第11話 春休みの手前で、人間関係だけ少し先に進みたがる
三月が近づくと、学校の空気は少しだけ落ち着かなくなる。
別に何か大事件が起きるわけじゃない。
でも、教室のざわめきの中に、いつもとは違う種類の“終わり”と“始まり”が混ざり始めるのだ。
三年生は卒業の準備でどこか浮き足立ち、一、二年は進級の話題を口にし始める。廊下には来年度の行事予定が貼り出され、教科書販売だの新しいクラス編成だの、まだ決まっていないことまで、なぜか先に空気だけがやってくる。
その日も、朝から教室はそんな感じだった。
「いやー、クラス替えどうなるかなあ」
前の席の男子が振り返りもせずに言う。
「もう大友と離れたい」
「ひど」
と、後ろの席から大友が即座に返した。
「お前、俺という優良友人を失ったら学校生活の半分損するぞ」
「残り半分で十分だろ」
「辛辣すぎるだろ」
俺はそのやり取りを聞き流しながら、机の上のプリントを揃える。
窓の外は明るい。
朝の冷えはまだあるけれど、二月の頃より光の色がやわらかい。春が来るには少し早い。でも、来ないとも言い切れない。そういう中途半端な空気だ。
「恒一」
と、斜め前から声がした。
見ると、白沢依子がこちらを見ている。
朝のホームルーム前。教室の会話に紛れるくらいの小さな声だ。
「何」
「今朝、眠そう」
「それ、最近みんな言うな」
「だってほんとだよ」
依子は少しだけ笑った。
「鬼塚さんのお弁当、今日も?」
「……なんで分かるんだよ」
「顔がちょっと嬉しそうだから」
「そこまで分かるのこわいって」
「また怖いって言った」
「怖いだろ」
依子は困ったように笑うだけだ。
最近、この人は俺が警戒していることすら、少し楽しんでいる気がする。
「白沢」
俺は少しだけ身を乗り出して、小声で聞いた。
「お前、ほんとに人のこと見すぎじゃないか」
「見てるよ」
依子はあっさり答える。
「だって気になるし」
「そういうのをさらっと言うな」
「だめ?」
「だめではないけど」
「じゃあ、いいでしょ」
「よくない方向に理屈が強いな」
依子はその返しに、ほんの少しだけ目を細めた。
「でも」
「うん」
「気になるのは、たぶん私だけじゃないよ」
「え?」
「鬼塚さんも、すごく見てるし」
その言葉に、俺は思わず前方を見る。
朱音は別の学年だからこの教室にはいない。
でも、“見てる”という言葉に関しては、否定しにくかった。
朱音は俺の生活をわりとちゃんと見ている。
起きる時間。
食べる量。
帰宅の気配。
昨日より元気かどうか。
そういう小さいところを、遠慮なく把握してくる。
依子はそれを、隣室から静かに見ている。
種類は違う。
でもどっちも、前の俺の生活にはなかったものだ。
「……朝から何考えてるんだよ、俺」
小さく呟くと、
「人間関係?」
と、依子が何でもない顔で言った。
「お前なあ」
「違った?」
「違わないのが嫌なんだよ」
「じゃあ、合ってるね」
「勝ち誇るな」
ちょうどそのタイミングで担任が入ってきて、朝のやり取りはそこで途切れた。
ホームルームでは進級前の注意事項やら、年度末の提出物やら、いかにもこの時期らしい話が並んだ。黒板に書かれる文字はどれも現実的で、夢がない。だが、そういう“現実”が並び始めると、逆に季節の切り替わりを感じる。
隣の席のやつが、プリントを眺めながらぼやく。
「春休み短くね?」
「毎年こんなもんだろ」
「気分的にもっと欲しい」
「分かる」
分かる。
春休みは特別長くないくせに、なぜか一区切り感だけは強い。
授業の合間の休み時間も、今日はどこか浮ついていた。
誰が何組になるだろうとか、来年は受験がどうとか、部活の先輩が卒業するとか、細かい話題がそこかしこで飛び交っている。
「お前んとこは?」
と、大友が昼休みに弁当を広げながら言った。
「鬼塚さん、学校慣れた?」
「まあ、まだって感じじゃないか」
「だよなあ。春前って一番落ち着かないし」
「お前が意外とまともなこと言うとびっくりする」
「何だそれ」
「でも分かるよ」
と、ひなたが箸を持ちながら頷いた。
「新しい場所って、慣れ始めた頃にまた次の変化が来るじゃないですか」
「それな」
大友がすぐ乗る。
「クラス替えとかさ」
「ひなたも来年クラス替えか」
「ですです」
「なんか、もう今の感じに慣れてると、変わるのちょっと嫌じゃない?」
ひなたが言うと、俺は少しだけ言葉に詰まった。
変わるのが嫌。
その感覚は、最近少しだけ分かるようになってきていた。
ついこの前まで、俺の毎日はもっと単調だった。
学校へ行って、帰って、一人で飯を食って、寝る。
静かで、平和で、ちょっとだけ味気ない。
今は、同じ日常のはずなのに、そこへ誰かの顔が浮かぶ。
帰れば朱音がいるかもしれない。
隣には依子がいる。
一階には大友とひなたがいて、二階には真琴さんたちがいる。
