第23話 隣人は、予定を聞くふりで心の空きを探ってくる
ゴールデンウィーク前というのは、予定がない人間ほど落ち着かなくなる時期なのかもしれない。
いや、予定がないからこそ、誰かの予定が気になるのか。
どっちでもいいが、とにかくその日の昼休みの教室は、そんな空気で満ちていた。
「二日目は部活でー、三日目は親戚来るから無理」
「うわ、それ一番だるいやつ」
「お前は?」
「まだ白紙」
「白紙って気楽でいいな」
そんな声があちこちから聞こえる。
俺は机に弁当箱を広げながら、窓の外を見た。
天気はいい。春っぽい、というより、ほとんど初夏寄りの明るさだ。風もあたたかい。こういう日が増えると、連休が近いことを嫌でも意識する。
そして、そういう日に限って、隣から静かな声が来る。
「恒一くん」
「何」
「GWの予定、少し変わった?」
「……」
俺は箸を持ったまま、ゆっくり依子の方を見た。
「お前さ」
「うん」
「最近それ、何回目だ」
「そんなに聞いてる?」
「聞いてる」
「そうかも」
「自覚あるんかい」
「少しだけ」
依子は、何でもないような顔でお茶のペットボトルを机に置いた。
学校でのこの人は、相変わらず静かだ。
大きなリアクションもしないし、教室の真ん中で目立つわけでもない。
なのに、こういうふうに二人きりに近い会話のときだけ、妙にまっすぐ踏み込んでくる。
「別に、決まってないよ」
俺が言うと、
「まだ?」
と依子。
「まだ」
「本当に?」
「何だその確認」
「だって」
依子は少しだけ目を細めた。
「恒一くん、“まだ”って言うとき、たまにもう何か含んでる顔するから」
「顔で判断するなって」
「最近、みんなしてるらしいね」
「お前もその一人だろ」
「そうだよ」
認めるのが早い。
そして悪びれない。
俺は弁当の卵焼きを一つ口に入れた。
今日の弁当は朱音作だ。最近だいぶ安定してきた。卵焼きも四角いし、ブロッコリーもちゃんと緑で、ウインナーも妙に赤すぎない。
「鬼塚さん、今日も作ってくれたんだね」
依子が弁当箱を見て言う。
「うん」
「すごいな」
「最近そればっかだな」
「だって本当にすごいから」
依子は箸を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「毎日って、案外難しいよ」
「……」
「分かってる?」
「まあ、一応」
「一応なんだ」
「いや、ちゃんとありがたいとは思ってる」
「ならよかった」
依子は少し笑った。
「鬼塚さん、頑張ってるもんね」
「……」
「何だよ」
「別に」
「今、お前が微妙に気まずそうな顔した」
「してない」
「してる」
「してない」
「はいはい」
依子はそういう、俺と朱音の距離を“分かっている前提”で話してくることがある。
それが自然すぎて、時々少し落ち着かない。
「で」
と、依子。
「GW」
「まだ続くのか」
「続くよ」
「何で」
「気になるから」
「便利ワード」
「本音だよ」
「それが厄介なんだよなあ」
「何が?」
「言い方が全部まっすぐなとこ」
「そう?」
「そうだよ」
「でも、遠回しにしても恒一くん、ちょっと鈍いでしょ」
「ひどくない?」
「ひどくない」
「いやひどいだろ」
依子は笑う。
それから、少しだけ声を落とした。
「本当に、まだ何もないの?」
「……」
「その間」
「何だよ」
「あるんだ」
「いや、あるっていうか」
俺は視線を逸らした。
「一階で、みんなで少し出かけるかもって話はある」
「みんなで」
依子が復唱する。
「うん」
「一階で」
「そこ強調するな」
「だって、そこ大事でしょ」
静かな口調のままなのに、妙に耳に残る。
「ひなたと、大友と」
「うん」
「鬼塚さんと」
「……まあ」
「あと?」
「あとって」
「他に入る人いるのかなって」
「まだ分かんない」
「そっか」
依子はそこで一度だけ頷いた。
それで終わるかと思ったが、終わらなかった。
「いつ頃?」
「何が」
「その予定」
「お前、そこまで聞く?」
「聞くよ」
「何で」
「空いてる日、知りたいから」
「……」
「何その顔」
「いや、それ」
俺は少しだけ言葉を探した。
「予定確認っていうより、だいぶ管理に近くないか?」
「管理?」
依子は少しだけ首を傾げる。
「そう見える?」
「見える」
「でも、違うよ」
「じゃあ何」
「確認」
「同じだろ」
「違う」
「どこが」
「管理って、相手の動きを決める感じでしょ」
「うん」
