第10話 従妹は負けたくない相手がいると、だいたい空回る
次の日の朝、俺は目覚ましより先に妙な音で目を覚ました。
がたん。
続いて、からん。
最後に、低く押し殺した声で、
「……くっ」
という、明らかに何か失敗した人間の声。
俺は布団の中でしばらく天井を見て、それから諦めて起き上がった。
時間はまだ六時半前。
いつもより早い。
そしてこの時間にDKから物音がするということは、まず間違いなく朱音だ。
昨夜の様子からして、何か企んでいる気配はあった。
いや、“企んでいる”は語弊があるか。正しくは、“変に気合いが入っている”だ。
引き戸を開けてDKへ出る。
すると、案の定だった。
「……何してんだ、お前」
「見るな」
と、即座に返ってくる。
「いや見えるだろ」
「ならば視線を逸らせ」
「無茶言うなよ」
流し台の前で、朱音がフライパンと格闘していた。
黒い長袖の上に、なぜか昨日の買い物で見かけた新しいエプロンをつけている。色は暗めの紺で、本人の趣味にしてはだいぶ実用寄りだ。問題はそこではなく、フライパンの中身だった。
……スクランブルエッグ、なのだろうか。
たぶんそうなんだろう。
でもだいぶ形状が怪しい。
その横には、少し焦げたソーセージ。
さらにテーブルの上には、おそらく弁当箱になる予定の空の容器が二つ。
つまり状況は明白だった。
「弁当?」
「答える義理はない」
「そういうときは大体そうなんだよ」
「……」
「何だよ」
「推理が浅い」
「浅いのか?」
「これは単なる弁当ではない」
「じゃあ何」
「戦略的生活優位性の確保だ」
「弁当だよ、それは」
朱音が悔しそうに唇を結ぶ。
でも、その悔しさはたぶん俺に論破されたからじゃない。
目玉焼きだかスクランブルエッグだかよく分からないものの焼き加減が、明らかに本人の想定とズレているからだ。
俺は少しだけ近寄って、流し台の上を見る。
卵の殻。
開封されたウインナー。
切りかけのブロッコリー。
なぜか端に置かれたミニトマト。
冷蔵庫から出したままのハム。
「……だいぶ本気じゃん」
「何がだ」
「弁当」
「だから違う」
「じゃあ何」
「朝の補給と昼の補給を同時に確保しているだけだ」
「それを普通は弁当って言うんだよ」
俺がため息をつくと、朱音はフライ返しを持ったまま睨んできた。
「お前は昨日」
「昨日?」
「帰りが少しだけ遅かった」
「……あー」
「そして今朝も、微妙にぼんやりしていた」
「何の話?」
「隣室個体の影響だろう」
「その言い方やめろって」
「なら否定しろ」
「いや、別に影響っていうほどじゃ」
「あるのか、ないのか」
「ちょっと面倒だな今の会話」
「逃げるな」
朱音がそう言った直後、じゅっ、と嫌な音がした。
「あ」
「ほら焦げた」
「黙れ」
「火、ちょっと弱めろ」
「分かっている!」
分かっていないから焦げているのでは。
だがさすがにそれを口にすると本格的に不機嫌になるので、俺は黙って炊飯器の中身を確認した。ちゃんと炊けている。そこは偉い。
「起こしてくれればよかったのに」
俺が言うと、
「なぜだ」
と朱音。
「一人でできる」
「いや、できてないだろ今」
「これは一時的な誤差だ」
「誤差で朝飯燃やすな」
「燃やしてはいない! 少し熱量が過剰になっただけだ!」
「料理下手なやつの言い訳なんだよな、それ」
朱音は悔しそうに黙り込んだ。
だが、そこで引くような従妹ではない。
「お前は」
「何」
「昨日、“同居の近さ”がどうのと言っていただろう」
「言ってたっけ」
「言っていた」
「まあ、そういう話はしたかも」
「ならば」
朱音はフライパンの火を止めて、こっちを見た。
「近さとは、積み重ねるものだ」
「……」
「朝起こす。食を整える。生活を回す。そういうものの総体だ」
「うん」
「我はそれを実行している」
「うん」
「だから」
「うん」
「昨日の夜の件くらいで、ふらふらするな」
「言い方!」
思わず笑ってしまった。
そうか。
要するに張り合っているのだ。
