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第18話 同居人の弱音は、たいてい本人が思うより小さい

 その週の金曜日、朱音は帰ってきた瞬間から少し変だった。


 いや、正確に言うなら、変なのはいつも通りなのだ。

 問題は、いつもの“変”とは種類が違うことだった。


「ただいま」

 俺が先に101号室へ戻って、靴を脱ぎながらそう言ったとき、手前の部屋から返ってきたのは、いつもの「遅い」でも「生還したか」でもなかった。


「……おかえり」


 静かすぎた。


 俺は玄関で一回立ち止まった。


「朱音?」

「何だ」

「いや、その」

「何だ」

「今日、普通だな」

「失礼なやつだな」

 手前の部屋の引き戸が少し開いて、朱音が顔だけ出した。

「我とて、毎秒異常言語を発しているわけではない」

「そういう意味じゃなくて」

「ならどういう意味だ」

「元気ない?」

「……」

「その沈黙でだいたい分かるんだよな」

「分かるな」

 と、後ろから声がした。


 振り向くと、103号室の大友が、いつの間にか廊下に立っていた。

 お前どこから湧いた。


「びっくりした」

「いや今帰ってきたところ」

「タイミングが怖い」

「それより鬼塚さん、今日ちょっと静かだな」

「うるさい」

 朱音が即座に返した。

「お前に観測される筋合いはない」

「いや、その返しが鈍いから余計分かるんだって」


 たしかに、いつもならここでもう少し勢いがある。

 今日は切り返しに一拍遅れがある。


「何かあった?」

 俺が聞くと、

「別に何もない」

 朱音はそう言って引き戸をもう少し開けた。

「ただ、多少、外界の対人ノイズが多かっただけだ」

「日本語にすると?」

 大友が聞く。

「学校で疲れたってことだろ」

 俺が答えると、

「お前、ほんと通訳うまくなったな」

「なりたくてなったわけじゃない」


 朱音は不服そうに眉を寄せたが、否定はしなかった。

 そこが図星なんだよな。


「とりあえず」

 俺は鞄を下ろした。

「飯どうする?」

「まだ考えていない」

「珍しいな」

「考える余力がなかった」

 その返答が、いつもよりずっと素直だった。


 大友が少しだけ顔を変える。

 たぶんこいつも“これは茶化しすぎない方がいいやつだ”と察したのだろう。


「じゃ、俺は消えるわ」

 と、珍しく空気を読んで一歩引く。

「何かあったら呼べ」

「お前がそれ言うと妙に軽いんだよな」

「でも言うだけ偉いだろ?」

「まあな」

「鬼塚さんも無理すんなよ」

「……お前に言われると腹が立つ」

「お、ちょっと戻ってきた」

「帰れ」

「はいはい」


 大友が103号室へ消える。

 廊下が少し静かになる。


 俺はDKへ入り、冷蔵庫を開けた。

 昨日の残りの豚肉。豆腐。卵。使いかけのキャベツ。あとは買い置きのうどん。何とかはなる。


「うどんでいいか」

「……」

「朱音?」

「何でもいい」

「それ、一番困るやつ」

「ならば、任せる」

「珍しいな」

「珍しい珍しいと言うな」


 だが、反論の勢いがやっぱり弱い。


 俺は鍋に水を張りながら、ちらりと手前の部屋を見る。

 朱音は制服のまま、床に座って鞄を壁に寄せていた。いつもなら帰るなりまず着替えるか、DKへ出てきて勝手に冷蔵庫を開けるか、何かしら動きがある。今日はそれがない。


「なあ」

 俺は火をつけながら言った。

「今日、なんかあったんだろ」

「……」

「何もない顔じゃない」

「顔で判断するな」

「最近みんなそうしてるから」

「最低だな、お前たちは」

「お前が分かりやすいんだよ」

「……」


 しばらく返事がない。

 鍋の中で小さく泡が立ち始める音だけがする。


 やがて、朱音がぽつりと言った。


「……普通の顔をするのは疲れる」

「え?」

「知らぬ相手ばかりの場所で」

 朱音は床を見たまま続ける。

「妙に無難な受け答えをし、必要以上に目立たぬようにし、しかし完全に消えると今度は周囲が面倒に思う」

「……」

「だから、少しは馴染んでいるように見せねばならぬ」

「うん」

「だが、そこに使う神経が、思ったより多い」

「……そっか」


 そういうことか。


 疲れた、の中身はもっと単純なものだと思っていた。

