第22話 同居人と洗濯物の距離は、案外あなどれない
土曜日の朝、101号室のベランダ側の窓は、いつもより少しだけ大きく開いていた。
四月の終わりの風は、もう冬の残りではない。
冷たさはあるけれど、洗った布の匂いが外へ抜けていくにはちょうどいい温度だ。空も高くて、青い。こういう日は、何かを片づけないともったいない気がする。
だから俺は朝から洗濯機を回していた。
……いや、正確に言うと、回そうとしていた。
「ちょっと待て」
背後から、低い声が飛んできた。
振り向くと、朱音が腕を組んで立っていた。
部屋着の黒い長袖に、なぜか今日は髪をゆるく後ろで結んでいる。寝起きのまま適当にまとめた感じなのに、妙に似合っているのが少し腹立たしい。
「何だよ」
俺が聞くと、
「その投入順は雑すぎる」
と朱音。
「洗濯物に対する敬意がない」
「朝から洗濯に敬意を求めるな」
「求める」
「いや、普通に回すだけだろ」
「“普通に回す”で済ませるから、お前の洗濯は時々微妙に仕上がりが雑なのだ」
「そこまで言われる筋合いある?」
「ある」
朱音は迷いなく言った。
「まず、色物と白を少し分けろ」
「そこまで厳密にやらなくても」
「甘い」
「何が」
「生活への認識が」
洗濯カゴの中を見下ろす。
制服のシャツ。
タオル。
部屋着。
靴下。
朱音のものと俺のものが、最近はもう普通に同じカゴへ入っている。
それ自体、少し前の俺ならわりと落ち着かなかった気がする。
でも今は、それよりも“誰がどの順で洗うか”の方が現実的な問題になっていた。
「お前、細かいな」
俺が言うと、
「細かいのではない」
と朱音。
「最適化だ」
「便利ワード」
「事実だ」
「でも、そこまで変わるか?」
「変わる」
朱音は少しだけ身を乗り出して、洗濯カゴの中身を指さした。
「これは干す順まで考えろ」
「そこまで?」
「厚手と薄手、形の崩れやすいもの、先に乾いてほしいもの。順番がある」
「お前、洗濯に命かけてんの?」
「かけてはいない」
「でもかなり真剣だろ」
「生活は真剣にやるものだ」
「たまにめちゃくちゃ正しいこと言うよな」
「たまにではない」
「そこは譲れよ」
朱音は不服そうに眉を寄せたが、すぐにカゴの中を仕分け始めた。
シャツを分けて、タオルをまとめて、靴下を片方ずつ確認している。
「それ、俺がやるよ」
「遅い」
「いや、今言っただろ」
「気づくのが遅い」
「言い方」
「それに」
朱音は片方だけになった靴下を持ち上げた。
「こういうのを見つける能力は、今のところ我が上だ」
「何でちょっと誇らしげなんだよ」
「事実の確認だ」
「ほんと便利だな、その言葉」
結局、洗濯の主導権はあっさり朱音に持っていかれた。
洗剤の量。
柔軟剤のタイミング。
回転コース。
俺の一人暮らし時代なら“まあこれでいいか”で済ませていた部分を、こいつは妙にちゃんと見る。
「……お前」
俺は壁にもたれながら言った。
「ほんと生活力高いよな」
「今さら何だ」
「いや、改めて」
「褒めても何も出ぬ」
「最近それよく言うな」
「便利だからな」
「人の悪いところ吸収すんな」
洗濯機が回り始める。
ごう、という規則的な音。
静かな土曜の朝の部屋に、その機械音だけが少し生活感を濃くする。
DKの椅子へ座ると、朱音も向かいに座った。
今日は学校がないせいか、互いに少し気が抜けている。
「GWの件だが」
朱音が唐突に言う。
「うん」
「まだ何も決まっていないのか」
「場所?」
「うむ」
「決まってない」
「遅いな」
「いや、昨日決まったみたいなもんだろ」
「そうだが」
「候補出すって話のまま」
「ふむ」
朱音は少しだけ視線を落とす。
その顔が、何か考えているときの顔だと最近は分かる。
「……行きたくないなら別に無理しなくていいぞ」
俺が言うと、
朱音はすぐに顔を上げた。
「誰がそう言った」
「いや、何となく」
「お前」
朱音は少しだけ不機嫌そうに言う。
「我を、そこまで対外活動不能な個体だと思っているのか」
「言い方」
