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第12話 ハイツ水戸黄門、春の住人会議はだいたい雑談で終わる

 その日の夕方、俺は二階から降ってきた短いメッセージを見て、しばらく動きを止めていた。


『今夜、軽く住人で顔合わせする。十九時、二階。来なさい』


 柏村真琴。


 ハイツ水戸黄門のオーナーにして、俺の又従姉妹。

 そして、こういうときだけ妙に管理人らしい言葉を使う社会人だ。


「……住人で顔合わせ?」

 思わず口にすると、DKで味噌汁の火加減を見ていた朱音が振り返る。


「何だ」

「真琴さんから」

「また急だな」

「今夜、軽く住人で顔合わせするって」

「……なぜ」

「それが分かれば苦労しない」

「問いに対する機能不全だな」

「うるさいな」


 スマホを置いて椅子へ座る。

 夕飯前の101号室は、少しだけ落ち着いた空気があった。

 朱音との同居にも、俺自身が少しずつ慣れてきている。鍋から上がる湯気。流し台に置かれたまな板。手前の部屋に積まれている本。こういう景色が、もう“変なもの”ではなくなり始めている。


 だからこそ、その中へ急に「住人で顔合わせ」と言われると、少しだけ構える。


「何の話し合いだろうな」

 俺が言うと、

「共用部の件ではないか」

 と朱音。

「先日、二階の個体が廊下を塞ぐなと言っていた」

「結城さんのことか」

「うむ」

「ありそう」

「あるいは、ゴミ出し」

「それもありそう」

「または、我の加入による住環境再編」

「急に物々しくなるな」


 朱音は真顔で味噌汁をよそった。


「共同居住体に新規個体が加わるのだから、最低限の説明は必要だ」

「そこだけ聞くと正しいんだよな」


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


 ぴんぽーん。


 嫌な予感がする。

 というより、最近このタイミングで来る相手はだいたい一人しかいない。


「お前、出ろ」

 朱音が言う。

「なぜだ」

「どうせ白沢だろ」

「言い方が雑」

「事実だ」

「お前もう隣人の把握能力上がってるな」


 玄関を開けると、案の定だった。


「こんばんは」

 白沢依子が、いつもの落ち着いた顔で立っていた。

 今日は学校帰りのままらしく、制服の上にカーディガンを羽織っている。手には何も持っていない。珍しい。


「こんばんは」

「今、真琴さんから連絡来た?」

「……来た」

「やっぱり」

 依子は小さく笑う。

「顔合わせ、だって」

「お前も呼ばれてるのか」

「住人だもん」

「それはそうか」

「鬼塚さんも?」

「たぶん一応」

「そっか」


 その会話を、朱音がDKの入口からじっと見ているのが分かった。


「……何だ」

 と、朱音。

「また自然に現れたな」

「隣だから」

 依子が穏やかに答える。

「便利だな、その言葉」

「便利だよ」


 最近、この二人のやり取りにも少しだけ型ができてきた気がする。

 朱音は警戒する。

 依子は流す。

 でも前ほど露骨には荒れない。

 たぶん互いに、“相手がどういうタイプか”を少しずつ理解し始めているのだ。


「とりあえず」

 俺は二人を見ながら言った。

「せっかくだし一緒に行く?」

「うん」

 と依子。

「うむ」

 と朱音。


 返事だけなら妙に息が合っている。


 十九時少し前、俺たちは二階へ上がった。


 ハイツ水戸黄門の二階は、一階より静かだ。

 同じ古い廊下、同じ頼りない共用灯なのに、住んでいる人間の生活リズムが違うだけで、空気まで変わる。


 204号室のドアは開いていて、中から真琴さんの声が聞こえていた。


「入っていいわよー」


 覗くと、すでに何人か集まっている。


 201号室の結城さんは相変わらずパーカー姿で、ソファの端に低い姿勢で座っていた。202号室の真鍋理沙さんはきれいめの部屋着で、テーブルの端に紙コップを並べている。203号室の相馬蓮さん――二階でいちばん体育会系っぽい大学生――は立ったまま壁にもたれていた。


 そして一階組は、俺たちの後ろからちょうど大友とひなたも上がってくる。


「なんか文化祭前みたいっすね」

 と、大友。

「例えが雑」

 俺が言うと、

「でもちょっと分かる」

 とひなたが笑った。


「全員来た?」

 真琴さんが人数を数える。

「……よし、たぶん来たわね」

「たぶんって何ですか」

「このアパート、出席管理するタイプじゃないから」

「オーナーがそれ言うなよ」


 真琴さんの部屋は、仕事道具がそこかしこに見える以外は、思っていたよりちゃんと片づいていた。いや、ちゃんと片づけようとしている跡がある、の方が正確かもしれない。テーブルの上にはペットボトルのお茶と小袋の菓子。いかにも“軽い顔合わせ”という感じだ。