 授業がだるいとか、クラスがうるさいとか、そういうレベルの話かと。


 でも朱音は、ちゃんと“新しい環境で、知らない人間たちに向けて普通の顔をする”ことそのものに疲れているのだ。


「それ、かなり疲れるやつだな」

 俺が言うと、

「そう言っている」

「いや、でも」

「何だ」

「お前、そういうの苦手そうだし」

「お前、そこまで言うか」

「だって苦手だろ」

「……」

 そこで朱音は少しだけ唇を尖らせた。

「得意ではない」

「ほら」

「だが、できぬわけではない」

「うん」

「ただ」

「ただ?」

「お前の前では、そこまで丁寧に整えなくてよいから楽だ」


 その言い方が、あまりにもまっすぐだったので、俺は少しだけ動きを止めた。


「……」

「何だ」

「いや」

「何だ」

「そういうこと、普通に言うんだなって」

「……言って悪いか」

「悪くはない」

「ならよい」

「でも」

 俺は少し笑った。

「ちょっと嬉しい」

「……」

「何だよ」

「そういうのを」

 朱音はようやく顔を上げた。

「平然と返すな」

「平然じゃないけど」

「平然に見える」

「じゃあ、ちょっと照れてるって言えばいい?」

「言うな」

「注文多いな」

「うるさい」


 でも、その“うるさい”はさっきよりだいぶ弱い。

 少しだけ、本当に楽になったときの声だった。


 うどんを茹でながら、俺は何となく言った。


「じゃあ、食ったらちょっと外出るか?」

「は?」

「買い出し」

「うどんがあるだろう」

「今日はあるけど、明日以降の分が減ってる」

「……」

「ついでにコンビニで甘いもんでも買う?」

「子ども扱いするな」

「してないって」

「している」

「してない」

「している」

「はいはい」


 けれど、朱音は少し考えたあとで、ぼそっと言った。


「……行く」

「うん」

「ただし、補給だ」

「便利ワード」

「黙れ」


 うどんを食べてから、二人で外へ出た。


 春の夜は、冬ほど厳しくない。

 でも、上着がいらないほどではない。101号室から通りへ出ると、住宅街の空気は少しだけ湿っていて、遠くで車の音がした。


 歩き始めてすぐは、二人ともあまりしゃべらなかった。


 気まずいわけじゃない。

 ただ、学校帰りの疲れがそのまま残っていて、会話を始めるまで少し時間が要る感じだ。


 スーパーより少し近いコンビニを目指しながら、俺は横目で朱音を見る。


 制服の上にカーディガン、その上から軽いコート。髪は学校帰りのままで少しだけ乱れていて、いつもより目元の力が弱い。


「……そんなに見るな」

 朱音が言った。

「見てない」

「見ていた」

「ちょっとだけ」

「見ていたではないか」

「いや、まあ」

 俺は肩をすくめた。

「疲れてんなと思って」

「……」

「図星?」

「……やかましい」


 それで終わるかと思ったが、朱音は歩きながら少しだけ続けた。


「学校という場所は」

「うん」

「意外と、皆、普通の顔をしている」

「まあ、そうだな」

「だが、あれは全員、本当に“普通”なのか?」

「何その哲学」

「そうではない」

 朱音は少しだけ眉を寄せた。

「ただ、皆それぞれ何かを隠しているように見える」

「……」

「我だけが、異質な仮面をかぶっているわけではないのかもしれぬ」

「うん」

「だが、それでも、皆の“普通”と我の“普通”は、やはり少し違う」

「……そうかもな」

「その差を埋めるのが面倒だ」

「分かる気する」

「お前は、わりと溶け込んでいる」

「そうか?」

「そうだ」

 朱音はちらりとこっちを見た。

「お前は、最初から“普通そうに見える側”だ」

「何だよ、その微妙な褒め方」

「褒めてはいない」

「じゃあ何」

「事実だ」

「便利だな、その言葉」

「お前もよく使う」


 コンビニの明かりが見えてくる。

 夜の住宅街で、あの光だけは妙に現実的だ。


 自動ドアが開いて、中へ入る。

 暖房の空気。並んだ棚。雑誌コーナー。冷たい飲み物のケース。


「アイス」

 と、朱音が小さく言った。

「さっき子ども扱いするなって言ったのに」

「これは補給だ」

「便利ワード二回目」

「今日は特に必要だ」

「そこまで言うなら買えよ」


 朱音は真顔でアイスケースを見つめる。

 だが、そこで妙に長く迷っていた。


「何」

「多い」

「選べるだろ」