「質問に答えろ」
「思ってはない」
「ならよい」
「でも、疲れるならって話」
「……」
「何だよ」
「疲れぬとは言っていない」
「うん」
「だが、疲れるからといって、全部を避けるわけにはいかぬ」
「……そっか」
「それに」
朱音は少しだけ視線を逸らした。
「お前たちが行くのなら、情報は把握しておくべきだ」
「便利ワード」
「うるさい」
「でも、楽しみにしてるだろ」
「していない」
「してる」
「していない」
「はいはい」
その言い合いの途中で、洗濯機がぴぴっと音を鳴らした。
「早」
「最近の洗濯機は優秀だ」
「それ、お前が言うと何かムカつくな」
「なぜだ」
「分かんないけど」
洗濯物を取り出す。
タオルがまだ少し熱を持っていて、洗剤の匂いが強い。ベランダへ出ると、春の風がふわっと流れてくる。
干し竿は二本。
ハンガーとピンチのついた洗濯ばさみ。
外から見れば、どこにでもある学生アパートの休日の光景だ。
ただ、その中に“二人分の洗濯物”が混ざっているだけで、前とは少し違う。
「これはこっち」
朱音が言う。
「シャツは間隔を空けろ」
「はいはい」
「はいは一回でよい」
「細かいんだよなあ」
「細かいのではない。乾き方の問題だ」
「でも、お前こういうとき妙に頼もしい」
「……」
「何だよ」
「そういうことを、さらっと言うな」
「また?」
「まただ」
「だって本当だし」
「……」
「何その顔」
「調子が狂う」
「便利だな、その言葉」
「お前のせいで便利にせざるを得ぬ」
俺は笑いながら、ハンガーにシャツを掛けた。
すると朱音がすっと手を伸ばして、襟元を直す。
「そこ、よれる」
「え?」
「だから、こう」
朱音は俺の持っていたシャツの肩を少し引っ張って、形を整えた。
「そうしないと、乾いたあと微妙に折れる」
「……近いな」
「は?」
と、朱音が止まる。
「いや、肩」
「あ」
言われて気づいたらしい。
俺の腕のすぐ横に、自分の手が伸びている。距離が近い。洗濯物一枚分しかない。
「……」
「……」
ほんの一瞬、どっちも何も言えなかった。
そこへ。
「わあ」
妙に明るい声がベランダの外から飛んできた。
「うわ」
俺が振り向く。
「おはようございます」
ひなたが、隣の通路側から顔を出していた。
何でいるんだ。
「お前、どこから現れた」
「ちょうど下で洗濯物干してたら、先輩たちが見えたので」
「見えるのか」
「見えますよ」
「それでわあ、って何だよ」
「え?」
ひなたは悪びれもなく笑った。
「ちょっと新婚さんみたいだなって」
「……」
「……」
俺と朱音の動きが止まる。
「何言ってんだお前」
俺がようやく言うと、
「だって」
ひなたは本気で不思議そうな顔をした。
「ベランダで一緒に洗濯物干して、片方が細かく直して、もう片方が普通に従ってるんですよ?」
「それは」
「完全に“慣れた二人”のやつです」
「お前、言い方」
「いや、でも見えますって」
「見えない!」
と、朱音が珍しく強めに言った。
「それは断じて違う!」
「えー」
ひなたは面白そうに首を傾げる。
「でも鬼塚さん、今、先輩のシャツの襟直してましたよね」
「それは生活合理性の話だ!」
「その言い訳、最近ほんと便利ですね」
「お前まで言うな!」
俺は思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
「笑うな」
朱音がすぐ睨んでくる。
「いや、だって」
「笑うな」
「ひなたの言い方が悪い」
「先輩まで否定しきらないのひどくないです?」
ひなたが笑う。
「いや、でも完全に夫婦っていうのは飛躍だろ」
「夫婦とまでは言ってないですよ」
「新婚さんって言っただろ」
「ニュアンスです」
「余計悪いわ」
朱音は明らかに顔が赤くなっていた。
だが怒鳴って追い返すほどではないらしい。そのへんがまた、否定しきれてない感じを強くしている。
「とりあえず」
俺は話を切る。
「ひなたは自分の洗濯物干せ」
「はーい」
「何でこんなに楽しそうなんだよ」
