第13話 梅が終わっても、部屋の中の春はまだ終わらない
三月の終わりが近づくと、風の冷たさはまだ残っているくせに、空の色だけが先に春を名乗り始める。
梅まつりも、そろそろ終わりだ。
学校の行き帰りに駅前のポスターを見ても、最初の頃ほど強く目には入らなくなった。あれだけ“季節のイベント”として存在感を持っていたものが、終わりに近づくと急に背景へ戻っていく。
たぶん、そういうものなのだと思う。
イベントは過ぎる。
景色も変わる。
花も散る。
でも、そこをきっかけに動き出したものまでは、きれいに元へ戻ってはくれない。
その日の朝、俺は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
理由は分かっている。
手前の部屋で、引き戸が軽く開く音がしたからだ。
がら、とまではいかない。
す、と空気が少し動くくらいの、小さな音。
続いて、床を踏む足音。
軽い。
でも忍ばせる気はそんなにない。
鬼塚朱音だ。
最近は、この足音だけで分かるようになってきた。
というより、分からされてきたと言った方が正しいかもしれない。最初の頃は単に“部屋の中で誰かが動く音”だったものが、今はもう、どのタイミングで誰が何をしようとしているのか、何となく予想がつく。
布団の中で天井を見ながら、俺は少しだけ息を吐いた。
昔なら、ここで静かだった。
朝の101号室は、俺が起きるまで何の音もしなかった。
起きてから自分でお湯を沸かし、適当にパンでもかじるか、炊飯器の残りを温めるかして、黙って制服に着替えて学校へ行く。
それはそれで気楽だったし、楽ではあった。
でも今は、その静けさの代わりに、誰かの朝が同じ部屋にある。
「恒一」
と、案の定、引き戸の向こうから声がした。
「起きているなら返答せよ」
「起きてる」
「ならば出てこい」
「朝からいつも命令口調だな」
「呼びかけに応じない個体は信用できない」
「個体って言うなって」
布団から出る。
まだ少し冷える。
だが冬の刺すような感じではない。足の裏から伝わる床の冷たさも、“寒い”というより“朝だな”の方へ近づいている。
DKへ出ると、案の定、朱音が流し台の前に立っていた。
最近お気に入りらしい紺のエプロンに、黒いカーディガン。髪はまだ軽く寝癖が残っているが、本人はまったく気にしていない顔をしている。
「おはよう」
と俺が言うと、
「遅い」
と返ってきた。
「いや、起きてから一分も経ってない」
「朝の一分は重い」
「また妙なこと言い出した」
「事実だ」
そう言いながら、朱音は味噌汁の火加減を見ている。
鍋の中から上がる湯気。
まな板の端に寄せられたねぎ。
テーブルの上の二つの茶碗。
それがもう、わりと普通の光景になりつつある。
「今日、何?」
俺が鍋を覗き込むと、
「豆腐と油揚げ」
「定番だな」
「安定性を優先した」
「言い方がいちいち作戦会議なんだよ」
「生活とは戦いだ」
「何と」
「時間と空腹と外敵」
「最後だけ物騒だな」
「主に隣室」
「まだ言うのか」
そう返しながら、俺は椅子へ座る。
最近、自分でも少し分かってきた。
朱音のこういう言葉は、半分が本気で、半分が照れ隠しだ。だから全部をまともに受け取ると疲れるし、全部を冗談にするとたまに本音を踏み外す。
その加減が、少しだけ分かるようになってきた。
「何だ」
朱音がこちらを振り向く。
「黙るな」
「いや」
「何だ」
「最近、お前のその“朝のいつもの流れ”に慣れてきたなと思って」
「……」
「味噌汁の匂いで起きるとか、前はなかったし」
「そうか」
「そうか、って」
「問題があるのか」
「ないけど」
「ならばよい」
そう言う朱音の耳が、少しだけ赤い。
最近はその赤さにも慣れてきた。
慣れてきた、というのも変な話だが、本当にそうなのだから仕方ない。
朝食を食べ、制服に着替え、二人で玄関を出る。