「選択肢が多い」

「分かるけど」

「こういうとき、お前は早い」

「まあ、買うもの決まってるし」

「それができるのはずるい」

「何でだよ」

「疲れているとき、選択は少ない方がよい」

「……」

 俺は少しだけ考えてから、よく買うやつを一つ手に取って見せた。

「これ」

「何だ」

「無難」

「雑だな」

「でも、今のお前にはちょうどよさそう」

「……」

「嫌なら別のにしろ」

「……それでよい」


 少しだけ悔しそうな顔で受け取る。

 でも、その“決めてもらって少し楽になる感じ”も、たぶん今は必要なんだろう。


 会計を済ませ、コンビニ前の明かりの下で少しだけ立ち止まる。


 朱音は袋からアイスを出して、包装を開けながら言った。


「お前」

「何」

「こういうときだけ、妙に手際がよいな」

「一人暮らししてるとそうなる」

「……」

「何だ」

「少し、ずるい」

「何が」

「お前は、もうこちら側の生活に慣れている」

「うん」

「我だけが、毎日新しいことに少しずつ慣れている」

「まあ、そうかも」

「だから」

 朱音はアイスをひと口かじって、少しだけ目を細めた。

「たまに、お前が平然としていると腹が立つ」

「それ、めちゃくちゃ理不尽だな」

「自覚はある」

「あるんかい」

「ある」

「じゃあ直せよ」

「直らぬ」

「駄目じゃん」

「駄目でもそうなのだ」


 その言い方に、俺は思わず笑ってしまった。


「何だ」

「いや、ようやくちょっと元気出てきたなって」

「うるさい」

「でもさ」

 俺はコンビニの壁に軽くもたれた。

「別に、慣れてる側が偉いわけでもないだろ」

「……」

「お前は今こっち来たばっかで、学校も部屋も人間関係も新しい」

「うん」

「疲れて当然だし、普通の顔してんのしんどいなら、家くらい雑でいいじゃん」

「……」

「俺の前でくらい」

 そこまで言ったところで、朱音がアイスを持つ手を少しだけ止めた。


「……お前は」

「何」

「本当に、そういうときだけ自然だな」

「だから何だよ」

「ずるい」

「またそれか」

「まただ」

「そんなにか?」

「そんなにだ」

 朱音は小さく息を吐いた。

「我が頑張って普通の顔をしている場所で、お前は普通にそこにいる」

「……」

「だが、家へ戻れば、お前は我の“雑”を許す」

「許すっていうか」

「だから、楽だ」

「……そっか」


 少し間が空いた。


 言葉にすると、それは思っていたより重かった。

 でも重いからこそ、ちゃんと受け取らないといけない気がした。


「じゃあ」

 俺は言った。

「これからも雑でいろよ」

「命令するな」

「提案」

「……」

「却下?」

「……保留だ」

「便利ワード増えるなあ」

「うるさい」


 でも、その返し方には、少しだけいつもの調子が戻っていた。


 ハイツ水戸黄門へ帰る道は、行きより少しだけ短く感じた。


 話したからか、歩き慣れているからか、それとも、朱音の肩の力が少し抜けたからか。たぶんその全部だ。


 101号室へ戻る。

 鍵を開けて、中へ入る。


 夜のDKは静かで、でも静かすぎない。

 手前の部屋には朱音の荷物があり、奥には俺の机がある。壁の向こうには依子がいて、103号室と104号室には大友とひなたがいる。


 このアパートの一階には、最近ちゃんと“人の気配”がある。


「恒一」

 と、靴を脱ぎながら朱音が言う。

「何」

「……今日は、悪くなかった」

「何が」

「補給だ」

「言い換え下手だな」

「うるさい」

「でも、よかったよ」

「……何がだ」

「お前がちょっと楽そうになったの」

「……」

「そういう顔するなって言うかもだけど」

「言う」

「でも本当だから」

「……」

「何だよ」

「それを」

 朱音は少しだけ頬を赤くして言った。

「毎回、ちゃんと口に出すな」

「駄目?」

「駄目ではない」

「じゃあいいじゃん」

「よくない」

「どっちだよ」

「……面倒だ」

「お前がな」


 そのやり取りが、やけに自然だった。


 同居人の弱音は、たいてい本人が思うより小さい。

 でも、そういう小さな声をちゃんと拾えるようになってきたこと自体が、たぶん今の生活の変化なんだろう。

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