「で、何の話なんですか?」

 理沙さんが聞くと、

 真琴さんは「あー」と少しだけ面倒そうな顔をした。


「大した話じゃないのよ」

「その前置きで大したことなかった試しないですけど」

 俺が言うと、

「親戚がうるさい」

 と返された。


 そして真琴さんは指を折る。


「まず一つ。春前で人の出入りが少し増えるから、共用部の私物はなるべく置かない」

「それはそうですね」

 理沙さんが即座に同意する。

「最近、階段のとこに段ボール一個置かれてたし」

「あれ俺じゃないっす」

 大友がすぐ言う。

「俺じゃないっすけど、誰かだろうなとは思ってました」

「疑うだけかよ」

「いや、文化として」

「何の文化だ」


 結城さんがぼそっと言った。


「一階、よく何か置いてる」

「すみません」

 俺が条件反射で謝ると、

「恒一くん、そういうとこ偉いわねえ」

 と真琴さん。

「褒めてないですよね今」

「褒めてる褒めてる」


「二つ目」

 真琴さんが続ける。

「ゴミ出しルール。これは新しく入った子もいるから一応再確認」

「我か」

 朱音が言う。

「そう、あなた」

「把握済みだ」

「ほんと?」

「燃えるゴミは火曜金曜、資源は月曜、段ボールは階段下」

 朱音がさらっと答えると、真琴さんが目を丸くした。

「え、優秀」

「白沢が教えた」

 と、朱音。

「ああ」

 真琴さんが納得したようにうなずく。

「それなら覚えるわね」

「何だその信頼」

 俺が言うと、

「隣の生活インフラ担当みたいなもんでしょ、あの子」

「やめてくださいその言い方」

「でも、ちょっと分かります」

 理沙さんが笑う。

「白沢さん、すごくちゃんとしてるし」


 依子はそれを、いつも通り穏やかに受け流した。


「長く住んでるだけです」

「それだけで済む?」

 俺が思わず聞くと、依子は少しだけこっちを見た。

「済ませたい?」

「その返しずるいよな」

「そうかな」


 大友がそのやり取りを見て、完全に面白がっている顔をしている。

 お前は後で覚えてろ。


「三つ目」

 真琴さんが続けた。

「これが一番どうでもいいんだけど、たまに誰がどの部屋の人か把握できなくなるから、一回くらい顔合わせしとこうと思って」

「それが本音か」

 相馬さんが初めて口を開いた。

「だってしょうがないじゃない。こっちは仕事しながら管理してんの」

「仕事してるのにアパートまで買うのすごいですよね」

 ひなたが素直に言うと、

 真琴さんは一瞬だけ遠い目をした。


「すごくない。勢い」

「勢いで中古アパート買う人初めて見ました」

 俺が言うと、

「若いうちに資産形成とか言われた結果よ」

「急に生々しい」

「やめてください、その辺の話は」

 理沙さんが笑う。

「この子たちまだ高校生なんですから」

「高校生の前で言う話じゃないな」

 と相馬さんも笑った。


 こういうとき、二階組はやっぱり空気が少し大人だ。

 一階の騒がしさを流せるだけの余裕がある。


 紙コップにお茶が配られ、軽い雑談に移っていく。


「鬼塚さんは、もう慣れた?」

 理沙さんが聞く。

「環境適応は進行中だ」

「翻訳すると?」

 大友がすぐ言う。

「まだ慣れてる途中」

 と、俺が訳す。

「便利だな」

「通訳扱いすんな」

「でも先輩、ほんと分かってますよね」

 ひなたが言う。

「鬼塚さんのこと」

「昔からだからな」

「それが強いんですよ」

 大友がうなずく。

「積み重ね」

「お前、最近そういう単語覚えたのか?」

「ラブコメ読むと頻出なんだよ」

「黙れ」


 依子はその会話を静かに聞いていたが、不意に言った。


「うらやましいな」

「何が?」

 俺が聞くと、

「そうやって訳してもらえるの」

「……」

「鬼塚さんの言い方って、たぶん慣れてないと意味取るの少し難しいし」

「それはそう」

 大友が即答する。

「最初、“前線拠点”とか言われて何の話かと思ったし」

「今でも時々分かってないだろ」

「雰囲気で拾ってる」


 朱音はその場で少しだけむっとした。


「我の言語運用は正確だ」

「正確だけど一般流通してないんだよ」

 俺が言うと、

「ひどいな」

 と朱音。

「でも、先輩の訳、ちょっと好きです」

 ひなたが笑う。

「鬼塚さんの言葉が、恒一先輩の中では自然に変換されてる感じ」

「何だそれ」

「なんか、いいなって」

「……」

 依子が、その一言に少しだけ反応した。


 ほんの少し。

 でもたぶん、俺にはそれが分かるようになってきている。


「白沢さんも、恒一くんのことよく分かってるでしょ」

 理沙さんが何気なく言った。


 やめてくれ。

 そういう話の広げ方は、今ここではよくない。


「え」

 依子はほんの少しだけ目を瞬いた。

「そう見えます?」

「見える見える」

 真琴さんまで乗る。

「朝のゴミ出しとか挨拶とか見てると、だいぶ分かってる感ある」

「オーナーがそんなところまで見てるの怖いですよ」

「管理です」

「絶対違う」


 依子は困ったように笑ってから、小さく言った。


「まあ、少しは」

「少しかよ」

「少しです」

「少しでそれなら十分では」

 理沙さんが面白そうに言うと、依子はそれ以上広げなかった。


 代わりに、視線だけが少しだけこちらへ向く。


 その視線を、朱音が見逃すはずもなかった。


「……」

 黙っているが、明らかに何か考えている顔だ。


 そこで真琴さんが、妙に明るい声を出した。


「まあ、とにかく」

 ぱん、と手を打つ。

「顔合わせって言っても、別に堅苦しいことする気はないの。みんな生活の時間違うし、仲良くしろとも言わない。でも、“どんな人が住んでるか”くらいは知ってた方が楽じゃない?」