それが“今の普通”になり始めている。
だから、そこからまた何かが変わると聞くと、少しだけ落ち着かない。
「先輩?」
ひなたがこちらを覗き込む。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと考えてた」
「考え事してる顔してました」
「最近みんなそれしか言わないな」
「顔に出やすいんですよ」
「お前も白沢と同じこと言うんだな」
思わず口にすると、大友の箸がぴたりと止まった。
「ほう」
「その反応やめろ」
「いや今、“白沢さんと同じこと言う”が無意識で出たぞ」
「だから何だよ」
「距離が縮まると、比較に使う固有名詞が増えるんだよな」
「お前ほんと嫌な観測するな」
「役立つだろ?」
「全然」
「いや、役立ってますよね」
ひなたまで乗るな。
そこで、俺は弁当箱の中身に視線を落とした。
今日の弁当は、昨日よりだいぶ見た目がまともだった。
卵焼きはちゃんと四角い。ブロッコリーも焦げてない。ウインナーも普通に赤い。
努力の跡が見える。見えすぎる。
「鬼塚さん、頑張ってますよねえ」
ひなたがしみじみと言う。
「何か、可愛いです」
「分かる」
と、大友。
「負けたくないのが丸見え」
「その言い方だと性格悪いぞ」
「いや、でもそうだろ」
「……まあ」
俺は否定しきれなかった。
朱音は今、明らかに張り合っている。
それも依子の“静かな近さ”に対して、生活そのものの距離で勝ちに行こうとしている。
朝起こす。
朝飯を作る。
弁当まで持たせる。
同居人としてはだいぶ強い。
ただし、本人が不器用だから、頑張りが全部見える。
そこがまた、かわいそうで可笑しいのだ。
「そういえば」
大友が唐突に言った。
「春休み前って、予定どうなる?」
「予定?」
「いや、イベント」
「何の」
「年度末感あるやつ」
「雑だな」
「だって、何かそういうのあるだろ。最後に遊ぶとか、クラスでどっか行くとか」
「うちのクラスそこまで仲良くはないだろ」
「まあな」
「でも確かに、この時期って無駄に“今のうちに”感出るよね」
ひなたが頷く。
その“今のうちに”という言葉に、少しだけ引っかかる。
今のうちに。
今の距離が、ずっとこのままだとは限らない。
クラスも変わるかもしれない。
部活の時間も変わるかもしれない。
春休みが終われば、また新しい日常が来る。
まだ何も決まっていないのに、空気だけが先にそう教えてくるのだ。
午後の授業は、そういう意味で妙に集中できなかった。
別に恋愛のことばかり考えていたわけじゃない。
ただ、今の生活が少しずつ“今だけのもの”に見えてきているのだ。
放課後、教室を出るとき、依子が俺の少し前を歩いていた。
こちらに気づくと、速度をわずかに落とす。
「帰る?」
その一言が、最近もう自然になりすぎている。
「うん」
「じゃあ、一緒でいい?」
「最近毎回それ聞くな」
「だって聞いた方がいいかなって」
「どうせ断らないって思ってるだろ」
「思ってる」
「即答かよ」
依子は少しだけ笑って、俺と歩幅を合わせた。
校門を出る。
夕方の空は少し白っぽくて、風はまだ冷たい。けれど冬の鋭さはもう薄れている。街の色が少しだけやわらいで見えた。
「今日、教室なんか変な空気だったね」
依子が言う。
「春前だからじゃない?」
「それはある」
「みんな、まだ何も始まってないのに、終わる方の話もするし」
「分かる」
「変だよね」
「変だけど、そういうもんなんだろうな」
依子は少し考えるようにしてから、静かに言った。
「私、この時期ちょっと苦手かも」
「そうなのか」
「うん」
「なんで」
「落ち着かないから」
「……」
「まだ今のままでもいいのに、みたいな空気が来るでしょ」
「それは……」
少しだけ驚いた。
「俺も今日ちょっと思った」
「ほんと?」
「うん」
「そっか」
依子はほんの少しだけ嬉しそうだった。
「何だよ」
「同じこと思ってたから」
「それでそんな顔するのか」
「するよ」
「……」
「だって、うれしいし」
また、そうやって真っ直ぐ言う。
俺は少しだけ視線を逸らした。
最近、依子のこういうところに慣れてきている気がして、それが少し嫌だった。いや、嫌というより、危ない気がするのだ。
「でも」
依子が続ける。
「鬼塚さんは、もっと落ち着かないだろうね」
「……たしかに」
「高校入って、引っ越して、生活変わって、その上もう春休みだもん」
「情報量多いな」
「多いよね」
「お前、朱音にだいぶ優しいな」
「そう?」
「前より」
「うーん」
依子は少しだけ首を傾げる。
「たぶん、ちょっと分かってきたからかも」
「何が」
「鬼塚さんって、分かりやすく構えるけど、本当はちゃんと不安なんだなって」
図星だった。
そして、俺もたぶん最近そう思っている。
朱音は強がる。
でも、強がる必要がある時点で、平気ではない。
