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第16話 このボロアパートで、春はちゃんと始まってしまった

 四月の最初の朝は、妙に明るかった。


 まだ寒い。

 でも、寒さの質が違う。二月の頃みたいに肌を刺す感じではなくて、少しだけ名残惜しそうに残っているだけの冷たさだ。窓の外の光も白くはなく、ちゃんと色を持っている。


 春だな、と、ようやく素直に思えた。


 目を覚ましたとき、まず聞こえたのは、手前の部屋で何かが擦れる音だった。

 引き戸が半分ほど開いていて、その向こうで朱音が制服の襟元を整えている気配がする。最近は起きる時間がだいぶ安定してきたらしい。最初の頃みたいに、起きるだけで妙な儀式みたいな空気を出すことも減った。


 俺は布団の上でしばらく天井を見て、それからゆっくり起き上がった。


「恒一」

 引き戸の向こうから声が飛ぶ。

「起床済みなら返答せよ」

「起きてる」

「ならば早く出てこい」

「朝一のそれはもう様式美だな」

「何だ、その言い方は」

「最近ちょっと思ってるだけ」

「余計な分析をするな」

「してないしてない」


 そう答えながらDKへ出る。


 テーブルの上には、すでに二つの茶碗と味噌汁の椀。炊飯器の保温ランプ。流し台の横には、朱音が使ったらしい包丁とまな板が軽く水に浸けられている。


 ごく普通の朝だ。


 でも、その“ごく普通”が、少し前までこの部屋にはなかった。


「おはよう」

 俺が言うと、

「遅い」

 と、朱音が返す。

「いや、おはようの返事ひどくないか?」

「時間は有限だ」

「会話も有限か?」

「お前との朝の会話に無駄が多いだけだ」

「朝から辛辣だな」

「通常運転だ」

「そこは否定しないんだ」


 朱音は今日はいつもの紺のエプロンではなく、制服の上にカーディガンを羽織っただけだった。たぶん最低限の朝食だけ作って、あとは出る準備を優先したのだろう。それでもちゃんと味噌汁があるあたりが、最近のこいつらしい。