一階の廊下には、少し遅れて103号室の扉が開く音がした。
「おはよう地雷原」
と、大友。
「定着させるなその呼び方」
「もう無理だろ」
「無理じゃない」
「いや、客観的に見てお前んちの周り、めちゃくちゃ濃いぞ」
「お前が言うと腹立つなあ」
続いて104号室から、ひなたが顔を出した。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日ちょっと暖かいですね」
「まあ、少しは」
「春っぽいですよね」
「朝はまだ寒いけどな」
「でも、前より全然違います」
ひなたのその言葉に、俺は小さくうなずいた。
前より全然違う。
気温のこともそうだし、生活のこともそうだ。
廊下の朝の声。
靴音。
ドアの開閉。
“行ってきます”のタイミングの重なり。
前は俺一人だった。
今は違う。
102号室のドアが開いて、白沢依子が出てくるのも、もうすっかり日常の一部になっていた。
「おはよう」
「おはよう」
俺が返すと、依子はわずかに笑う。
「今日、早いね」
「朱音が起こした」
「起こしたの?」
依子がそちらを見ると、
「管理の一環だ」
と朱音。
「へえ」
「へえ、って何だ」
「ちゃんと生活回してるんだなって思って」
「当然だ」
「うん。知ってる」
この会話の形にも、少しずつ慣れてきている。
最初の頃の朱音なら、もっと露骨に刺々しかった。
最初の頃の依子なら、もう少し距離を測っていた。
今は違う。
まだ火花は散る。
でも、その火花の飛ばし方を互いに理解し始めている感じがある。
学校までの道を歩きながら、依子が空を見上げた。
「梅、もう終わるね」
「そうだな」
「早いなあ」
「最初は“春始まった感”すごかったのに」
「うん」
依子は静かに言う。
「イベントって、始まるときより終わるときの方が、ちょっと寂しいよね」
「分かる」
と、俺は答えた。
「始まったときは“来たな”って感じだけど、終わると“過ぎたな”って感じする」
「そうそう」
「時間の話をしているのか」
朱音が聞く。
「うん」
依子が答える。
「季節の話、かな」
「ふむ」
朱音は少しだけ考えてから言った。
「ならば、終わったあとに残るものの方が重要ではないか」
「……」
「何だ」
「いや」
俺は少し笑った。
「たまに、めちゃくちゃいいこと言うよな」
「たまに、とは何だ」
「でも、たしかにそうかも」
梅まつりは終わる。
でも、そこで一緒に歩いた時間とか、見た景色とか、そのあとに変わった距離感までは消えない。
それってたぶん、今の俺たちにそのまま当てはまる。
放課後になっても、その感覚は消えなかった。
教室のざわめき。
プリントを片づける音。
帰るやつ、寄り道するやつ、部活に行くやつ。
いつも通りのはずの学校の終わりが、今日はどこか少しだけ柔らかく感じる。
「帰る?」
と、依子が聞く。
「うん」
「じゃあ、一緒にいい?」
「最近もう確認だけ形式的だよな」
「でも聞いた方がいいかなって」
「断らないの分かってるくせに」
「分かってるよ」
「開き直るな」
結局二人で帰る。
ハイツ水戸黄門が見えてきて、102号室と101号室のドアが視界に入ると、妙な安心感があるのも最近の変化だった。
帰り道の最後で、依子が小さく言う。
「こういうの、好きかも」
「何が」
「帰って、隣に明かりがあるの」
「……」
「前より、部屋の感じ変わったでしょ」
「まあ」
「鬼塚さんが入ったから」
「そうだな」
「でも」
依子はそこで少しだけ笑った。
「私も前より、帰る理由が増えた気がする」
「理由?」
「うん」
「何だそれ」
「何だろうね」
こういうふうに、最後だけ曖昧にするのも依子らしい。
全部をはっきり言わないから、余計に引っかかる。
101号室の鍵を開ける。
ただいま、と言う前に、DKの方から小さな音がした。包丁ではない。茶碗が軽く触れるみたいな音。