 その言い方は、珍しくちゃんとしていた。


 結城さんが小さくうなずく。


「まあ、そうっすね」

「夜中に階段で知らない人とすれ違うよりは安心ですし」

 理沙さんも言う。

「高校生組、声でだいたい分かりますけどね」

「それどういう意味です?」

 俺が聞くと、

「一階、いつもにぎやかだから」

 と理沙さん。

「二階まで聞こえるときありますよ」

「すみません……」

「また謝ってる」

 大友が笑う。

「恒一、謝罪担当みたいになってるぞ」

「実際そうだろ」

「たしかに」

 ひなたまで頷くな。


「でも」

 相馬さんが腕を組んだまま言う。

「にぎやかなの、悪くはないっすよ」

「え?」

 俺が思わず見ると、相馬さんは少しだけ肩をすくめた。

「前より、アパートに人住んでる感じするし」

「……」

「静かすぎると逆に怖いときあるじゃないですか」

「それは、まあ」

 分かる気はした。


 ハイツ水戸黄門は、見た目だけなら正直だいぶ古い。

 夜、誰の気配もないときなんて、ちょっとした肝試し感すらある。


 でも今は、一階に俺たちがいる。

 朝には声がして、夕方には帰宅の気配があって、夜にはDKの灯りがつく。


 それはたしかに、“住んでる感じ”なのだろう。


「……よかったじゃない」

 真琴さんが言う。

「私の投資物件、ちゃんと生活感出てて」

「言い方が世知辛いな」

 俺が言うと、

「現実です」

 と真琴さん。

「夢だけでローンは返せないの」

「高校生の前でその単語を何回も出さないでください」

「教育よ」

「嫌な教育だ」


 場が少し笑いに包まれた。


 そのあとも話はだらだら続いた。

 近くのスーパーの安売り日。

 この辺の病院ならどこがいいか。

 夏になるとどの部屋が一番暑いか。

 階段下に虫が出たとき誰が強いか。


「鬼塚さんは強そう」

 ひなたが言うと、

「当然だ」

 と朱音。

「虫ごときに遅れは取らぬ」

「ごとき扱いできるのすごいな」

 俺が言うと、

「お前は?」

 と朱音。

「まあ平気」

「先輩、山育ちですもんね」

 ひなたが言う。

「そこ基準になる?」

「なるでしょ」

 大友が笑う。

「虫耐性、食材保存、天候感知。地方育ちはステータスだぞ」

「何の」

「生活の」

「それはちょっと分かる」

 理沙さんまで頷いていた。


 依子は、その会話を聞きながら不意に俺を見た。


「そういうの、ちゃんとできるんだよね」

「何が」

「生活のこと」

「まあ、一人暮らししてればある程度は」

「でも、みんながみんなちゃんとできるわけじゃないでしょ」

「……」

「恒一くん、そういうところすごいと思う」


 それを、こんな人が多い場で言うか。


 俺が返事に困っていると、朱音がすかさず言った。


「それは前提条件だ」

「前提?」

 依子が聞く。

「そうだ」

 朱音は腕を組んだ。

「恒一が生活能力を欠いていれば、我の同居計画は破綻していた」

「同居計画って言うな」

「実際そうではないか」

「いやまあ……」

「だから、そこを評価するのは当然だ」

「へえ」

 依子は少しだけ笑った。

「鬼塚さん、ちゃんと信頼してるんだね」

「……」

「そういう言い方されると、否定しづらいでしょ」

 俺が言うと、

「していない」

 と朱音。

「今の間で?」

「していない」

「してるだろ」

「してない」

