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第14話 静かな嫉妬とうるさい独占欲は、だいたい同じ意味をしている

 その日の放課後、俺は教室で一人、提出物の確認をしていた。


 もう帰るつもりだったのに、担任に呼び止められて進路希望調査の紙を出し直せと言われたのだ。まだ二年になる前だというのに、こういうものは妙に早い。


「桐谷ー、そこな、“まだ未定”だけじゃなくて、今考えてる方向も少し書いとけー」


 教卓の向こうから担任が言う。

 俺は気の抜けた返事をして、配られたプリントを見下ろした。


 進路、か。


 地元を出て水戸に住み始めたときは、とにかく高校生活を普通に回すことしか考えていなかった。授業に出て、単位を落とさず、生活費を大きく狂わせず、ちゃんと起きて、ちゃんと寝る。それだけでわりと手一杯だった。


 でも今は、そこに“誰かと暮らす”とか“誰かが隣にいる”とか、そういう要素まで増えてきている。


「……面倒だなあ」


 誰に向けるでもなく呟くと、


「何が?」


 声がして、顔を上げた。


 白沢依子が、教室の後ろのドア近くに立っていた。もう鞄は肩にかけていて、帰る準備はできているらしい。


「まだいたんだ」

 俺が言うと、

「うん。恒一くんが残ってるの見えたから」

 と依子は答えた。

「先生に捕まってたよね」

「よく見てるな」

「見てるよ」

「最近それ隠さなくなったな」

「隠す必要ある?」

「あるかどうかはちょっと考えてくれ」

 そう言うと、依子は小さく笑った。


 笑ったあと、まっすぐこっちを見てくる。


「進路の紙?」

「うん」

「もうそんな時期なんだね」

「らしい」

「何か考えてるの?」

「まだぼんやり」

「そっか」


 依子は俺の机の横まで来た。

 別に珍しいことじゃない。クラスメイトが残ってる相手に話しかけるのは普通だ。普通なんだけど、この人の場合、普通の会話の距離感にしては少しだけ近く感じる瞬間がある。


 たとえば今みたいに、机の上のプリントを自然に覗き込むときとか。


「……近い」

 思わず言うと、

「ごめん」

 依子は素直に半歩だけ引いた。

「でも、そんなにまだ何も決まってないんだ」

「お前、たまにそういう反応ちゃんとするよな」

「何が?」

「近いって言うと引く」

「近すぎたなら、引くよ」

「そこで意地張らないのが余計ずるい」

「ずるい?」

「いや、何でもない」


 依子は少し考えるように俺を見て、それから静かに言った。


「恒一くんって、たぶん、踏み込まれるのが嫌なわけじゃないよね」

「……」

「でも、急に近づかれると困る」

「……まあ」

「だから、少しずつならいいの?」

「質問の仕方がもうだいぶ踏み込んでるんだよな」

「だめだった?」

「だめっていうか……」

 俺はシャーペンを机の上に転がした。

「返答に困る」

「困らせてる?」

「わりと」

「ごめん」

「その謝り方もずるい」

「ずるいって便利な言葉だね」

「お前が言うな」


 依子はまた笑った。

 たぶん、俺が完全に本気で嫌がってるわけじゃないことも分かってるんだろう。


「じゃあ、待ってる」

「何を」

「紙、書き終わるの」

「先帰れよ」

「一緒に帰りたいから」

「……そういうのを平気で言うなって」

「平気じゃないよ」

「え?」

 俺が見ると、依子はほんの少しだけ目を逸らした。


「平気そうに見える?」

「……まあ」

「見せてるだけだよ」

「それ、今言うのか」

「今の方が届くかなって思って」

「お前ほんとその辺の温度調整うまいよな」

「褒めてる?」

「困ってる」


 そのやり取りをしている間に、教卓の方から担任が「桐谷ー、書けたかー」と声をかけてきた。

 俺は慌てて紙に適当じゃない程度の内容を書き込み、前へ出して、ようやく教室を出る。