人がいる、という音だ。
「……前は、こんな音しなかったんだよな」
思わず小さく呟く。
「何か言った?」
依子が聞く。
「いや、別に」
「またね」
「うん」
102号室のドアが閉まるのを見届けてから、俺は101号室へ入った。
「ただいま」
「遅い」
と、即座に返ってくる。
その即答すら、もう最近は少し心地いい。
朱音はDKのテーブルでノートを広げていた。勉強中らしい。隣には冷めかけたお茶。手前の部屋の引き戸は半分開いていて、そこから本棚の端が見える。
「今日は早く帰ってたんだな」
「うむ」
「何してた?」
「課題」
「偉い」
「当然だ」
「はいはい」
「何だ、その適当な返答は」
「いや、ほんとに偉いって」
「……」
「何」
「そういうのを、自然に言うな」
「最近それよく言うな」
「よく言う必要があるからだ」
「便利だなその理屈」
鞄を置いて、カーディガンを脱ぐ。
キッチンの端には、切ってある野菜。
鍋には下ごしらえ途中の肉じゃがの材料。
台所に立つつもりだったのだろう。
「晩飯、手伝う?」
俺が聞くと、
「うむ」
と朱音。
「今日は芋の量が多い」
「じゃあ皮むくか」
「任せる」
「珍しく素直だな」
「役割分担だ」
俺が流し台へ立つと、朱音は少しだけ椅子を引いて場所を空けた。
その動きがあまりにも自然で、俺は少しだけ変な気分になる。
こういうのも、慣れたからだ。
昔から知っている相手が、同じ部屋で、同じ夕方に、同じ鍋の材料を前にしている。
それは変な状況のはずなのに、毎日繰り返していると、少しずつ“今の普通”になっていく。
「恒一」
「何」
「梅の件だが」
「もう終わるな」
「うむ」
「少し寂しいか?」
「……」
朱音はすぐには答えなかった。
「花が惜しいというより」
「うん」
「その前後に起きたことが、終わった気がしない」
「……」
「だから、妙だ」
分かる。
イベントは終わる。
でも、そこで近づいた距離や、始まった関係は終わらない。
むしろそこからの方が、ずっと長い。
「まあ」
俺はじゃがいもの皮をむきながら言った。
「梅が終わっても、別に全部終わるわけじゃないしな」
「うむ」
「ていうか、むしろ残る方が多いだろ」
「そうかもしれぬ」
「お前、最近ちょっとそういう話ちゃんとするようになったな」
「お前が聞くからだ」
「それもそうか」
朱音は少しだけ黙ってから、小さく言った。
「……前より、ここが静かではなくなった」
「うん」
「だが、不快ではない」
「そっか」
「お前は?」
「俺も」
俺はすぐに答えた。
「不快じゃない」
「そうか」
「うん」
その会話だけで、たぶん十分だった。
夜になり、肉じゃがを食べて、食器を洗って、風呂の順番を決めて、それぞれの部屋へ戻る。
でも寝る前、俺はもう一度DKを通った。
水を飲むために出ただけなのに、部屋の中の空気が少し違って見える。
流し台に並ぶ二人分のコップ。
テーブルの上の開いたノート。
手前の部屋から漏れる小さな明かり。
壁の向こうの102号室からは、何かを閉じるような控えめな音。
廊下の向こうからは、遅く帰ってきたらしい大友の足音と、小さく歌うみたいな鼻歌。
朝の廊下の声。
DKでの朱音の気配。
隣室の生活音。
以前の静かな一人暮らしには、たぶんもう戻れない。
でもその変化を、俺は嫌だとは思っていなかった。
むしろ――。
「……前はこの部屋、こんなに人の気配しなかったんだよな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
その言葉は、少しだけ驚きに近かった。
自分でも、そこまで当たり前に受け入れ始めていたことに、今さら気づいたからだ。
春はまだ完全には来ていない。
梅も終わりかけている。
でも、この部屋の中の春は、たぶんまだ終わらない。