「今日は何」

「豆腐とねぎ」

「安定志向だな」

「新学期初日だ」

「初日って言うとちょっと緊張するな」

「お前がか」

「お前もだろ」

「……」

「何だよ」

「そういうところだけ、妙に勘がよい」

「付き合い長いからな」


 そう返したあと、少しだけ沈黙が落ちた。


 でも気まずくはない。

 その沈黙の中にも、椀を置く音とか、炊飯器を閉じる音とか、茶碗にご飯をよそう音とか、ちゃんと“生活”が流れている。


 俺は味噌汁を飲みながら、窓の外を見た。

 一階の前の狭い通路。古びた外壁。斜めに差し込む朝の光。ボロいことに変わりはないのに、今日はなぜか全部が少しだけ明るく見える。


「何だ」

 朱音が聞く。

「いや」

 俺は椀を置いた。

「春だなって」

「遅い」

「そこまで?」

「世間はとっくにそう認識している」

「お前の基準、たまに厳しすぎるんだよ」

「お前が鈍い」

「はいはい」


 だが、その会話のあとで朱音も少しだけ窓の方を見た。


「……まあ」

 と、小さく言う。

「今日は、そうかもしれぬ」

「お」

「何だ」

「お前が素直」

「気のせいだ」

「すぐ戻るな」

「戻っていない」

「戻ってるって」

「うるさい」


 でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいるのは見えた。


 朝食を終えて、二人で玄関を出る。


 廊下にはすでに人の気配があった。

 103号室のドアが開く音。

 104号室からひなたの「おはようございます」が飛んでくる。

 階段の上では、誰かが部屋を出た足音がしている。


 前はこの時間、俺一人の靴音しかなかった。

 今は違う。


「おはよう地雷原」

 と、大友が言った。

「新学期おめでとうございます」

 と、ひなたが続く。


「もうその呼び方やめろ」

 俺が言うと、

「いやでも定着しただろ」

 と大友。

「この一階の空気を総称するには便利なんだよ」

「便利を理由に定着させるな」

「便利ワードは使えるうちに使う」

「朱音の悪い影響受けてるぞ」

「それは困る」

 ひなたが真面目な顔で言って、次の瞬間には自分で笑った。


 そのとき、102号室のドアが開いた。


「おはよう」

 白沢依子が出てくる。


 相変わらず静かで、相変わらずきちんとしている。

 ただ、前より少しだけ“隣人”の顔が自然になった気がした。朝の挨拶ひとつにも、もう変な緊張がない。


「おはよう」

 俺が返すと、

「新学期だね」

 と依子。

「だな」

「何か、ちゃんと始まる感じする」

「今までは?」

「今までも始まってたけど」

 依子は少しだけ笑った。

「今日は“始まったあと”って感じ」

「何だその言い方」

「分かるでしょ?」

「……まあ」

 分からないこともない。


 朱音はその会話を黙って聞いていたが、不意に口を挟んだ。


「我は一年の校舎へ向かう」

「誰も止めてないだろ」

「確認だ」

「何の」

「行動予定の共有」

「便利な言い換えだな」

「必要だ」


 でも、それも最近は分かってきた。

 朱音は“言わなくてもいいこと”をわざわざ言うことで、自分の存在を生活の中に固定しようとしているのだ。昔からそういうところがある。


「鬼塚さん」

 依子が言う。

「新学期、頑張ってね」

「……」

「何だその顔」

 俺が言うと、

 朱音は少しだけ眉をひそめた。

「急に普通のことを言われると対応に困る」

「それ、だいぶ失礼だぞ」

「鬼塚さんらしいけど」

 依子が笑う。

「でも、ほんとに。頑張って」

「……うむ」

 朱音は少しだけ視線を逸らした。

「お前も」

「ありがとう」

 そのやり取りが、前よりだいぶ自然だった。


 学校へ向かう道で、俺はふと気づく。


 春は季節だけじゃなく、人間関係にも来るのかもしれない。


 何かが劇的に変わるわけじゃない。

 でも、昨日まで少しだけぎこちなかったものが、今日は少しだけ自然に見える。そういう変化だ。


 新学期初日の学校は、当然ながら落ち着かなかった。


 新しいクラス表を見に行くやつ。

 先生の異動の話。

 教科書販売の確認。

 去年と同じ教室なのに、空気だけは“年度が変わった”顔をしている。


 俺は自分の席に座って、配られたプリントをなんとなく整えながら、窓の外を見た。

 桜はまだ本格的ではない。

 でも枝先が、もう冬のままではなかった。


「恒一」

 と、大友が横から声をかける。

「何」

「お前、今日ちょっと機嫌よくない?」

「そんなことない」

「あるだろ」

「ないって」

「いや、ある」

「何を根拠に」

「顔」

「またそれか」

「最近のお前、全部顔に出る」

「そんなに?」

「そんなに」

 それを言ったのは、いつの間にか近くに来ていた依子だった。


「お前まで乗るなよ」

「乗ってないよ」

「乗ってる」

「でも、ちょっとだけ分かる」

 依子は俺の机の端に手をついて、少しだけ身をかがめた。

「今日は、いつもよりちゃんと“帰る場所がある人”の顔してる」

「……」

「何その言い方」

「分からない?」

「分からなくはないけど、朝から刺さるな」

「刺さった?」

「ちょっと」

「よかった」

「何でだよ」

「だって、私もそう思ったから」


 そこまで言われると、何も言い返せなくなる。


