第17話 新学期の席替えは、隣人より厄介なことがある
新学期というのは、始まった瞬間より、二日目とか三日目くらいからじわじわ本気を出してくる。
初日はまだ「始まりました」という顔をしているだけだ。
提出物があって、教科書の確認があって、担任がいかにも年度初めっぽい話をする。こっちもまだ“新学期モード”の皮をかぶっているだけで済む。
でも二日目、三日目になると、そこへ現実が混ざり始める。
時間割。
係決め。
席替え。
クラスの空気の固定。
“今年はこういう年です”という見えない決定事項が、少しずつ教室の中に沈殿していくのだ。
そして、その日の一時間目の終わりに、担任は何でもない顔で言った。
「じゃあ次、席替えするぞー」
教室のあちこちから、えーとか、うわーとか、妙に生々しい声が上がる。
俺はというと、頬杖をついたまま窓の外を見た。
またか、という感じだ。別に席に強いこだわりがあるわけじゃない。ただ、こういうイベントで人間関係の空気が一段変わるのが少し面倒なだけだ。
「恒一」
と、後ろから声が飛んできた。
「お前、無の顔してるな」
大友だ。
「無にもなるだろ」
「いやでも、席替えって大事だぞ」
「何が」
「地雷原の配置が変わるかもしれない」
「やめろその表現」
「だって事実じゃん」
「お前、いつか普通に刺されるぞ」
「誰に?」
「複数候補がいるのが怖いんだよ」
俺がそう返すと、大友は机に肘をついてにやっとした。
「でもさ」
「何」
「白沢さんと離れるの、ちょっと嫌なんじゃない?」
「何でそうなる」
「最近普通に帰ってるじゃん、一緒に」
「帰る方向が同じだからだよ」
「はいはい」
「何だその“分かってます”みたいな顔」
「実際、分かってるから」
「うるさい」
大友はこういうときだけ妙に勘がいい。
いや、勘というより、こっちの反応を見るのが上手いのかもしれない。
ちらりと前を見る。
依子は少し斜め前の席で、担任が配っているくじ引き用の紙を受け取っていた。いつも通り静かで、いつも通りきちんとしている。学校の中では本当に“物静かな同級生”という顔しかしない。
そのくせ、あの帰り道の顔も、隣室の顔も、もう知ってしまっている。
だからこそ、席替えひとつでも少しだけ意識してしまう自分がいて、そこがちょっと癪だった。
「桐谷ー」
担任が前から声を飛ばす。
「お前も引けー」
「はいはい」
前へ出てくじを引く。
数字は十四。
微妙だ。
良いのか悪いのか分からない。席替えの数字なんて、結局どこになるか見るまで意味がない。
黒板に貼られた座席表を見ながら、自分の新しい席を探す。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「何番?」
と、大友が聞く。
「十四」
「どこ?」
「窓際の後ろから二番目」
「お、いいじゃん」
「まあな」
「で、周りは?」
言われて確認する。
前は、クラスでもよくしゃべる男子。
斜め前は女子二人組。
横は――。
「……」
「何だよ」
「横、白沢」
「は?」
大友が素で振り返った。
「マジで?」
「マジだよ」
「うわ」
「うわ、って何だ」
「いや、運命力強くない?」
「そういう言い方ほんとやめろ」
教室のざわめきの中、依子も自分の席を確認したらしい。
少しだけこちらを見て、目が合う。
そのあと、ほんのわずかに笑った。
その程度の変化なのに、妙に落ち着かない。
「お前、今ちょっと顔変わった」
大友が即座に言う。
「何でいちいち見てんだよ」
「そりゃ見るだろ、この展開」
「展開扱いすんな」
「でも白沢さんの隣、だいぶ静かに死ぬタイプの席だな」
「どういう意味だよ」
「圧がすごそう」
「本人の前でそれ言ったら終わるぞ」
「だから今しか言わねえよ」
席の移動が始まる。机を引く音、椅子を持つ音、誰それと離れたくないだの、こっちの方が見やすいだの、いかにも高校の教室らしい雑音が一気に増えた。
俺も鞄を持って新しい席へ移る。
窓際。
まあ、悪くない。
外が見えるし、少しだけ落ち着く。
ただ、その隣に依子が来るという事実だけは、落ち着くと言っていいのか微妙だった。
「よろしく」
と、依子が自然に言う。
「……ああ」
と俺が返すと、
「何、その反応」
と依子。
「いや、普通」
「普通じゃないよ」
「そうか?」
「少なくとも、ちょっとだけ困ってる顔」
「またそれか」
「まただね」
依子は少しだけ笑った。
「そんなに隣いや?」
「いやっていうか」
俺は椅子を引いて座る。
「学校でまで隣来るのか、って思っただけ」
「それ、ちょっとひどくない?」
「だって家帰ったら隣だぞ」
「うん」
「学校でも隣なの、近すぎないか」
「でも、席替えってそういうものじゃない?」
「そうだけど」
「それに」
依子は自分の机を整えながら、少しだけ声を落とした。
