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第20話 ハイツ水戸黄門一階、夜食ひとつで騒がしくなる

 その夜、101号室の冷蔵庫には、微妙に何もなかった。


 いや、正確には“何もないわけではないが、今この時間に気持ちよく食べられるものがない”状態だ。


 昼の残りの豆腐。

 半端に余ったキャベツ。

 卵が三つ。

 使いかけのハム。

 あと、朱音が買っていたらしいヨーグルト。


 普通の夕飯ならどうにでもなる。

 でも、夜九時を回ったあとの“ちょっと何か食べたい”には、こういうラインナップは弱い。


「……何もないな」

 俺が冷蔵庫を覗き込みながら言うと、

「あるだろう」

 と、後ろから朱音。

「素材としてはな」

「なら問題ない」

「問題あるよ」

 俺は振り返る。

「今からちゃんと料理する気力がない」

「軟弱だな」

「お前も十分だろ」

「我は……」

 朱音は少しだけ言葉を止めた。

「少量の補給なら許容する」

「言い方」

「夜食だ」

「最初からそう言え」

「言葉の格を下げるな」

「夜食の格って何だよ」


 結局、俺は棚の奥から買い置きのインスタント焼きそばを見つけた。

 賞味期限はギリギリ大丈夫。二つある。


「これでいいか」

「それは、非常時用ではなかったか」

「今がその非常時だよ」

「夜食ごときで非常事態宣言を出すな」

「お前だって食う気あるだろ」

「……ある」


 朱音はそう言って、あからさまに視線を逸らした。


 ケトルに水を入れる。

 湯が沸くまでの時間、101号室の夜は妙に静かだった。窓の外では、住宅街の遠い音が少しだけする。風呂上がりの温度がまだ部屋の中に残っていて、昼の騒がしさとは違う“暮らしの終わりかけ”の空気がある。