ハイツの前へ着く頃には、帰り道はまたあっという間に終わっていた。
「……短いな」
俺が小さく言うと、
「ね」
と依子が言う。
「やっぱり」
「何がやっぱりだよ」
「恒一くんも思うんだなって」
「思うよ、そりゃ」
「よかった」
その“よかった”がまた、少しだけずるい。
101号室の前へ行くと、すでに中から気配がした。
玄関を開ける前に分かるくらい、生活の音がある。
台所で何かを切る音。
鍋のふたが軽く触れる音。
テレビではない、人の暮らしの音。
「ただいま」
と、俺が玄関を開けながら言うと、
「遅い」
と、すぐ返ってきた。
早い。
反応が早すぎる。
依子が隣で少し笑う。
「鬼塚さん、ちゃんと待ってるんだね」
「待ってない」
と朱音が即座に言う。
「ただ時間が予定より後ろへずれただけだ」
「それを普通は待ってるって言うんだよ」
「言わない」
「言う」
朱音はエプロン姿ではなかったが、カーディガンの袖を少しだけまくっていて、まな板の上には切りかけのねぎがある。
つまり、夕飯の途中だった。
依子はそれを見て、小さく目を細めた。
「すごいなあ」
「何がだ」
「ちゃんと、帰ってくる時間に合わせて動いてる」
「合わせてはいない」
「そう?」
「たまたまだ」
「じゃあ、たまたまの精度が高いんだね」
朱音が少し黙る。
依子は本当にこのあたりが強い。
「白沢」
と、俺は言う。
「もう戻るだろ?」
「え?」
依子が少しだけ驚いた顔をする。
「追い返してる?」
「違う。違うけど」
「じゃあ?」
「……このままだと、空気がもたない」
「ふふ」
依子は小さく笑った。
「正直だね」
「最近もう隠しても無駄だと思ってる」
「それはちょっと寂しいかも」
「そう言うな」
「冗談」
「半分本気だろ」
「半分だけね」
依子はそう言って、俺と朱音を交互に見た。
「じゃあ、私は戻る」
「うん」
「また明日」
「また明日」
102号室のドアが閉まる。
その途端、101号室のDKに、妙な静けさが落ちた。
朱音はねぎを切る手を止めたまま、ちらっと俺を見る。
「……何だ」
「いや」
「何だ」
「お前、最近ちょっとだけ大人しくなったなと思って」
「誰がだ」
「白沢に対して」
「……」
「前ならもっと分かりやすく噛みついてただろ」
「噛みついてなどいない」
「言い方の問題じゃない」
「……」
朱音は少しだけ視線を伏せた。
「別に」
「うん」
「敵対の形を変えただけだ」
「それを普通は大人しくなったって言う」
「違う」
「違わないって」
でも、そこには少しだけ成長がある。
少なくとも、前みたいに“敵だから即排除”ではなくなっている。
相手がどういう人間かを見て、その上でやり方を変えている。
……まあ、張り合っていること自体は変わらないのだが。
「で」
朱音がねぎを切りながら言う。
「今日の帰りはどうだった」
「どう、って」
「春前の気配がどうとか、白沢と何を話したとか」
「気になってるなあ」
「情報共有は重要だ」
「最近その理屈ばっかだな」
「使い勝手がいい」
つい笑ってしまう。
俺は鞄を置いて、カーディガンを脱ぎながら答えた。
「春前って落ち着かないよな、みたいな話」
「……そうか」
「あと、今のままでもいいのに、空気だけ先に変わる感じが嫌だって」
「誰が言った」
「白沢」
「……」
「でも俺もちょっと思った」
「……そうか」
その返事は、昼間より少し静かだった。
「お前も?」
俺が聞くと、
朱音は包丁を置いた。
「……少し」
「うん」
「まだ、何も終わっていないのに」
「うん」
「次の話をされると、妙に急かされる」
「分かる」
「だから」
朱音は少しだけ考えるようにしてから言う。
「今のうちに、慣れておかねばならぬのだと思う」
「何に」
「この生活に」
「……」
「お前と住むことにも、この部屋にも、学校にも」
「朱音」
「何だ」
「お前、今日は妙に素直だな」
「うるさい」
即座に返ってきた。
「今のは取り消す」
「遅いよ」
「お前が余計なことを言うからだ」
「はいはい」
でも、今の言葉はちゃんと本音だろう。
春休みの手前で、人間関係だけ少し先に進みたがる。
学校の空気がそうだからかもしれない。
季節がそうだからかもしれない。
それとも、俺たち自身が、今の距離をもう少し変え始めているのかもしれない。
俺は台所へ行って、朱音の隣で鍋の中を覗いた。
「何作ってる?」
「豚汁」
「いいな」
「うむ」
「手伝う?」
「……少しだけ許可する」
「上からだな」
「支援要請だと思え」
「便利な言い換えだな」
俺が横に立つと、朱音は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
それはたぶん、気のせいではない。
まだ春は来ていない。
でも、その手前で、少しずつ生活だけが馴染んでいく。
そういう時期なのだと思う。