「私、ちょっとうれしい」
「……」
「そういう顔しないで」
「どんな顔だよ」
「“そういうことさらっと言うなよ”って顔」
「合ってる」
「だろうね」
その返し方まで含めて、最近ほんとにこの人は強い。
ホームルームが終わり、授業が始まる。
席が変わっただけなのに、教室全体の空気が少し違う。見える範囲にいる人が変わるだけで、教室というのはあんなに別物になるのかと毎回思う。
隣から、ノートを開く音がする。
シャーペンの芯を出す小さな音。
ページをめくる音。
依子の所作は、学校だと本当に静かだ。
その静けさに、帰り道や玄関前での少し柔らかい声が重なる。
最近の俺の頭の中では、その二つがちゃんと同じ人物としてつながっている。それが、前までよりずっと厄介だった。
二時間目の終わり。
休み時間に入った途端、前の席の男子が振り返って言った。
「桐谷、お前この席よくない?」
「何が」
「窓側だし、白沢さん隣だし」
「お前までそういうこと言うのか」
「いや、クラスの男子全員ちょっと思ってるだろ」
「そういうこと本人いる前で言うな」
と言いながら俺が隣を見ると、依子は普通にノートを片づけていた。
「気にしなくていいよ」
と、依子。
「こういうの慣れてるし」
「慣れてるのもそれはそれでどうなんだ」
「どうなんだろうね」
依子は少しだけ首を傾げる。
「でも、私は別に、恒一くんが隣で困ってるならそっちの方が気になる」
「……」
「困ってる?」
「お前、そうやって毎回確認するよな」
「だって、聞かないと分からないときあるから」
「まあ、そうだけど」
「で?」
「……困ってはない」
「ならよかった」
依子は本当に少しだけ笑った。
「じゃあ、隣でいる」
「その言い方だと、選択してるみたいでちょっと怖いんだよな」
「選べるなら、わりと選んでるかも」
「やめろ」
「冗談」
「半分本気だろ」
「半分だけ」
「余計怖いわ」
そこへ、大友が横から割り込んできた。
「いやー、見てると分かるわ」
「何が」
「白沢さん、静かに押すのうまい」
「本人の前で言うなって」
「大丈夫」
と依子。
「否定しづらいから」
「自覚あるんかい!」
「少しだけ」
大友が吹き出す。
俺は頭を抱えたくなる。
昼休み、席が近くなったせいで、依子と話す機会は自然に増えた。
弁当を机に出したときもそうだ。
「今日も鬼塚さん?」
と依子が聞く。
「そう」
「すごいね」
「最近それしか言わないな」
「だって本当にすごいから」
依子は俺の弁当箱を見て、少しだけ目を細めた。
「今日、昨日よりきれい」
「観察眼が細かい」
「うん」
「うん、じゃないんだよ」
そこへ大友が自分の席から身を乗り出す。
「鬼塚さん、日に日に攻略精度上がってるよな」
「ゲームみたいに言うな」
「でも実際そうだろ」
「朝飯、弁当、帰宅対応。生活導線全部押さえに来てる」
「お前ほんと嫌な言い方するな」
「事実じゃん」
「……」
そこで依子が、小さく口を挟んだ。
「でも」
「うん?」
と大友。
「それ、鬼塚さんにしかできないことだよね」
「……」
「え?」
俺が思わず依子を見る。
依子は弁当箱のふたを指で押さえながら、ゆっくり続けた。
「私は、たぶんそういう近さでは勝てないから」
「白沢」
「だから、いいなって思う」
そう言って依子は少しだけ笑った。
「うらやましいよ」
それは冗談みたいな顔で言うには、少しだけ真っ直ぐすぎた。
大友が一瞬だけ黙る。
俺も返事に困る。
依子はその空気をわざと作ったのか、たまたまなのか分からない。
でも結果として、その一言はちゃんと残る。
「……お前」
俺がようやく言葉を出す。
「そういうこと、普通に言うよな」
「言わない方がよかった?」
「よくないとかじゃなくて」
「うん」
「受ける側が困る」
「そうだろうね」
依子は小さく笑った。
「でも、本当にそう思ったから」
昼休みの教室のざわめきの中、その静かな一言だけが妙に近く聞こえた。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、少し離れたところから朱音の声が聞こえた。
「恒一」
「お」
俺が顔を上げると、朱音が一年の校舎側から歩いてくるところだった。今日は少し早く終わったらしい。
「どうした」
「どうした、ではない」
「何が」
「お前、今日の席替え」
「……」
「なぜ黙る」
「いや、誰情報だよ」
「情報は入る」
「怖いな」
「答えろ」
そこへ、タイミング悪く依子も下駄箱の列から出てきた。
「あ」
と、依子。
「あー」
と、俺。
そして、
「……」
と、朱音。
空気がだいぶ分かりやすく張る。
「鬼塚さん」
依子が先に挨拶した。
「今日、早いね」
「……お前もな」
「うん。ちょうど帰るところ」
「そうか」