 こういう時間、前は嫌いじゃなかった。

 一人でいることに慣れていたし、静かな部屋はそれなりに落ち着いた。


 でも最近は、ここに朱音がいて、壁の向こうに依子がいて、一階のどこかにはまだ起きている誰かがいる。そういう“完全には閉じない夜”に慣れ始めている。


「恒一」

「何」

「湯」

「今沸く」

「遅い」

「湯に文句言うなよ」


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


 ぴんぽーん。


 俺と朱音が同時に顔を上げる。


「この時間に?」

 俺が言うと、

「敵襲か」

 と朱音。

「やめろ」

「しかし」

「敵襲のアラームにしてはのんきすぎるだろ」


 玄関を開けると、そこに立っていたのは104号室のひなただった。


 部屋着の上に薄いパーカーを羽織って、小さめのクッションを抱えている。なんでクッション持ってるんだ。


「こんばんは」

「こんばんは」

「どうした」

「ちょっと」

 ひなたは遠慮がちに笑った。

「お腹空いちゃって」

「何でそれをうちに言いに来るんだよ」

「だって101号室、何かありそうで」

「どういう信頼」

「先輩が何とかしてくれそうな信頼です」

「重いな」


 後ろから朱音が顔を出した。


「何だ、ひなたか」

「鬼塚さん、こんばんは」

「なぜクッションを持っている」

「なんとなく落ち着くかなって」

「そこは正直なんだな」

「はい」


 ひなたは玄関先から中を覗き込んで、すぐに察した顔をした。


「あ」

「何」

「今、先輩たちもちょうど何か食べようとしてました?」

「……何で分かる」

「空気です」

「便利な言葉だな」

「便利なんですよ」

「最近その理屈ばっかり増えるな、このアパート」


 ひなたが一歩だけ踏み込んでくる。

 そしてキッチンの方を見て、目を輝かせた。


「焼きそば!」

「お前、ほんと分かりやすいな」

「夜のインスタント焼きそばって、なんでこんなに魅力的なんでしょうね」

「それは分かる」

 と思わず俺も言ってしまう。


「ひなた」

 朱音が腕を組む。

「お前、食う気満々だな」

「え、だめですか?」

「……」

 朱音が一瞬だけ俺を見る。

 その視線の意味は分かる。“101号室の夜食を、なぜ当然のように三人分にしようとしている”という意味だ。


「別に一個くらい増やせばいいか」

 俺が言うと、

「わあ、先輩やさしい」

「買い置きまだあったかな」

「棚の下段、右」

 朱音が即答する。


「把握してるんかい」

「食料配置は重要だ」

「そういうの、妙に頼もしいんだよな」


 追加の焼きそばを探していると、またチャイムが鳴った。


 ぴんぽーん。


「嘘だろ」

 俺が言う。

「連鎖型か」

 朱音が言う。

「その言い方ほんとやめろ」


 今度は、開ける前から何となく分かっていた。


「やっぱり」

 と、白沢依子。

「なんでだよ」

「ひなたくんがクッション持って101行くの見えたから」

「そこ観測してんの怖いんだよな」

「だって、あの感じ、絶対長居するやつだと思って」

「正解だけど」

「それで?」

 依子は少し首を傾げる。

「何してるの?」


 言いながら、ふわっと漂ってきたソースの匂いに気づいたらしい。


「……焼きそば?」

「そう」

「夜食?」

「そう」

「いいなあ」

「お前までその反応か」


 依子は穏やかな顔で言う。

「だって、そういうの楽しそう」

「じゃあ入る?」

 思わず俺が聞いてから、

「あ」

 と自分で止まった。


 なんでこんな自然に誘ってるんだ俺は。


 依子は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。


「いいの?」

「いや、その……」

「先輩、今だいぶ自然でしたね」

 ひなたが横から言う。

「お前黙ってろ」

「はい」


 朱音がそこで、だいぶ不服そうに口を開く。


「人数が増えすぎだ」

「でも、焼きそばなら増やしやすくない?」

 依子が言う。

「……」

「鬼塚さん、嫌?」

「嫌とは言っていない」

「じゃあ、いい?」

「……」

「そこ、許可制なんですか?」

 ひなたが楽しそうに聞く。

「違う」

 と朱音。

「だが、この部屋の夜食文化が、急に共有財産化するのは気に食わぬ」

「夜食文化って言うほど蓄積ないだろ」

 俺が言うと、

「ある」

 と、なぜかひなたが真顔で言った。

「101は、何かある感じがある」

「何だその抽象的評価」

「でも分かる」

 依子まで頷く。

「ちょっと寄ったら何か起きそう」

「それ、住人としては複雑なんだが」


 そのとき、さらに廊下の向こうから声がした。


「……何か101だけ明るくね?」


 大友だった。

 いや、もうお前は来るな。

 と思ったが、時すでに遅い。


「お、何これ」

 103号室のドアを開けたばかりの大友が、状況を一瞬で把握した顔になる。

「夜食会?」

「違う」

 俺が即答する。

「じゃあ何」

「焼きそばが増えただけ」

「それを一般には夜食会って言うんだよ」

「みんな一般論持ち出してくるな」

「だって見ろよ」

 大友は101号室の中を覗き込む。

「鬼塚さん、ひなた、白沢さん。もう十分イベントだろ」

「イベントではない」

 朱音が低く言う。

「ただの補給だ」

「そのワードまだ使うのか」

「使う」

「じゃあ俺も入る」

「お前は帰れ」

「ひど」


 結局、気づけば101号室のDKに五人いた。


 テーブルは狭い。

 椅子は足りない。

 だからひなたはクッションを床へ置いて座り、依子は椅子の端へ、朱音はやや不機嫌そうに自分の位置を主張し、大友は最初から“ここ自分の家では?”みたいな顔をしている。


「狭いな」

 と俺が言うと、

「それがいいんですよ」

 ひなたが即答する。

「夜食って、ちょっと狭い方が楽しいです」

「それ、分からなくはない」

 依子が笑う。

「ちゃんと食卓って感じより、ちょっとはみ出してるくらいの方が」

「そうそう」

 大友が乗る。

「文化祭準備の夜みたいな」

「その例え好きだな」

「青春っぽいだろ?」

「お前が言うと急に安っぽくなる」

「ひでえ」


 俺はフライパンで焼きそばを炒めながら、振り返る。


「朱音、皿」

「うむ」

「依子、そこ危ないから少し下がれ」

「はいはい」

「ひなた、勝手に冷蔵庫開けるな」

「麦茶だけです!」

「大友、お前は何もするな」

「扱いひどくない?」

