母さんが業者の人に何やら説明し、真琴さんが書類の確認をしながら片手で髪を押さえていた。朝の光は冷たいが、荷物の搬入が始まったせいで、空気だけは妙にせわしない。


「恒一、立ってないで運ぶ」

 真琴さんが、こっちも見ずに言った。

「大家権限で命じる」

「その権限、便利すぎません?」

「便利だから使うのよ」

「オーナーってそんな感じなんだ」

「うちのはそう」


 そう言いながら、俺はすでに一箱目を受け取っていた。


 段ボールには『衣類・冬物』『教科書』『小物』など、叔母さんの字で中身が丁寧に書かれている。見た目だけでなく運用もきちんとしているあたり、やはり叔母さんはしっかり者だ。娘がああでも、親はまともということなのかもしれない。


「それ、手前の部屋へ」

 朱音が、なぜか現場監督みたいな顔で指示してくる。

「奥から順に積むな。導線が死ぬ」

「導線って言い方だけは、ほんとまともだよな」

「生活空間を制する者が居住を制す」

「それは何かの格言?」

「今作った」


 俺はため息をつきつつ、101号室の手前の六畳へ箱を運ぶ。


 昨日まで半分物置だった部屋は、俺が夜のうちにある程度片づけておいたおかげで、床の見える面積がちゃんとある。壁際には簡易の棚、窓際には小さめの机、押し入れの前にはまだ空きスペース。ここに朱音の生活が入ってくるのだと思うと、やっぱり少しだけ不思議だった。