 廊下に出ると、放課後の空気はもう少し自由だった。

 部活へ向かう音。帰る生徒の足音。窓の外は少しだけオレンジがかっていて、春の夕方は冬より終わるのが遅いのだと実感する。


「待たせた」

 俺が言うと、

「待ってないよ」

 と依子。

「いや、待ってただろ」

「うん。待ってた」

「どっちだよ」

「どっちでもいいかなって」

「よくないだろ」

「でも、一緒に帰れるならいいかな」


 そう言われると、またこっちは返答に困る。


 学校を出て、住宅街へ向かう。

 何度も歩いたはずの道なのに、最近はその途中に会話があるせいで、前より景色を細かく覚えている気がする。


「今日、鬼塚さん早いかも」

 依子が言った。

「なんで?」

「一時間目のあと、ちょっと廊下ですれ違ったんだけど」

「お前、一年校舎の方まで行ってんの?」

「用事でね」

「何の用事だよ」

「それは秘密」

「何でそこで秘密にするんだ」

「なんとなく」

「雑だな」

「恒一くんにだけは言われたくないかな」


 言い返しかけて、やめた。

 たぶん言い返しても、この人にはうまく返されるだけだ。


「鬼塚さん、今日はちょっと機嫌悪そうだった」

 依子が続ける。

「お前、それ分かるの?」

「分かるよ」

「最近ほんと何でも分かるな」

「何でもじゃない」

「いや、だいぶ」

「でも今日は、私に対してというより、何か別のことでいらいらしてる感じだった」

「……」

 俺は少し考える。


 朱音は、分かりやすい。

 けれど、ただ単純なだけじゃない。本人なりにいろいろ考えて、考えた結果、余裕がなくなると刺々しくなる。そういうタイプだ。


「たぶん」

 俺は言う。

「お前のことも少しある」

「うん」

「でも、それだけじゃないかも」

「たとえば?」

「最近、学校も部屋も生活も、いろいろ一気に来てるから」

「……そっか」


 依子はそこで少し黙った。

 その沈黙が、いつもより少し長い。


「どうした」

「いや」

 依子は前を見たまま言った。

「私、鬼塚さんのこと、あんまり軽く見ない方がいいなって思って」

「軽く?」

「最初は、分かりやすくて、ちょっとからかうと反応返ってくる人なのかなって思ってた」

「からかってた自覚あるんだ」

「少しだけ」

「少しか?」

「少し」

「嘘だな」


 依子はくすっと笑う。

 でもすぐに、少しだけ真面目な声になった。


「でも、違った」

「違った?」

「ちゃんと必死なんだなって」

「……」

「それに」

 依子は一拍置いた。

「私が思ってたよりずっと、恒一くんのこと好きなんだなって」


 そこまで言うのか。

 そして、そこを本人がいない場で口にしてしまうのか。


「お前、それ本人の前で言うなよ」

 俺が慌てて言うと、

「言わないよ」

 と依子。

「さすがにそんな意地悪じゃない」

「今の時点でだいぶ」

「そう?」

「そう」

「でも、本当にそう見えるんだよ」

 依子は少し笑みを引っ込めた。

「だから、私もちゃんとしないとって思った」

「何を」

「向き合い方」

「……」

「鬼塚さんのことも」

「俺のことも?」

 気づいたらそう聞いていた。


 依子は少しだけ驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。


「うん」

 短い返事だったけど、逃がさない答えだった。


 ハイツ水戸黄門が見えてくる。

 古い外壁。少し頼りない共用灯。見慣れた一階の並び。


 だけど今日は、101号室の前に人影があった。


「……あ」

 依子が小さく声を漏らす。


 朱音だった。


 制服の上にカーディガンを羽織ったまま、腕を組んで立っている。待っていたというより、“たまたま今ここにいた”顔をしているが、たまたまでその位置にいるのはだいぶ無理がある。


