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第19話 隣の同級生は、教室では少し遠くて帰り道では近い

新しい席に慣れる、というのは、案外静かに進む。


 劇的に何かが変わるわけじゃない。

 ただ、見える範囲にいる人間が変わって、聞こえる声の位置が変わって、視界の端に入る仕草が変わる。そういう細かいことの積み重ねで、教室の空気は少しずつ“今の形”になっていく。


 だから、依子が隣の席になって三日目の朝、俺はもう、右側から聞こえるノートを開く音にほとんど驚かなくなっていた。


 それがいいことなのか悪いことなのかは、まだよく分からない。


「おはよう」

 隣から声がした。


 朝の教室。

 まだホームルーム前で、教室全体がざわざわしている中、その声だけは妙に静かだった。


「おはよう」

 俺が返すと、

「今日は早いね」

 と依子。

「ちょっとな」

「鬼塚さん?」

「何で分かるんだよ」

「最近の恒一くんの朝の余裕、だいたい鬼塚さん由来でしょ」

「そういう断定やめろ」

「違う?」

「……まあ、半分くらいは」

「半分なんだ」

「残り半分は俺が頑張った」

「えらいね」

「その言い方、ちょっと子ども扱いっぽいんだよな」

「そう?」

「少し」

「じゃあ」

 依子は少しだけ笑った。

「ちゃんとしてるね」

「何その言い換え」

「気に入らない?」

「いや、まあ」

「じゃあそっちにする」

「何でそんなに柔軟なんだ」

「恒一くん相手だから」

「そういうこと平気で言うなって」


 依子はまた小さく笑って、机の上の教科書を揃えた。


 学校での依子は、基本的に静かだ。

 必要以上に目立たないし、誰にでも同じ温度で接する。だからクラスの中で浮くことはないし、逆に誰かの輪の中心にいるわけでもない。


 でも、隣の席になって分かることもある。


 この人は、授業中にノートを取る字まで丁寧だ。

 シャーペンの持ち方も、消しゴムの置き方も、何かを探すときの手の動きも無駄がない。

 そういう細かいところが全部、静かな性格とつながっている気がした。


 そしてたまに、その静かな所作の合間に、俺の方を見ていることがある。


 ほんの一瞬。

 視線が合う前に逸らされることもあれば、合ったあとで少しだけ笑うこともある。


 そういうのが、前より分かるようになってしまったのが厄介だった。


 ホームルームが終わって一時間目が始まる。


 先生の声。

 ノートをめくる音。

 窓の外の風。


 その全部の中に、依子が隣にいることも、少しずつ“普通”へ変わっていく。

 だが、その“普通”が危ないのだと、俺は何となく思っていた。


 休み時間になると、前の席の男子がすぐ振り返ってきた。


「桐谷、消しゴム貸して」

「自分のどこやったんだよ」

「知らん。昨日まではあった」

「雑だな」

 俺がペンケースを開けると、横から依子が先に消しゴムを差し出した。


「はい」

「あ、白沢さんありがとう」

「ううん」

 男子は素直に受け取って、またすぐ前へ向き直る。


 それを見て、俺は思わず言った。


「……早いな」

「何が?」

 依子が聞く。

「出すの」

「近かったから」

「それだけ?」

「それだけだよ」

「何かもうちょっとある感じの顔で言うな」

「そう見える?」

「見える」

「じゃあ、少しだけ“恒一くんより早く対応できた”って思ったかも」

「張り合うなよ、そこ」

「ちょっとだけ」

「そういうの地味にめんどくさいな」

「でも嫌じゃないでしょ」

「……」

「ほら」

「その言い方、ずるいって」


 依子は笑うだけだった。

 ほんとに、この人は“少しだけ”を使うのがうまい。


 昼休みになると、大友が後ろから机を寄せてきた。


「どう?」

 開口一番それだ。


「何が」

「隣」

「雑だな」

「いや、でもさ。学校の白沢さんって、家のときと違うだろ?」

「……まあ」

「だろ?」

 大友は嬉しそうに言う。

「教室だと静か寄りなのに、帰り道になると距離詰めてくる感じ」

「お前、ほんとよく見てんな」

「オタクの観察力なめるなよ」

「その使い方は絶対間違ってる」

「でも合ってるだろ」

「……」

 否定しづらい。


 依子は昼の教室では、決して俺にべたべたしない。

 席が隣でも、必要以上に話しかけてくるわけじゃない。

 でも、授業が終わって帰り道に入ると、自然に隣へ並んでくる。


 その切り替えが、妙に鮮やかなのだ。


「なあ」

 俺は思わず、弁当を開けながら依子本人に聞いた。

「お前さ」

「うん?」

「学校だとわりと普通なのに、帰り道だと急に近いよな」

「……」

 大友が“言った!”みたいな顔をするのが視界に入った。うるさい。


 依子は少しだけ目を瞬いて、それから困ったようでもなく、ちゃんと考える顔になった。


「そうかな」

「そうだろ」

「うーん」

 依子は箸を持ったまま少しだけ視線を落とした。

「学校だと、学校の距離があるから」

「学校の距離?」

「うん」

「何だそれ」

「教室で、隣の席だからって、あんまり私ばかり話しかけたら変でしょ」

「まあ……」

「みんな見てるし」

「それはそう」

「あと」

 依子はほんの少し笑った。

「鬼塚さんに余計な燃料投下したくない」

「そこ考えてんのか」

「考えるよ」

「偉いな」

「ありがとう」

「いや、そこ褒められて喜ぶのもどうなんだ」

「でも褒められたし」


 大友が吹き出した。


「いやー、強い」

「黙れ」

「でもさ」

 大友は箸を置いて、面白そうに言う。

「帰り道は?」

「帰り道?」