 箱を置いて振り返ると、後ろにひなたが立っていた。


「先輩、それ、こっちじゃなくてこっちです」

「え?」

「この箱、たぶん押し入れ前塞ぐとあとで面倒なやつです」

「……なんで分かるんだ」

「書いてありますよ、『ハンガー・収納ケース』って」


 たしかに書いてあった。

 俺は素直に箱を少しずらす。


「助かる」

「えへへ」

 ひなたは笑った。

「引っ越しって、最初の配置でかなり決まりますから」


 どこかで聞いたような台詞だと思った瞬間、依子の顔が浮かんだ。


 朝一番で差し入れを持ってきて、ゴミ袋と使い捨て雑巾まで置いていった隣人。ひなたが悪いわけじゃないのに、頭の中に依子がちらつくと妙に落ち着かない。


「先輩?」

「いや、なんでもない」

「疲れました?」

「まだ疲れるほど働いてないよ」


 その返事の直後、廊下の方から大友の声が飛んできた。


「ちょっと待った、これ重くない!? 教科書って鈍器だろ!」

「文の重みだ」

 朱音が即答する。

「いや今お前、内容じゃなく物理の話されてるぞ」

「知識の重量は侮れぬ」

「会話の着地がおかしいんだよ!」


 ひなたがくすくす笑っている。

 俺も思わず口元が緩んだ。


 部屋の前に戻ると、大友が明らかに重そうな段ボールを抱えていた。額にはうっすら汗まで浮いている。


「それ何?」

「教科書・参考書・ノート・資料」

 叔母さんが申し訳なさそうに答える。

「この子、昔から本だけはやたら持ってて」

「中二病のくせに勉強熱心なんだよな」

「“くせに”とは何だ」

 朱音がぎろりと俺を見る。

「知識なき力は脆い」

「その方向性だけ聞くと格好いいんだけどな」

「だけ、とは失礼だな」


 大友は何とかそれを手前の部屋まで運び終え、床に置いた瞬間、げんなりした顔で俺を見た。


「お前んちの新住人、思ったよりちゃんとしてるな」

「思ったより、って何だ」

「もっとこう、片目に包帯とか黒いロウソクとか常備してるタイプかと」

「何その偏見」

「偏見ではない。演出の一部だ」

「あるんかい」

「常備はしておらんが、必要なら再現可能だ」

「再現可能って答えが一番いやだわ」


 業者の人が二人、冷蔵庫サイズの荷物ではないが、大きめの収納ケースを運び込んでくる。俺たちは慌てて道を開けた。


「すみません、こちらどちらへ?」

 業者の人が聞くと、

「手前の部屋だ」

 と朱音が答え、

「すみません、こっちです」

 と俺が慌てて補足する。


 まるで二重窓口である。


 依子の差し入れである雑巾やゴミ袋は、すでにDKの隅へ置いてあった。ひなたが気を利かせて、ガムテープとカッターの横にまとめてくれている。


「ひなた、すごいな」

 と俺が言うと、

「こういうの好きなんです」

 と、ひなたはにこにこした顔で言った。

「模様替えとか片づけとか、意外と楽しくないですか?」

「分からなくはない」

「先輩の部屋、もともとそんなに散らかってないですよね」

「一人暮らし長いからなあ」

「そこなんですよ。生活できる男子って強いんですよ」

「何の評価?」

「客観的評価です」

「急に怖いな」


 ひなたは見た目こそ完全に可愛い後輩なのに、時々やたら冷静なことを言う。だから余計に会話の調子が狂う。


 そのとき、共用廊下の階段から足音がした。


「うるさい」

 低くて少し眠そうな声。


 振り向くと、二階201号室の大学生、結城旬が階段の途中に立っていた。ぼさっとした髪にパーカー姿。いかにも寝起きで、片手にはスマホを持っている。


「すみません、起こしました?」

 俺が聞くと、

「もう起きてた」

 と結城さんは短く答えた。

「でもうるさい」

「それはすみません」

「引っ越し?」

「はい」

「そっち?」

 と顎で朱音を示す。

「はい」

「へえ」


 それ以上興味を示さない感じが、逆に大学生っぽい。

 生活圏は近いけれど、深入りはしない。二階組はたぶん、こういう距離感なのだろう。


 朱音はその視線を正面から受け止めた。


「新規配属個体だ」

「は?」

「いや、気にしないでください」

 俺が即座に割って入る。

「慣れてます」

「慣れるもんなんだ」

「慣れます」


 結城さんは少しだけ俺を見て、それからひとつあくびをした。


「頑張って」

「ありがとうございます」

「あと共用廊下、塞がないで」

「そこはちゃんとします!」


 言いたいことだけ言って、結城さんはまた二階へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、大友が小声で言う。


「二階、マジで二階って感じだな」

「どういう意味?」

「一階ほど人生が濃くない」

「失礼だろ」

「でも分かる」

 と、ひなたまで頷いた。


 分かるんかい。


 その後もしばらく搬入は続いた。


 朱音の服、本、文房具、雑貨、妙に黒っぽい小箱、見た目だけちょっと不穏なアクセサリーケース、何に使うのか分からない布。

 中二病のわりに、いや中二病だからこそ、私物には妙なこだわりがあるらしい。


「これ何」

 と俺が細長い箱を持ち上げると、

「触るな」

 と即座に止められた。

「術具だ」

「絶対嘘だろ」

「……装飾用短杖だ」

「もっとだめだろ」


 大友が吹き出す。


「あるんだ、装飾用短杖!」

「笑うな。趣味の領域だ」

「いやでも、そういうの隠さないのちょっと偉いな」

「隠す必要がない」

「強い」


 段ボールの山が少しずつ低くなるにつれ、部屋の中身が見えてきた。

 ベッド代わりの布団、机の上に置かれる小さなライト、押し入れへ収まっていく衣装ケース。窓辺の棚には本が並び始める。


 “知らない誰かの荷物”だったものが、少しずつ“朱音の部屋”になっていく。


 その変化を、俺は廊下側の壁にもたれて見ていた。


「どうした」

 朱音が言う。

「何か問題があるか」

「いや」

「ならば立ってないで、この箱をあちらへ」

「普通に働かせるなあ」

「共同生活とはそういうものだ」

「まだ半日だぞ」

「半日あれば人は変わる」

「重いこと言ってるようで、ほぼ片づけの話だよな」


 箱を受け取る。

 軽い。開けてみると、中には文房具と、何枚かの写真立てが入っていた。


 写真立て。


 なんとなく意外で、俺は一枚を持ち上げた。

 そこには、小さい頃の朱音と俺が写っていた。夏祭りだろうか、屋台の前で、今よりずっと幼い顔の俺たちが、ぎこちなく並んでいる。俺はたぶん何か食っていて、朱音は不機嫌そうだ。いや、たぶん照れていただけだ。