「おかえり」

 と俺が言うと、

「遅い」

 と朱音。

「時計を見ろ。常識の範囲だ」

「主観だ」

「それ、お前が言う?」

「言う」


 そして朱音は、俺ではなく依子を見る。


「隣室」

「鬼塚さん」

 依子も穏やかに返す。


 空気が少しだけ張った。

 でも前みたいに、ただ刺々しいだけではない。互いに互いのやり方を知った上で、どう出るか測っている感じがある。


「待ってたの?」

 依子が何でもないふうに聞いた。


 朱音の眉がわずかに動く。


「待ってはいない」

「そうなんだ」

「たまたま外気の状態を確認していただけだ」

「玄関の前で?」

「玄関前は確認しやすい」

「へえ」


 依子はそこで少しだけ微笑んだ。


「でも、恒一くんが帰ってくる時間、ちゃんと分かってるんだね」

「……」

「気にしてないと、その位置にはいないと思うけど」

「お前は」

 朱音が低く言った。

「そうやって何でも言語化するな」

「だめ?」

「だめだ」

「どうして?」

「……」

「図星だから?」

「……っ」


 朱音が言い返しかけて止まる。

 その表情を見て、俺は慌てて間に入った。


「はいはい、そこまで」

「恒一」

 と朱音。

「何」

「お前はどちらの側だ」

「どっちも何もないだろ」

「ある」

「ないって」

「ある」


 依子が少しだけ困ったように笑う。


「鬼塚さん、それはずるいよ」

「何がだ」

「そうやって“どっちの味方か”みたいに聞かれたら、恒一くん困るでしょ」

「……」

「私も困るし」

「お前が困る必要はない」

「あるよ」

 依子は静かに言った。

「だって、鬼塚さんに敵って思われたままなの、ちょっとやだし」


 その言葉に、朱音は一瞬だけ目を見開いた。

 たぶん、“そう来るのか”と思ったのだろう。


「……何だそれは」

「そのままだよ」

「理解しがたい」

「じゃあ、ゆっくりでいい」

 依子はまっすぐ朱音を見る。

「でも、私は鬼塚さんとただぶつかってるだけでいたくない」

「……」

「鬼塚さんが、恒一くんのことを大事にしてるのは分かるから」

「なっ」

「だからこそ、ちゃんと話したい」


 依子のこういうところが、いちばん強いのかもしれない。

 逃げない。

 でも怒鳴らない。

 静かなまま、自分の立ち位置をはっきり言う。


 朱音はしばらく黙っていた。

 その沈黙の長さに、俺は思わず息を止める。


 やがて、朱音が小さく言った。


「……お前は、分かったような口を利く」

「うん」

「だが」

「うん」

「……全部を分かっているわけではないだろう」

「そうだね」

 依子はすぐに頷いた。

「だから知りたいんだと思う」

「……」


 また黙る。


 この沈黙は、今までの朱音なら“怒ってる”で片づけたかもしれない。

 でも今は違う。考えている沈黙だ。


「鬼塚さん」

 依子がもう一歩だけ言葉を重ねる。

「私、恒一くんのこと、たぶん好きだよ」


 空気が止まった。


 俺も止まった。

 朱音も、明らかに呼吸を忘れたみたいな顔をした。


「……お前」

 ようやく朱音が声を絞り出す。

「ここで、それを言うのか」

「言った方がいいかなって思ったから」

「なぜだ」

「誤魔化したままだと、鬼塚さんがもっと嫌な気分になると思った」

「……」

「あと」

 依子は少しだけ視線を俺に向け、それからまた朱音へ戻した。

「私、自分の気持ちをなかったことにしたくないから」


 そこまで言われると、さすがに俺も言葉が出ない。


 朱音の方を見れば、耳まで真っ赤だ。怒りなのか、動揺なのか、たぶん両方ある。


 しばらくして、朱音はぎこちなく口を開いた。


「……我も」

「え?」

 と思わず俺が言うと、

「お前は黙っていろ!」

 と、すぐ怒鳴られた。


 そして朱音は、依子を見たまま、でも最後までまっすぐ目を合わせきれない感じで言う。


「……我も、同じだ」

「うん」

「だから、軽く扱うな」

「扱ってないよ」

「からかうな」

「それも、これからはやめる」

「……」

「でも」

 依子は少しだけ笑った。

「鬼塚さんが分かりやすいのは、たぶんこれからも変わらないと思う」

「そこはやめろ!」


 それでも、前みたいな棘だけの応酬ではなかった。


 俺はその場でしばらく黙っていた。

 たぶん、今しゃべると何を言っても余計だった。


 少しして、依子がふっと肩の力を抜いた。


「ごめんね」

「何がだ」

「帰ってきたばかりなのに、こんな話しちゃって」

「……」

「でも、言えてよかった」

「……そうか」


 朱音はまだ不機嫌な顔をしていたが、さっきまでの完全な敵意ではない。むしろ、妙に疲れたような顔に近い。


 依子はそこで一歩下がった。


「じゃあ、今日は戻るね」

「え」

 俺がやっと声を出すと、

「ごめん、恒一くん」

 と依子。

「でもたぶん、今日は鬼塚さんの方が先でしょ」

「……」

「だから、また明日」


 それだけ言って、依子は102号室へ入っていった。

 扉が静かに閉まる。


 残された沈黙の中で、俺はようやく息を吐いた。


「……何だこれ」

「知らぬ」

 と朱音が言う。

「だが、疲れた」

「だよな」

「お前」

「何」

「今、何か余計なことを言おうとしたな」

「……」

「言うな」

「まだ何も言ってない」

「顔に出ている」

「最近みんなそれ言うよな」


 朱音は腕を解いて、少しだけ視線を落とした。


「……でも」

「うん」

「まあ、その」

「何」

「……言えたのは、悪くなかった」

「そうか」

「お前は何も言うな」

「はいはい」


 101号室の鍵を開けて、部屋へ入る。


 さっきまでと同じ部屋のはずなのに、空気が少し違う。

 言葉にしてしまったものは、もう前と同じ場所には戻らない。


 静かな嫉妬と、うるさい独占欲は、だいたい同じ意味をしている。


 たぶん今日、俺はそれを、前よりはっきり理解した。

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