「してほしいことが特にない」


 五人もいるのに、不思議と会話は変に詰まらない。

 誰かが何か言えば、別の誰かが拾う。ひなたが軽く笑って、大友が雑に広げて、依子が静かに整えて、朱音が不満そうな顔でたまに本音を混ぜる。


 この形、いつの間にか少しできてきているんだな、と、フライパンを振りながら思った。


「はい」

 俺が皿を置くと、

「わあ」

 とひなた。

「夜食って感じです」

「夜食だけどな」

「先輩、料理するときちょっと手際いいのずるいですよね」

「なんでずるいんだよ」

「鬼塚さんが張り合う理由、少し分かります」

「お前」

 朱音が即座に反応する。

「余計なことを言うな」

「すみません」

 と言いながら、ひなたは全然反省した顔をしていない。


 依子は焼きそばの皿を受け取りながら、俺を見た。


「ありがとう」

「どういたしまして」

「なんか、こういうの自然だよね」

「何が」

「みんながいるの」

「……」

 言われて、少しだけ考える。


 確かにそうだ。

 最初の頃なら、もっと“何でここに?”感が強かったと思う。

 でも今は、101に誰かが来て、少しだらだらして、食べ物が増えて、会話が増えること自体が、そんなに不自然じゃない。


 それが良いことかどうかは、たぶんまだ答えが出ない。

 でも、悪いとも思っていない。


「前より、集まりやすくなったよな」

 俺が言うと、

「鬼塚さんがいるからじゃないですか?」

 とひなた。

「え?」

「なんか、101に“家感”が増えたというか」

「それは分かる」

 大友が頷く。

「前の恒一の部屋って、ちゃんとしてたけど、ちょっと静かすぎたもんな」

「言い方」

「今は“誰かがいる部屋”感ある」

「……」

 俺は少しだけ気まずくなって、焼きそばを箸で持ち上げた。


 依子はその会話を静かに聞いていたが、不意に言った。


「鬼塚さんがいるの、大きいと思う」

「何だ急に」

 朱音が言う。

「だって、生活の音が増えたでしょ」

 依子は穏やかに答える。

「朝の気配とか、台所の音とか」

「……」

「それって、部屋の空気変わるから」

「……お前」

 朱音が少しだけ眉をひそめた。

「そこまで聞いているのか」

「聞こえるよ」

「怖いな」

 俺が思わず言うと、

「また怖いって」

 依子が少し笑う。

「でも本当だよ」

「まあ、そうだけど」


 朱音は少し黙って、それからぼそっと言った。


「……お前も大概だな」

「何が?」

「隣室なのに、気配が近い」

「それ、褒めてる?」

「褒めていない」

「でも嫌いではない?」

「……」

「鬼塚さん、分かりやすい」

 ひなたが言うと、

「お前は黙って食え」

 と朱音。

「はい」


 大友が笑いながら箸を動かす。


「でもさ、この一階、ほんとバランスおもしれえな」

「何が」

 俺が聞くと、

「鬼塚さんは中から強いし、白沢さんは外から強いし、ひなたは無自覚に乱すし、俺は観測者」

「自分だけ役割きれいに言うな」

「事実だろ」

「違う。お前は騒がしい」

「それも観測の一部だ」

「便利ワード増えたな」


 夜食は、焼きそばだけなのに妙に楽しかった。


 狭いテーブル。

 少しずつ違う食べ方。

 ソースの匂い。

 箸の音。

 誰かが話して、誰かが笑って、誰かが軽く拗ねる。


 そういうの全部が、“何でもないのに少しだけ特別な夜”みたいに感じる。


 食べ終わる頃には、時計はもう十時近かった。


「そろそろ戻るか」

 と俺が言うと、

「ですね」

 ひなたが素直に立ち上がる。

「お邪魔しました」

「クッション忘れるなよ」

「あ、ほんとだ」

「何で最初から持ってきたんだよ」

「なんとなく長居する気がしたので」

「当たってるのが嫌だな」


 大友も立ち上がりながら言う。


「いやー、いい夜だった」

「大げさだな」

「でも分かるだろ?」

「……まあ」

「だろ?」

 大友はにやっとした。

「お前んち、もはや一階の共有ラウンジだろ」

「やめろ」

「いやでもほんと、そういう感じある」

「家賃取るぞ」

「住人から?」

「取らんけど」


 ひなたと大友が先に出ていく。

 残るのは、俺と朱音と依子。


 依子は椅子から立ち上がるとき、少しだけ周りを見渡した。


「なんか」

「何」

 俺が聞くと、

「こういうの、好きかも」

「夜食会?」

「うん」

「会って言うほどじゃないだろ」

「でも」

 依子は少しだけ笑った。

「ただ集まって食べるだけなのに、ちゃんと楽しい」

「それは……」

 俺は少し考えた。

「まあ、分かる」

「でしょ」

「……」

「何その顔」

「いや、お前が素直だなと思って」

「そういう日もあるよ」


 そこで、朱音が小さく言った。


「……次は、もう少しまともなものを出す」

「え?」

 思わず俺が聞き返すと、

「何だ」

 と朱音。

「いや」

「今日の焼きそばでは、補給としては簡素すぎる」

「補給ってまだ言うのか」

「言う」

「でも」

 依子が少しだけ目を細めた。

「今日のでも十分楽しかったよ」

「……」

「鬼塚さんがそういうこと言うの、ちょっと嬉しい」

「なぜだ」

「次があるって感じするから」

「……」

 朱音は返事をしなかった。

 でも、追い出す気もない顔をしている。


 依子が101号室を出て、102号室の前で振り向く。


「おやすみ」

「おやすみ」

 俺が返す。

「鬼塚さんも」

「うむ」


 扉が閉まる。


 101号室の中に静けさが戻る。

 でも、さっきまで人がいた分、その静けさは少しだけあたたかい。


「……何だ」

 朱音が言う。

「いや」

 俺は皿を重ねながら答える。

「ちょっと楽しかったなって」

「そうか」

「お前は?」

「……」

 朱音は一度だけ視線を逸らしてから、小さく言った。


「悪くはない」

「またそれか」

「語彙の安売りはしない」

「はいはい」

「だが」

「だが?」

「……前より、騒がしいのは確かだ」

「嫌か?」

「嫌なら追い返している」

「それもそうか」


 俺は皿を流し台へ運びながら、小さく笑う。


 ハイツ水戸黄門一階、夜食ひとつで騒がしくなる。

 前の俺なら、こういう騒がしさを“落ち着かない”で終わらせていたかもしれない。


 でも今は、それを少しだけ惜しいと思う。

 誰かが帰って、また静かになったあとに、“さっきまで人がいたな”と感じるくらいには。

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