「……おい」

 朱音の声が少しだけ低くなる。

「それは」

「写真、持ってきたんだな」

「……持ってきたら悪いか」

「悪くはないけど」

「必要最低限の記録物だ」

「写真を記録物って言うやつ初めて見た」


 けれど、写真を奪い返すわけでもない。

 朱音は少しだけ目を逸らして、代わりに箱の中を整理するふりをした。


「知らぬ部屋に、何も馴染みのものがないのは落ち着かぬ」

 ぽつりと、そんなことを言う。


 その声は、中二病の語彙をほとんど挟んでいなかった。


「……そっか」

 と、俺は短く答えた。


 そうだよな、と思う。


 俺は先にここで暮らしているから、この部屋が“自分の家”みたいになっているだけだ。

 でも朱音にとっては、まだ全部が借り物みたいな感覚なのだろう。部屋も、街も、学校も、人間関係も。


 だから写真を持ってきた。


 だから強がっている。


「じゃ、それ、棚の上にでも置く?」

 俺が聞くと、朱音は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから小さくうなずいた。


「……窓際でよい」

「了解」


 俺が写真立てを窓際の棚へ置くと、ひなたが横から覗き込んできた。


「あ、ちっちゃい頃の先輩」

「覗くな覗くな」

「わ、鬼塚さんも可愛い」

「可愛い、だと」

「今も可愛いですよ?」

「そういう問題ではない!」


 朱音の耳がみるみる赤くなる。

 大友は腹を抱えて笑っている。


「ひなた、そういうとこ最強だな」

「え? 僕、ほんとのこと言っただけです」

「それが強いんだって」


 そのとき、再び階段から足音がした。


 今度は二階202号室の真鍋理沙さんだった。教育学部らしい、落ち着いた雰囲気の大学生で、いつも服装がきれいだ。今日も部屋着ではあるが、寝起き感はない。


「おはようございます」

 俺が言うと、

「おはよう。……わあ、今日はまた賑やかね」

 と理沙さんは笑った。

「引っ越し?」

「はい。従妹が」

「そうなんだ。高校生組、さらに濃くなるわね」

「自分でもそう思います」


 理沙さんは朱音に向かって、やわらかく会釈した。


「はじめまして」

「……うむ、はじめまして」

「会話のテンポ独特ね」

 理沙さんがくすりと笑う。


 こういう人が一人いるだけで、アパートの空気はだいぶ落ち着くな、と思う。

 一階が騒がしくても、二階から降りてくる人たちはだいたい“大人寄り”なのだ。


「あとで共用部のルールだけ教えてね」

 理沙さんが真琴さんへ声をかける。

「新しい子が入るなら、ゴミ出しとかだけ最初に」

「助かるー。後でまとめて言う」

「まとめて言う、で済ませるから雑なんです」

 と俺が言うと、

「ほんとよね」

 と理沙さんまで同意した。


 真琴さんは「身内が増えるとこれだから」と嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。


 搬入作業が一段落したのは、十時半を回る頃だった。


 大きな荷物はほぼ入り、段ボールもあらかた部屋の中へ収まった。

 DKにはまだ仮置きのものが残っているが、少なくとも玄関と廊下は塞がっていない。生活できる程度には、部屋の形が見えてきている。


「ふー……」

 俺が流し台にもたれながら息を吐くと、大友が同じようにテーブルへ突っ伏した。


「働いた……」

「大して働いてないだろ」

「精神的に働いた」

「何それ」

「お前んちの会話情報量が多い」


 ひなたが紙コップに麦茶を注いで配っている。

 叔母さんは業者の人へお礼を言い、真琴さんは最後の伝票にサインしていた。

 朱音だけは、手前の部屋の真ん中に立って、自分の部屋をじっと見回している。


 その顔は、昨日より少しだけ真剣だった。


「どうだ」

 俺が声をかける。

「思ったより住めそうか」

「思ったより、とは何だ」

「いやまあ、我が家じゃないし」

「……」


 朱音は少しだけ黙ってから、部屋の中をもう一度見た。


 窓際の棚。

