第15話 ただいまと言う相手がいるのは、たぶん少しだけ幸せだ
次の日の朝、俺は珍しく目覚ましより先に起きた。
起きた、というより、浅いところで何度か目が覚めて、そのたびにまた眠って、最後には諦めて布団を出た、という感じに近い。
理由は分かっている。
昨日の玄関前の空気が、まだ頭のどこかに残っているからだ。
白沢依子が、あんなふうに言葉にするとは思っていなかった。
朱音が、それにちゃんと返すとも思っていなかった。
今までだって分かっていたはずだ。
依子の“近さ”も、朱音の“独占欲”も、ただの親切や、ただの身内意識だけでは片づかない。
でも、分かっていることと、本人の口から聞くことは、やっぱり違う。
「……面倒だなあ」
布団の上で小さく呟いてから、俺は髪をかき上げた。
面倒。
でも、嫌ではない。
そこがたぶん、一番面倒なんだと思う。
引き戸を開けてDKへ出ると、すでに朱音が起きていた。
ただし今日は、流し台に立ってはいなかった。
テーブルの自分の席に座って、マグカップを両手で包むみたいに持っている。湯気は立っているが、本人の顔色はいつもより少し静かだ。
「……おはよう」
俺が言うと、
「おはよう」
と返ってきた。
普通だ。
いや、普通すぎる。
こいつが朝一番に“遅い”ではなく“おはよう”を返してくるのは、むしろ普通じゃない。
「どうした」
俺が思わず聞くと、
「何がだ」
「いや、今日は命令口調じゃないなと思って」
「毎日毎回そうだと決めつけるな」
「いや、でも」
「うるさい。朝から会話の観察をするな」
言葉だけ聞けばいつもの朱音だ。
でも、少しだけ力が弱い。
俺は冷蔵庫からお茶を出しながら、何となくその向かいに座った。
「寝不足?」
「お前ほどではない」
「俺、そんなに顔に出てるか」
「出ている」
「みんなそれ言うな」
「事実だからだ」
「はいはい」
そこで会話が一度途切れる。
前だったら、この沈黙は少し気まずかったかもしれない。
でも最近は、こうして黙っていても、すぐに“何か言わなきゃ”とは思わなくなってきた。
マグカップを持つ朱音の手元。
テーブルの端に置かれたノート。
昨日の夜、片づけきらずに残った資料。
101号室の朝の光。
こういうもの全部が、少しずつ“今の生活”になってきている。
「……昨日のこと」
先に口を開いたのは朱音だった。
「うん」
「お前は」
「何」
「どう思った」
「どう、って」
「……全部だ」
朱音は、少しだけ言い淀んでから続けた。
「我と、隣室のことと、その……言ったことと」
そこまで言って、マグカップの縁へ視線を落とす。
珍しい。
朱音がここまで言葉を選ぶのは、本当に珍しい。
「正直に言う?」
俺が聞くと、
「そうしろ」
「びっくりした」
「……そうか」
「でも、変に嫌だったとかじゃない」
「……」
「むしろ、ちゃんと言葉にした方が、よかったのかもとも思う」
「……そうか」
朱音はそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。
目に見えるほどではないけれど、たぶん少しだけ力が抜けたのだと思う。
「お前」
と、朱音が言う。
「何」
「そういう肝心なことだけ、変にまっすぐ言うな」
「どういう文句だよ」
「調子が狂う」
「昨日も言ってたな、それ」
「何度でも言う」
少しだけ、いつもの調子に戻ってきた。
それに俺も少し安心する。
「で」
俺は立ち上がる。
「朝飯どうする?」
「今日は」
と、朱音が言ってから、少しだけ口ごもる。
「……まだ、作っていない」
「別に責めてないだろ」
「責めてはいない顔が、少しだけ残念そうだ」
「そんな器用な顔してない」
「している」
「してない」
「している」
「分かった分かった」
俺は笑った。
「じゃあ、今日は俺が作る」
「……」
「何だよ」
「いや」
朱音はほんの少しだけ眉を寄せた。
「それだと、昨日今日の流れ的に、我が弱ったみたいではないか」
「いや弱ってるだろ」
「弱ってはいない!」
「寝不足で朝から静かだったくせに」
「静かなだけだ!」
「それを一般には弱ってるって言うんだよ」
「言わない」
「言う」
そこで、ようやく朱音も小さく笑った。
ほんの一瞬だったけれど、昨日から張りつめていたものが少しだけほどけた気がした。
「……分かった」
と、朱音が言う。
「今日は任せる」
「珍しいな」
「命令だと思え」
「便利だな、その言い換え」
「そういうものは使えるうちに使う」
「学ばなくていい知恵ばっか増えてくな」
結局、朝は俺が簡単に卵焼きと味噌汁を作って終わった。
朱音は途中から普通に横へ立って、味噌汁の具の量がどうだとか、卵の火加減がどうだとか、口だけはしっかり出してきたので、完全に元気がないわけではなさそうだ。
学校へ行けば、日常はちゃんと学校の顔をしていた。
授業。
休み時間。
プリント。