「はいはい」

「雑に流すな」


 でも、こういうやり取りが普通にこの場で回ること自体、少し前なら想像しなかった。


 十九時に始まった顔合わせは、気づけば二十時を回っていた。


「じゃ、こんなもんでいい?」

 真琴さんが最後に言う。

「要するに、共用部は塞がない、ゴミはルール守る、夜うるさすぎるときは私か理沙ちゃんあたりが注意する、以上」

「最後が雑すぎる」

「でも要点合ってますよ」

 理沙さんが笑う。

「それで十分だと思います」

「だろ?」

「だろ? じゃないんですよ」


 みんなが立ち上がる。紙コップを片づけ、椅子を戻し、部屋の空気がゆるくほどける。


 俺も立ち上がって、空になったコップを流し台へ運んだ。


「恒一くん」

 背後から、真琴さんが小さく呼ぶ。


「何ですか」

「前より、ちゃんとここに住んでる顔してる」

「……は?」

「前はさ」

 真琴さんは壁にもたれたまま言った。

「一人で生活は回してたけど、“仮住まい感”抜けてなかったでしょ」

「そんなことないと思いますけど」

「あるのよ、そういうのって」

「分からないな」

「分からないならいい。でも今は、前より“帰る場所”っぽい顔してる」


 それだけ言って、真琴さんは「あー疲れた」と露骨に話を終わらせた。


 何だその締め方は。

 でも、言いたいことは少し分かる気がした。


 二階から一階へ降りるとき、廊下の空気はさっきより少しだけ静かだった。


「何だかんだ、楽しかったですね」

 ひなたが言う。

「顔合わせっていうより雑談会でしたけど」

「だいたいあんなもんでしょ」

 大友が言う。

「ハイツ水戸黄門っぽい」

「何だその“っぽい”」

「ゆるくて、でもなんかちゃんと人いる感じ」

「……」

 俺は少しだけ笑った。

「まあ、分かる」


 101号室の前まで来る。


 依子はそのまま102号室の前で立ち止まり、こちらを見た。


「おやすみ」

「おやすみ」

「鬼塚さんも」

「うむ」

「また明日」

「また明日」


 会話の形が、もう少し自然になっている。

 それに気づいたのは俺だけじゃないだろう。


 101号室へ入ると、昼より少しだけ部屋が落ち着いて見えた。


 何かが大きく変わったわけじゃない。

 でも、住人たちの顔と名前が少しだけつながって、このアパートが“ただの背景”ではなくなった感じがある。


 DKの電気をつける。

 朱音は手前の部屋へ入る前に、少しだけ立ち止まった。


「……何だ」

 俺が聞くと、

「別に」

 と朱音。

「だが」

「だが?」

「悪くはないな」

「何が」

「このアパートだ」

「……」

「人間は少々騒がしいが」

「お前がそれ言うのか」

「それでも、悪くない」

「そっか」


 朱音はそれだけ言って、自分の部屋へ入っていった。


 ドアは閉まらない。半分ほど開いたままだ。

 それが今の距離感なのだろう。


 俺はDKの椅子に座って、小さく息を吐いた。


 ハイツ水戸黄門。

 ボロい。名前もださい。

 でも水回りはきれいで、二DKで、家賃は安くて、住人は妙に濃い。


 少し前までは、ただの“住む場所”だった。

 今はそこに、もう少し別の意味が増えてきている。


 たぶん、これが“ここに住む”ってことなんだろう。

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