 押し入れの中にしまわれた衣装ケース。

 机の上のライト。

 そしてさっき置いた写真立て。


「悪くない」

 と、朱音は言った。

「仮拠点としては、十分に合格点だ」

「上から目線だなあ」

「評価とはそういうものだ」

「はいはい」


 けれど、その声には昨日より少しだけ安堵が混じっていた。


 そのとき、玄関のチャイムがまた鳴った。


 全員が一瞬だけそちらを見る。


「誰だ?」

 大友が聞く。

「今度こそ宅配か?」

「いや、今日はそんな予定――」


 ドアを開けると、そこに立っていたのはまたしても依子だった。


 今度は手ぶらではない。

 近くの店で買ったらしい紙袋を持っていて、その表情は相変わらず穏やかだ。


「お疲れさま」

「……また来た」

 と、朱音が小さく呟くのが聞こえた。


 依子は俺ではなく、まず部屋の中をひと目見て、それから微笑んだ。


「だいぶ進んだね」

「まあ、なんとか」

「差し入れ、冷たいの買ってきた」

「助かる……」

「人多いと飲み物すぐなくなるでしょ」

「それもそう」


 そう言って紙袋を受け取りながら、俺は少しだけ思った。


 この人は、やっぱり妙にタイミングがいい。


 しかもその“いいタイミング”が、全部ありがたい方向に働くから困る。

 警戒する理由がない。ないのに、なぜか少しだけ警戒したくなる。


 依子は室内を見回し、手前の部屋の入口まで視線を向けた。


「ちゃんと部屋っぽくなってる」

「まだ途中だけどな」

「ううん。途中でも、最初の形ができるとちょっと安心するよね」

「……経験者は言うことが違う」

「かも」


 依子はそう言って、ほんの少しだけ笑った。


 その笑顔に、大友が小声で俺の耳元へ寄ってくる。


「隣の同級生、強すぎない?」

「言うな」

「いやでもマジで、生活圏への入り方がうまい」

「お前まで朱音みたいなこと言い始めるな」

「だって分かるだろ」


 分かる。

 分かるのが、少し困る。


 そして、その一方で。


「……恒一」

 反対側から、朱音の低い声が飛んでくる。

「そちらへ行きすぎだ」

「何の指摘だよ」

「物資の仕分けが残っている」

「仕事振るタイミングが絶妙だな」

「当然だ」


 依子はそのやり取りを見て、何も言わなかった。

 ただ、視線だけが静かに動いていた。


 俺はそこで、ようやく理解する。


 ハイツ水戸黄門の一階は、今日から確実に昨日までと違う。

 うるさい。近い。面倒くさい。

 でも、それぞれの人間がそれぞれのやり方で、俺の生活に入り込んできている。


 同居の従妹。

 隣の同級生。

 騒がしい男友達。

 可愛い顔の後輩。


 朝から、ちょっと渋滞しすぎだろ。


 そう思いながらも、俺は依子の持ってきた飲み物の袋を開け、

「とりあえず休憩にするか」

 と口にしていた。


 すると、大友がすぐに顔を上げた。


「賛成!」

「僕もです」

 ひなたも手を挙げる。

「朱音ちゃんは?」

 叔母さんが聞くと、

「我は異論なしだ」

 と、なぜか少し偉そうに答えた。


 依子は玄関先で、

「じゃあ、私は戻るね」

 と一歩引こうとした。


 その瞬間、ひなたが無邪気に言った。


「白沢さんも少しだけどうですか? 飲み物、多いですし」


 空気が、一瞬だけ止まった。


 大友が「おっ」と顔に書いたような表情をする。

 俺は咄嗟に依子と朱音の顔を見た。


 依子は相変わらず穏やか。

 朱音は相変わらず不機嫌そう。


 この一階、ほんと朝から人間関係が渋滞してる。


 俺は小さく息を吐いてから、玄関の方へ向き直った。


「……まあ、すぐ終わる休憩だけど」

 と、俺が言うと、

 依子は少しだけ目を細めた。


「じゃあ、少しだけ」

 その返事を聞いた瞬間、朱音が静かに腕を組んだ。


 ああ、今日もたぶん、平穏ではない。


 でもまあ、それはもう、今さらなのかもしれなかった。

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