その“そうか”は、だいぶ低かった。
「何だよ」
俺が朱音に聞くと、
「別に」
と返ってくる。
「お前が妙に黙るな」
「黙ってない」
「黙ってる」
「黙ってない」
「はいはい」
朱音はそこで、依子を見た。
「席替えをしたそうだな」
「うん」
依子は穏やかに頷く。
「したよ」
「……」
「鬼塚さん、聞いてるんだね」
「必要な情報は把握する」
「必要なんだ」
「……」
「そこ拾うな」
俺が思わず言うと、
依子が少しだけ笑った。
「で」
朱音が俺へ向き直る。
「どこだ」
「窓際」
「誰の隣だ」
「……」
「おい」
「そういう聞き方するなよ」
「ならば、どういう聞き方ならよい」
「普通に聞け」
「普通とは何だ」
「もういいよ」
俺はため息をついた。
「白沢の隣」
「……」
「ほら」
依子が言う。
「ちゃんと答えた」
「お前は黙ってろ」
「ひどい」
朱音は数秒、完全に黙っていた。
そのあと、いかにも不本意そうに言う。
「……厄介だな」
「何が」
「席配置だ」
「俺の意志じゃないだろ」
「だが結果として厄介だ」
「そこは否定しないんだ」
「しない」
依子は、その会話を少しだけおかしそうに聞いていた。
でも、その目の奥にあるものは、ただ面白がっているだけではない気がした。
「鬼塚さん」
依子が言う。
「そんなに嫌?」
「嫌とは言っていない」
「でも、厄介なんだ」
「厄介だ」
「どうして?」
「……」
朱音は少しだけ迷って、それから言った。
「お前は、静かに人の近くへ入る」
「うん」
「学校までそれをやると、面倒だ」
「面倒?」
「生活圏の分離が曖昧になる」
「……」
「我の理解が追いつかぬ」
最後の一言だけ、少しだけ小さかった。
その言い方に、依子は一瞬だけ目を細めた。
「そっか」
と、依子。
「じゃあ、ちょっと気をつける」
「え」
今度は俺が声を出していた。
朱音も少し驚いた顔をする。
「そんな顔しなくても」
依子は苦笑した。
「鬼塚さんが本気で嫌そうなら、少しは考えるよ」
「……」
「私、別に困らせたいわけじゃないし」
「……」
「ただ」
依子はそこで少しだけ視線を下ろして、すぐに戻した。
「近くにいたいとは思ってるけど」
それを、学校の下駄箱前で、さらっと言うのか。
俺は返事に困り、朱音は言葉を失ったらしく、しばらく誰も何も言わなかった。
結局、そのあと三人でなんとなく同じ方向へ歩き始めた。
妙な沈黙があったが、完全に気まずいわけではない。
その“完全には壊れていない感じ”が、むしろ前より厄介だった。
校門を出て少ししたところで、朱音が唐突に言う。
「……だが」
「何」
と依子。
「完全に引く必要はない」
「は?」
今度は俺が声を出した。
「お前、どっちなんだよ」
「うるさい」
朱音はこっちを睨む。
「我は、ただ」
「ただ?」
「お前が、あまりにも自然にそこへいるのが面白くないだけだ」
「それ、十分本音だろ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「はいはい」
依子はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
「鬼塚さん、ちゃんと教えてくれてありがとう」
「……礼を言われる筋合いはない」
「でも、うれしいよ」
「何がだ」
「言ってくれたから」
「……」
「何も言わないで嫌われるより、ずっといい」
「……お前は、本当にそういうやつだな」
「そういうやつだよ」
依子は平然と言う。
「鬼塚さんこそ、ほんとはちゃんと言ってくれる人だと思ってた」
「……」
「だから、思った通りだった」
「……そうか」
その“そうか”は、少しだけ負けた顔に近かった。
でも、完全に嫌な負け方ではないようにも見える。
ハイツ水戸黄門が見えてくる。
101号室、102号室、その並び。
学校の席替えひとつでここまで空気が動くんだから、本当に面倒な話だと思う。
「……席替えって、隣人より厄介かもな」
俺が思わず呟くと、
依子が笑った。
「それ、タイトルみたい」
「お前もうるさい」
「でも、ちょっと分かる」
依子はそう言って、少しだけ楽しそうに言った。
「学校の近さと、家の近さって、重なると逃げ場なくなるし」
「お前、そこまで自覚あるのか」
「あるよ」
「怖いな」
「また怖いって言った」
「だってそうだろ」
「でも」
依子は立ち止まって、俺を見た。
「私はちょっと、うれしい」
101号室の前で、朱音がそれを聞いている。
依子も、それを分かった上で言っている。
静かな嫉妬も、うるさい独占欲も、まだ終わっていない。
むしろ、学校まで巻き込んで、少しずつ広がり始めている。
新学期の席替えは、隣人より厄介なことがある。
少なくとも、今の俺にとってはそうだった。