「私は、決めたいんじゃなくて、知りたいだけ」
「……」
「知った上で、自分がどうするか考えたいの」
「……」
「だから、確認」
それをそんな静かな顔で言われると、余計に怖いんだよな。
「お前さ」
俺は箸を置いた。
「その“知りたい”って、けっこう重いんだけど」
「そう?」
「そうだよ」
「でも」
依子は少しだけ目を細めた。
「知らない時間が増えるの、ちょっとやだし」
「……」
「やだって言ったら変?」
「変っていうか」
「うん」
「だいぶ正直だな」
「正直だよ」
「それを普通に言うなって」
「でも、本当にそう思うんだもん」
「もん、ってお前」
「何」
「急にそういう言い方するな」
「だめ?」
「だめじゃないけど、調子狂う」
そこで依子は、本当に少しだけ楽しそうに笑った。
「最近、調子狂うってよく言うよね」
「お前のせいだよ」
「知ってる」
「知ってるならやめろ」
「やだ」
「即答かよ」
「だって」
依子はまっすぐ俺を見た。
「そういう顔する恒一くん、ちょっと好きだし」
昼休みの教室で、それを言うな。
俺が言葉を失っていると、後ろから椅子の軋む音がした。
「……なあ」
と、大友。
「お前ら、俺がいるの分かってる?」
「いたのか」
「ひど」
「いや、弁当食ってるなとは思ってた」
「思ってたんならもっと気を遣えよ!」
「お前が勝手に聞いてるんだろ」
「耳を塞げる会話量じゃないんだよ」
「だったら聞くな」
「無茶言うな!」
大友は机に突っ伏してから、顔だけ上げた。
「白沢さん、静かな顔してやることえぐいな」
「そうかな」
依子は平然としている。
「だって、普通に確認しただけだよ」
「その“普通”がもうズレてるんだって」
「大友くんはどうなの?」
「何が?」
「気になる人の予定、知りたくならない?」
「う」
大友が一瞬だけ詰まる。
「なるかならないかで言えばなる」
「でしょ」
「でも俺はそこまで自然に聞けない」
「そうなんだ」
「だから強いんだよ!」
ひなたが、またしてもいつの間にか教室の後ろから入ってきていた。
「なるほど」
「お前もいるのかよ」
「先輩のクラス、最近入りやすくて」
「何だその感想」
「いや、今の話ちょっと分かります」
ひなたは真面目な顔で言う。
「予定って、その人の“空いてる時間”じゃないですか」
「うん」
「だから、聞くふりで“心の空き”も探ってる感じになるんですよね」
「……」
俺は思わず黙った。
それだ。
「何その顔」
依子が聞く。
「いや」
俺は少しだけひなたを見る。
「お前、時々急に本質をえぐるな」
「え、そうですか?」
「そうだよ」
大友がうなずく。
「しかも可愛い顔で」
「それ、今必要です?」
「必要」
依子は少しだけ考えるようにしてから、ひなたへ向けて言った。
「たしかに、そうかも」
「認めるのか」
俺が思わず言うと、
依子は穏やかに頷いた。
「予定を聞くのって、その人がいつ空いてるか知りたいってことだし」
「うん」
「空いてる時間を知りたいってことは、その時間に自分が入れるか考えたいってことだから」
「うん」
「……そう考えると、たしかに“心の空き”も見てるのかもしれないね」
「こっわ」
大友が素直に言った。
「お前、それ自分で言う?」
「でも本当だし」
「またそのワード」
「便利だから」
俺は深くため息をついた。
「お前、最近ほんと怖いな」
「うん」
依子は素直に頷く。
「でも、やめないよ」
「何で」
「だって、知りたいから」
「……」
「恒一くんの空いてる時間も」
「……」
「空いてる気持ちも」
静かな顔で、そこまで言うな。
昼休みのざわめきの中、その一言だけが変に鮮明だった。
周りの音はあるのに、その部分だけ少し温度が違うみたいに聞こえる。
俺が何も返せずにいると、依子は少しだけ笑った。
「返事に困ってる」
「当たり前だろ」
「でも、困るってことは、ちゃんと届いてるってことだよね」
「お前ほんと、最近理屈が強いな」
「前からだよ」
「前からならなおさら怖い」
「ひどい」
放課後、帰り道は結局また依子と一緒になった。
ひなたは途中で別れ、大友は「今日はあえて消える」とか意味不明なことを言って先に曲がっていった。絶対面白がってるだけだ。
住宅街に入る。
夕方の光は少し傾いていて、風は昼よりやわらかい。
「さっきのひなたくんの言い方」
依子が言う。
「うん」
「わりと正しいかも」
「まだ引っ張るのか」
「だって、自分でも少し思ったし」