春休み前の気配。
でも、俺にとってはその全部の向こう側に、もう“帰る場所”の具体的なイメージができてしまっている。
昼休み、大友が弁当を開きながら言った。
「なあ」
「何」
「昨日、どうなった?」
「お前もうちょっと前置きしろ」
「玄関前のやつ」
「なんで知ってるんだよ」
「知らん。でも何かあった顔してる」
「みんなほんと顔で判断しすぎだろ」
「分かりやすいんだって」
ひなたが苦笑いする。
「先輩、昨日の夕方からずっとちょっとだけ考え込んでる顔です」
「そんなに?」
「そんなに」
否定できないのがつらい。
「で、何かあったんですか?」
と、ひなた。
「……まあ」
俺は箸を持ったまま少し考える。
「ちょっとだけ、話が進んだ」
「どっちと?」
大友が即座に聞く。
「お前ほんとそういうとこだぞ」
「いやでもそこ大事だろ」
「どっちとも、みたいな感じ」
「うわ」
大友が顔をしかめた。
「いちばんラブコメ的に熱い時期じゃん」
「他人事だと思って好き放題言いやがって」
「実際他人事だし」
ひなたは少しだけ真面目な顔で言った。
「でも、それってちょっと大変ですね」
「何が?」
「ちゃんと関係が進むと、前みたいに“冗談っぽく流す”のが難しくなるじゃないですか」
「……」
「うわ、ひなたが急に本質を」
大友が言う。
「やめろ、こっちに刺さる」
「すみません」
「いや、お前が悪いわけじゃない」
悪いわけじゃない。
でも、その通りだった。
今までは、何となくの空気でごまかせた。
依子の近さも、朱音の強がりも、全部“そういうやつだから”で済ませる余地があった。
けれど、一度言葉にしてしまうと違う。
そこから先は、“分かっているくせに何も見ないふりをする”のが少し難しくなる。
放課後、俺は珍しく図書委員の手伝いを頼まれて、少し遅くなった。
大したことじゃない。
返却棚の整理と、記録の確認。
でも終わる頃には空の色がだいぶ変わっていて、校舎の影も長くなっていた。
「……やば」
思わずそう漏れる。
別に門限があるわけじゃない。
でも最近は、101号室に帰る時間が自分一人のものじゃなくなっている気がするのだ。
急いで校門を出て、住宅街を抜ける。
風は冷たいが、足は自然と速くなる。
ハイツ水戸黄門が見えた瞬間、まず最初に目に入ったのは、101号室のカーテン越しの明かりだった。
その次に、102号室の細い灯り。
どちらも、いつもなら何でもない。
でも今日は、その灯りを見た瞬間、胸のあたりが少しだけゆるんだ。
「……ああ」
なんだこれ。
と、自分でも思う。
帰る場所がある。
それだけなら、一人暮らしの頃から同じはずだ。
でも今は、その中に人の気配まである。
玄関を開ける。
「ただいま」
と俺が言うより一拍早く、
「遅い」
と、朱音の声が飛んできた。
それとほぼ同時に、廊下側で102号室のドアが開く気配がした。
「おかえり」
依子の声。
振り向けば、扉を少し開けたまま、依子がこちらを見ていた。
その顔は、いつもの穏やかなものだったが、どこか少しだけ安心したようにも見える。
「……」
俺は玄関で一瞬止まった。
101号室の中には朱音。
隣には依子。
しかも二人とも、俺の帰宅にちゃんと反応している。
「先輩?」
そのとき、さらに後ろから声がした。
階段下の方を見ると、ひなたが買い物袋を下げて立っていた。
「今帰りですか?」
「お前まで!?」
「え、何でそんなびっくりするんですか」
「いや、人の気配が多すぎて」
「それはそうですね」
とひなたは笑う。
「今日はちょっと賑やかです」
たぶん、客観的に見れば大したことではない。
アパートに住人がいて、帰宅した人間へ声がかかる。
それだけだ。
でも一人暮らしをしていた頃の俺からすれば、それは十分すぎるほど“違う”ことだった。
「恒一」
と、朱音がまた呼ぶ。
「入るのか入らぬのか、どちらだ」
「あ、うん」
俺はやっと靴を脱いだ。
「入る」
101号室へ入ると、DKには湯気の立つ鍋があった。
机の上にはもう皿が二つ並んでいる。
朱音はカーディガンの袖をまくったまま、いかにも“たまたま食事の支度をしていただけだ”という顔で立っている。
「……待ってた?」
俺が聞くと、
「待ってはいない」
即答だ。
「ただ」
「ただ?」
「肉じゃがは、帰宅時間がずれすぎると味が鈍る」
「言い換えが下手なんだよ」
「下手ではない」
「下手だよ」
「そういう先輩の顔、ちょっと好きです」
と、ひなたがなぜかDKの入口から言った。
「なんでお前入ってきてるんだよ」
「買い物袋重かったので、少しだけ置かせてもらおうかなって」
「自由か」
「この一階、最近そういう空気あるよね」
と、依子が廊下側から言う。
見れば、依子はまだ102号室の前に立ったままだ。
こちらを見て、少しだけ笑っている。
「お前も入ってくる?」
思わず俺が聞くと、