 依子が聞き返す。

「うん」

「何で近くなるんですか、って質問」

 ひなたが、いつの間にか会話に入ってきていた。

「僕もちょっと気になります」

「お前、どこから来た」

「最初からいましたよ」

「気配消すな」

「消してないです」


 依子はそこで、ほんの少しだけ考え込んだ。


 それから、すごく当たり前のことを言うみたいに、静かに答えた。


「学校では、みんながいるから」

「うん」

「でも帰り道は、家に向かう時間でしょ」

「うん」

「だから、少し近くなってもいいかなって」

「……」


 その答えが、妙に真っ直ぐで、俺は少しだけ言葉に詰まった。


「何その顔」

 依子が聞く。

「いや」

「困った?」

「……少し」

「どうして?」

「言い方が自然すぎる」

「本当のことだから」

「それを簡単に言うなって」

「簡単じゃないよ」

 依子は少しだけ視線を逸らした。

「ちゃんと考えて言ってる」

「……」

「だから、ちゃんと受け取って」


 昼の教室の空気の中、その一言だけが妙に近く聞こえた。


 大友が「うわあ」と小さく言って、ひなたは「先輩、今かなり顔に出てます」と楽しそうに笑っている。

 ほんと、誰か助けてほしい。


 だが助けてくれる人間はこの場にはいなかった。


 放課後。


 教室を出るタイミングがたまたま同じになる。

 依子は何も言わずに俺の少し隣を歩き、下駄箱のあたりでようやく口を開く。


「今日、変なこと言った?」

「今日“も”だろ」

「ひどい」

「いや、でも」

 俺は靴を履きながら言う。

「教室でああいうこと言われると、逃げ場ないんだよな」

「帰り道ならよかった?」

「……」

「ほら、そういう顔」

「やめろって」

「でも、少しは合ってるんでしょ」

「……まあ」

「うれしい」


 ほんとに、この人は一歩引くふりをして、ちゃんと一歩前へ来る。


 ハイツへ戻る道を二人で歩く。


 夕方の光。

 住宅街の静けさ。

 部活帰りの生徒とすれ違う音。

 そういうものの中で、依子は学校にいるときより少しだけ柔らかく見えた。


「ねえ」

「何」

「今日、鬼塚さんどうだった?」

「何が」

「朝」

「普通」

「普通、じゃ分からない」

「いや、まあ」

 俺は少し笑った。

「最近ちょっと落ち着いてきた」

「そっか」

「前みたいにすぐ噛みつく感じじゃなくなった」

「うん」

「まあ、ゼロじゃないけど」

「それは知ってる」

「知ってるんだ」

「知ってるよ」

 依子は少しだけ目を細めた。

「でも、鬼塚さんって、本当に嫌ならもっと分かりやすく切ると思うから」

「……」

「今の感じは、嫌いきれてないんだと思う」

「何を」

「私のこと」

「それは……」

「だから、ちょっと安心してる」

「お前、その前向き変換ほんとすごいな」

「だめ?」

「だめっていうか」

「強い?」

「それはかなり」


 依子は少しだけ笑ったあと、真面目な声で言った。


「でも、私もちゃんと考えてるよ」

「何を」

「鬼塚さんのことも」

「……」

「同じ家に帰る人と、隣の部屋に帰る私じゃ、近さの種類が違うから」

「うん」

「だから、同じ戦い方しない方がいいんだろうなって」

「戦い方って言うなよ」

「じゃあ、向き合い方」

「そっちの方が怖いな」

「また怖いって言った」

「だってそうだろ」

「でも、逃げないよ」

 依子は立ち止まらずに言った。

「私は、隣にいるのをやめるつもりないから」

「……」

「教室でも、帰り道でも、家でも」

「お前、それもうだいぶ……」

「うん」

「分かってる」


 分かっているのなら、なおさらたちが悪い。


 ハイツ水戸黄門が見えてくる。

 見慣れた外観。

 101号室と102号室の並び。

 そこへ帰る道のりだけは、依子と歩いているといつも少し短い。


「ほんと、帰り道短くなるな」

 俺がぽつりと言うと、

「でしょ」

 依子は少し笑った。

「だから好き」

「そういうの普通に言うなって」

「でも、本当だし」

「……はいはい」


 ハイツの前で立ち止まる。


 101号室のカーテン越しには、もう明かりがついていた。

 朱音は先に帰っているらしい。


 それを見た瞬間、俺の中に奇妙な安心感が生まれる。

 依子と歩いている帰り道も、短くて悪くない。

 でも、あの明かりが見えるとやっぱりほっとする。


 依子はその視線の先を見て、小さく言った。


「そういうとこなんだろうね」

「何が」

「鬼塚さんが強い理由」

「……」

「帰ったら、もうそこにいる」

「うん」

「私は、隣までは行けるけど、その中までは最初から入ってない」

「……」

「だから、少し羨ましい」

 依子はそう言って、それからすぐに笑った。

「でも、だからって引くわけじゃないけど」


 その言い方が、やっぱりこの人らしい。


 101号室の鍵を開ける。

 ただいま、と言う前に、DKの方から鍋のふたが軽く鳴る音がした。


「ただいま」

 と俺が言うと、

「遅い」

 と、いつもの声が返ってくる。


 その声を聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。


 隣の同級生は、教室では少し遠くて、帰り道では近い。

 その距離の切り替え方がうまいから、たぶん俺は何度も落ち着かなくなる。


 でも、101号室に帰ってきて、DKから朱音の声が飛んでくると、また別の意味で落ち着くのだ。


 それが厄介で、少し面倒で、でも前よりはっきりしてきている。

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