「何を」
「私、予定を聞いてるふりして、たぶん本当に知りたいのはそこなんだなって」
「……」
「恒一くんが、いつ空いてるかじゃなくて」
「うん」
「どこに気持ちがあるか」
「……」
そんなことまで自分で整理して口にする人、いるのか。
少なくとも、俺の生活圏では今までいなかった。
「お前」
俺は小さく言う。
「それ、だいぶ危ないって分かってる?」
「危ない?」
「静かに言ってるけど、内容はだいぶ重い」
「そうかも」
「自覚あるのか」
「あるよ」
「……」
「でも、隠してもしょうがないし」
「そういう問題か?」
「うん」
依子は、あくまで穏やかだった。
「だって、知りたいんだもん」
“もん”がまた出た。
そのたびに少しだけ年相応になるの、ずるいんだよな。
ハイツ水戸黄門が見えてくる。
102号室も101号室も、もう見慣れたはずなのに、帰ってくるたびに少しだけ意味が増えている気がする。
「ねえ」
「何」
「GWの予定、決まったらちゃんと教えて」
「ちゃんと、って」
「あとから“そういえば決まってた”って言われるの、ちょっとやだ」
「……」
「分かった?」
「……分かった」
「よかった」
依子はそれで満足したみたいに小さく笑った。
101号室の鍵を開ける前に、廊下の向こうから足音がした。
朱音だ。手に小さな買い物袋を持っている。
「お前たち」
と、朱音。
「今帰りか」
「うん」
と俺。
「そう」
と依子。
朱音の視線が、俺と依子の間を一瞬だけ往復する。
その一瞬で、だいたい何を考えているか分かるようになってきた自分も嫌だ。
「……何だ」
朱音が俺を見る。
「何が」
「妙に疲れた顔をしている」
「疲れてる」
「隣室のせいか」
「お前、その聞き方やめろ」
「違うのか」
「……完全には違わないけど」
「ほら」
朱音が小さく言う。
「やはり」
「やはり、って何だよ」
「警戒対象Aは、静かに削ってくるタイプだ」
「その表現はどうなんだ」
「だが正確だ」
「正確ではない」
と、依子が穏やかに言った。
「私は、削ってるんじゃなくて、確認してるだけ」
「それが怖いって話してたんだよ」
俺が言うと、
「ちゃんと本人にも言うんだ」
依子が少しだけ笑った。
「えらいね」
「そういう問題か?」
朱音は買い物袋を持ったまま、少しだけ顎を上げる。
「で、何を確認した」
「……」
「おい」
「GW」
俺はため息混じりに答えた。
「予定」
「ほう」
「お前、その“ほう”やめろ」
「で?」
「で、って」
「何だ」
「だいぶ聞かれた」
「そうか」
「それだけか」
「充分だ」
「何が」
「情報が」
依子がその会話に、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「鬼塚さんも、聞きたい?」
「……」
「GWの予定」
「我は」
朱音が少しだけ詰まる。
「お前ほど露骨ではない」
「聞きたいんだ」
「違う」
「じゃあ、聞きたくない?」
「……」
「鬼塚さん」
依子は静かに言う。
「そこ、はぐらかしても分かるよ」
朱音が、今度は本当に少しだけむっとした。
「お前は本当に」
「何」
「人の逃げ道を見つけるのがうまいな」
「そう?」
「うまい」
「でも」
依子は少し首を傾げた。
「鬼塚さんも、ちゃんと聞いてくる方だと思うよ」
「……」
「朝とか帰宅時間とか、生活のこと」
「それは」
「“予定を聞くふり”ではないけど」
「……」
「でも、同じくらい気にしてるでしょ」
その指摘に、朱音はすぐには返せなかった。
そして俺も、何となくそれを否定できない。
種類は違う。
依子は予定や空いている時間を静かに探る。
朱音は生活そのものの中で、俺の気配や時間のずれを拾ってくる。
やってることの見え方が違うだけで、たぶん根っこは近いのかもしれない。
「……面倒だな」
思わず俺が呟くと、
「誰がだ」
と朱音。
「何が?」
と依子。
「お前らがだよ」
俺が言うと、二人とも少しだけ黙った。
それから、依子が先に笑った。
「でも、嫌じゃないんでしょ」
「……」
「うん?」
「その聞き方、最近ずるいんだよ」
「答えになってない」
「分かってるくせに」
「分かってるよ」
依子はやわらかく言う。
「だから聞くの」
隣人は、予定を聞くふりで心の空きを探ってくる。
しかも、それを自覚したまま、静かな顔でやる。
たぶん今の俺にとって、いちばん面倒なのはそこだった。