依子は少しだけ目を瞬いた。
「いいの?」
「いや、まあ……」
そこで朱音がぴくっと反応するのが分かる。
「その、せっかくだし」
「せっかくだし、って何です?」
ひなたが面白そうに言う。
「お前は黙ってろ」
依子はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐くみたいに笑った。
「今日はやめとく」
「そうか」
「うん」
「なんで」
と、今度は朱音が聞いた。
「入るのではないのか」
その問いに、依子は少しだけ視線を柔らかくした。
「鬼塚さんが、今日はそっちの日だって顔してるから」
「……何だそれは」
「分かるよ」
「分からぬ」
「分かるって」
依子はそう言って、俺を見た。
「今日は、先にちゃんとただいましてあげて」
その言い方は、相変わらず強い。
俺が返事に困っていると、依子はもう一度だけ「おかえり」と言って、今度こそ102号室へ入っていった。
扉が閉まる。
ひなたが、妙にしみじみした顔で言う。
「白沢さん、大人ですね」
「高校生だろ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かるけど、やめろ」
「はい」
ひなたもそれ以上は長居せず、「じゃあ僕も戻ります」と買い物袋を持って104号室へ戻っていった。
残されたのは、俺と朱音と、肉じゃがの匂いだけだ。
少しだけ沈黙が落ちる。
「……」
「……」
先に動いたのは朱音だった。
鍋の火を弱めて、皿の位置を少しだけ直す。
それから、こちらを見ないまま言う。
「何だ」
「いや」
俺は鞄を下ろした。
「なんか、すごいなと思って」
「何がだ」
「帰ったら、おかえりって言うやつがいるの」
「……」
「しかも一人じゃないし」
「……」
「前はこんなことなかったから」
「……そうか」
朱音はそこで少しだけ動きを止めた。
そして、いつもより小さな声で言う。
「なら」
「うん」
「たまには、よいだろう」
「……」
「毎日ではなく、たまに、だ」
「そこ制限つける必要ある?」
「ある」
「なんで」
「……調子に乗るな」
「誰が」
「お前だ」
俺は思わず笑ってしまう。
「いや、でも」
笑いながら言う。
「ちょっと幸せかも」
「……」
「何だよ」
「そういうのを」
朱音はようやくこっちを見た。
「平気で言うな」
「またそれ?」
「まただ」
「でも本音だし」
「……」
朱音は少しだけ目を細めて、それからふいっと視線を逸らした。
「食うぞ」
と、それだけ言う。
食卓につく。
肉じゃがは少し甘めで、でもちゃんと味が染みていた。
たぶん帰宅が遅くなる前提で火を通しておいたのだろう。
“待ってない”と言いながら、ちゃんとそういう準備をしている。
「うまい」
俺が言うと、
「当然だ」
と朱音。
「このくらいは作れる」
「最近だいぶ安定してきたな」
「学習の成果だ」
「それ、ちょっと偉い」
「お前が前に笑ったからだ」
「まだ根に持ってるのか」
「持つ」
「怖」
「だから隣室個体の方が怖いみたいな言い方をするな」
「してないだろ」
「していた」
「記憶改ざんするなよ」
「していない」
そんなやり取りをしながら飯を食う。
前までの一人暮らしにはなかった、誰かと同じ食卓を囲む時間。
食べ終わって、食器を流しへ運んで、湯を沸かす。
それだけのことで、夜はゆっくり落ち着いていく。
皿を洗いながら、俺は何でもないふうに言った。
「朱音」
「何だ」
「今日、待っててくれてありがとな」
「待ってはいない」
「そういうところだぞ」
「そういうところとは何だ」
「素直じゃないとこ」
「必要ない」
「でも」
俺は少し笑った。
「分かるからいいや」
「……」
「何だよ」
「それもずるい」
「何が」
「分かった上で流すな」
「だって、いちいち言わせるよりその方が早いだろ」
「……」
「それに」
「何だ」
「お前がいてよかったよ」
「……っ」
朱音の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐにまた動き出したけど、その止まり方だけで十分だった。
「……そういうのは」
「うん」
「本当に、調子が狂う」
「知ってる」
「知ってて言うな」
「だって本音だし」
「……」
「ほら」
「うるさい」
でも、その“うるさい”は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
ただいまと言う相手がいるのは、たぶん少しだけ幸せだ。
前なら照れくさくて、そんなこと認めなかったかもしれない。
でも今は、認めてもいい気がした。
このボロいアパートの101号室で、毎日が少しずつ騒がしくなっていくこと。
隣に人がいて、同じ部屋の中にも誰かがいて、帰る時間に明かりがついていること。
それはたぶん、思っていたよりずっと、悪くない。