 帰る場所がある。


 前も部屋はあった。

 鍵もあった。

 家賃だって払っていた。


 でも今の101号室は、前より明確に“帰る場所”だ。

 そこに人の気配があるからか、ただの箱ではなくなってきたからか。たぶん、その両方だ。


 放課後は、大きな事件もなく終わった。


 去年までなら、新学期初日なんてただ疲れるだけだったと思う。

 でも今日は少し違う。疲れはあるのに、どこか気持ちが軽い。


 校門を出て、住宅街へ向かう。


 結局、帰り道はまた依子と一緒になった。

 それがもう自然すぎて、「一緒に帰る?」の確認すら最初にしなくなっていたことに、途中で気づいて少しだけ笑った。


「何?」

 依子が聞く。

「いや、最近お前と帰るの普通になったなって」

「うん」

「そこ、驚かないんだ」

「だってうれしいし」

「そういう返しをさらっとするな」

「さらっとじゃないよ」

「じゃあ何」

「ちゃんと、言ってる」

「……」

「だから、ちゃんと受け取って」

「重いな」

「そうかな」

「少し」

「でも、嫌じゃないでしょ?」

「……」

 俺は返事に詰まる。

「そういうとこだぞ」

「否定しないんだ」

「否定できるタイミングくれよ」

「じゃあ今」

「いや今も無理だろ」

 依子は笑った。

 この人は、最近ますます楽しそうだ。


 ハイツ水戸黄門の前に着くと、やっぱり少しだけほっとする。


 古い外壁。

 見慣れた一階の並び。

 101号室のドア。

 102号室のドア。


 全部そのままなのに、前よりずっと意味がある。


「じゃあ」

 依子が言う。

「また後で」

「後で?」

「隣だし」

「便利ワードだな」

「便利だよ」

「ほんとにそれで押し切る気なんだ」

「押し切れてるでしょ」

「……まあ」


 依子が102号室に入る。

 俺はそのまま101号室の鍵を開けた。


「ただいま」

 と声をかけると、

「遅い」

 と返ってくる。


 その返事が、今日はやけにしっくり来た。


 DKには朱音がいた。エプロン姿で、コンロの前に立っている。鍋からは湯気が上がり、テーブルにはすでに皿が二つ並んでいた。


「今日も早いな」

 俺が言うと、

「新学期初日だ」

 と朱音。

「多少は余裕を持つ」

「偉いな」

「当然だ」

「そういうとこ最近ちょっと好きだわ」

「……」

 朱音が、ぴたりと動きを止めた。

「お前」

「何」

「軽く言うな」

「またそれか」

「まただ」

「でも本音だし」

「……本当に、お前は」


 最後まで言わずに、朱音は視線を逸らした。

 でも、その頬が少しだけ赤い。


 俺は鞄を置いて、流し台の横へ立つ。


「手伝う?」

「今日はよい」

「珍しいな」

「初日くらいは、我が最後までやる」

「意地だな」

「そうだ」

「言い切るのかよ」

「言い切る」


 それが妙におかしくて、俺は少し笑う。


 鍋の中身を覗くと、豚汁だった。

 春が来たとか言いながら、食卓はまだ完全に冬の名残を引きずっている。でも、そういうのもたぶん今の時期らしい。


 食卓につき、湯気の向こうで朱音が言う。


「恒一」

「何」

「……新学期、どうだった」

「普通」

「雑だな」

「お前こそ、どうだった」

「普通だ」

「お前も雑だろ」

「質問の質を合わせた」

「変なところで律儀だな」


 少し黙って、それから俺は聞いた。


「でも、前よりは慣れたか?」

「……」

 朱音は箸先で豆腐をつついてから、小さく答えた。

「少しは」

「そっか」

「お前は」

「何が」

「この生活だ」

「……」

 俺は少し考えてから、正直に言う。


「たぶん、もう前には戻れないと思う」

「……」

「静かな一人暮らしには」

「嫌か」

「いや」

 俺は首を振った。

「嫌じゃない」

「そうか」

「うん」

「なら、よい」


 そのやり取りだけで、今日の夕飯は妙に十分だった気がする。


 食後、風呂の順番を決めて、食器を洗って、それぞれの部屋へ引っ込む。

 でも寝る前に、俺はもう一度だけDKへ出た。


 水を飲むため、というのは半分本当で、半分は、この部屋の夜の空気を少し見たかったのかもしれない。


 流し台に並んだ食器。

 椅子の背にかかった朱音のカーディガン。

 半分だけ開いた手前の部屋の引き戸。

 壁の向こうの102号室から、かすかに何か動く気配。

 その向こう、廊下の先では大友が遅く帰ってきたらしい足音。

 さらに遠く、階段の上では真琴さんが誰かと電話している声がうっすら聞こえる。


 全部、小さな音だ。

 でも、そのどれもが“人が暮らしている”音だった。


 前の一人暮らしにはなかったもの。

 でも、今の俺にはもう、なくていいとも思えないもの。


「……このボロアパートで、春はちゃんと始まってしまったんだな」


 そう呟いて、俺は少しだけ笑った。


 大げさかもしれない。

 でも本当にそうだった。


 ボロい。名前もださい。水回りだけ妙に綺麗で、廊下は古くて、階段のきしみも少し気になる。

 だけど、ここには人がいて、声があって、生活があって、俺の帰る場所がある。


 春はもう、とっくに始まっていたのかもしれない。

 俺が気づくのが遅かっただけで。

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