「だって楽しいですもん」
ひなたは本当に楽しそうにそう言った。
「先輩たち、家の中だけじゃなくて外でも距離近いんだなあって思って」
「近くない」
朱音が即答する。
「近いですよ」
「近くない」
「じゃあ、先輩の代わりに僕がそのシャツの襟直しましょうか?」
「やめろ」
俺が反射で言う。
「え」
ひなたが目を丸くする。
「今の、かなり早かったですね」
「……」
「先輩?」
「いや、その」
「ほら」
ひなたが嬉しそうに言う。
「そういうことじゃないですか」
「そういうことって何だよ」
「鬼塚さんの位置、ちゃんと鬼塚さんの位置なんですよ」
「……」
今度は、俺が少し言葉を失った。
朱音も、たぶん同じだった。
何か言い返したそうなのに、うまく言葉にならない顔をしている。
結局、ひなたが自分の洗濯物のところへ戻ったあと、ベランダには少しだけ妙な沈黙が残った。
「……」
「……」
風が吹く。
洗ったシャツの袖が少し揺れる。
俺はハンガーを掛け直しながら、できるだけ何でもないふうに言った。
「ひなた、たまに変なとこ鋭いよな」
「……」
「何だよ」
「お前」
朱音が低く言う。
「さっき、止めるのが早かった」
「何が」
「“代わりに僕がやる”のくだりだ」
「……」
「なぜ止めた」
「いや、だって」
「だって何だ」
「それは……」
俺は言い淀む。
朱音はじっと見てくる。
逃がさない顔だ。
「……お前の役目だろ、そこ」
と、俺はようやく言った。
言ってから、自分でちょっと恥ずかしくなる。
何言ってるんだ俺は。
朱音も、明らかに一瞬止まった。
「……」
「……」
「お前」
朱音がようやく声を出す。
「そういうことを」
「言うな、だろ」
「分かっているなら最初から言うな」
「でも本音だし」
「……」
「何だよ」
「本当に、お前は」
朱音はそこで言葉を切って、ハンガーへ視線を落とした。
「雑なのに、こういうところだけ変にまっすぐだ」
「それ、最近よく言われる」
「改善しろ」
「無理だな」
「……そうか」
その“そうか”は、怒っている感じではなかった。
むしろ、少しだけ困っている感じに近い。
残りの洗濯物を干し終えて、部屋へ戻る。
ベランダの外の空気は気持ちよかったのに、DKに戻ると妙に落ち着かない。さっきの会話が少し残っているせいだ。
「……コーヒー飲む?」
俺が聞くと、
「うむ」
と朱音。
「甘い方がよい」
「疲れてるな」
「お前のせいだ」
「ひどいな」
「事実だ」
「便利だなその言葉」
マグカップを二つ出して、インスタントコーヒーを入れる。
朱音はテーブルに肘をついて、まだ少しだけ耳が赤いままだった。
「GW」
不意に、朱音が言う。
「うん?」
「どこへ行くにせよ」
「うん」
「洗濯物を干すような距離感で外へ出るな」
「何その注意」
「言っておく」
「いや、でも外の方がむしろ距離遠いだろ」
「お前は鈍い」
「またそれか」
「そうだ」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「……」
朱音は少しだけ黙ってから、コーヒーの入っていない空のカップを指先でいじる。
「家の中で自然なことが、外で自然とは限らぬ」
「……」
「だから、混同するな」
「……分かったような分かんないような」
「分からなくてよい」
「投げるなよ」
「投げてはいない」
「いやまあ、何となくは」
「何だ」
「外だと、ちょっと意識するってことだろ」
「……」
朱音は小さく息を止めたみたいな顔をした。
「お前」
「何」
「たまに、本当に余計なところだけ理解が速い」
「褒めてる?」
「違う」
「じゃあ何」
「……腹立たしい」
「ひでえ」
でも、その“腹立たしい”の言い方は、前ほど尖っていなかった。
洗濯物はベランダで風に揺れている。
ひなたに言われた言葉は少し面倒だったが、完全に外れているとも言い切れないのがまた厄介だ。
同居人と洗濯物の距離は、案外あなどれない。
少なくとも、今朝の俺たちにはそれがちょっと効きすぎた。