白沢依子の“静かに近い”に対して、朱音は“生活そのものの近さ”で勝ちにいこうとしている。
理屈としては間違っていない。
ただ、本人がそれを不器用にやるから全部可笑しくなる。
「笑うな」
「いや、だって」
「笑うな」
「分かった分かった」
俺は手を上げた。
「で、どうする。続ける?」
「当然だ」
「手伝うぞ」
「不要」
「いや、でも」
「不要だ」
「焦げてるけど」
「不要だ!」
いきなり大声を出すな。
けれど、そこまで強がるなら一回任せるしかない。
俺は流し台から少し離れて、テーブルの椅子に座った。
「じゃあ見てる」
「それも腹立つ」
「注文多いな」
「お前が悪い」
朱音はそう言って、今度はブロッコリーへ取りかかる。
包丁さばきはそこそこまともだ。
ただし、力みすぎて切る音が無駄に強い。
「……お前、そんなに悔しいのか」
俺がぽつりと聞くと、
朱音はしばらく無言だった。
「何がだ」
「白沢のこと」
「……」
「やっぱりそうなんだ」
「違う」
「違わない顔してる」
「違う」
「二回言うときは大体」
「違う」
だが、そのあとでぽつりと続ける。
「……負けたくないだけだ」
「何に」
「全部に」
「雑だな」
「雑ではない」
朱音は包丁を置いた。
「我は」
「うん」
「お前より一年遅れてここへ来た」
「まあ、そうだな」
「部屋も、学校も、生活も、お前の方が先に慣れている」
「……」
「その上、隣にはああいうのがいる」
「ああいうのって」
「静かで、気が利いて、妙に自然なやつだ」
「依子の評価、割と正確だな」
「褒めてはいない!」
そこでまたミニトマトを落とした。
ころころと床を転がっていく。
「ほら」
「うるさい」
「洗って使えばいいだろ」
「分かっている!」
俺は椅子から立ち上がって、転がったトマトを拾う。
水で軽く洗って、流し台の端に置いた。
「……ありがとう」
朱音がものすごく小さい声で言った。
「聞こえない」
「礼など言っていない」
「今言っただろ」
「幻聴だ」
「便利だな、お前も」
朱音は頬を少し赤くしながら、今度は弁当箱におかずを詰め始めた。
見た目は、まあ、完璧ではない。
卵は少し崩れているし、ソーセージも一本だけやや黒い。ブロッコリーは大きさが不揃いだ。
でも食えないものではない。
少なくとも、ちゃんと“誰かのために作った形”にはなっている。
「……弁当箱、二つ?」
俺が改めて聞くと、
「当然だ」
「俺のもあるのか」
「なければこの数にならん」
「そっか」
「何だ、その反応は」
「いや、嬉しいなって」
「……」
「何」
「そういうのを」
朱音は弁当箱のふたを閉めながら、顔を逸らした。
「軽く言うな」
「軽くじゃないって」
「軽く聞こえる」
「じゃあ、どう言えばいいんだよ」
「知らぬ」
「難しいなあ」
でも、嬉しいのは本当だった。
誰かが自分の分まで朝から作ってくれる。
それはもう、生活のかなり深いところに入り込んでいる。
依子の近さとは種類が違う。
そしてたぶん、朱音はそこをちゃんと理解して、理解しているからこそ張り切っている。
……張り切り方が不器用すぎるだけで。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽーん。
俺と朱音が同時に振り向く。
「まさか」
と、朱音が言う。
「いや、朝からはないだろ」
「お前の認識は甘い」
「何の認識だよ」
ドアを開けると、そこに立っていたのは案の定、白沢依子だった。
「おはよう」
にこやかである。
「……おはよう」
「ちょっと早かった?」
「いや、ちょうど朝」
「そうだね」
依子は俺の返答より先に、ふわっと漂ってきた匂いに気づいたらしい。
「わ、いい匂い」
「……」
俺が反応するより先に、DKの空気がぴんと張った。
「朝ごはん作ってたんだ」
依子が少しだけ目を丸くする。
「鬼塚さん?」
「……そうだが」
朱音が、ものすごく警戒した声で答える。
依子は一瞬だけ朱音を見て、それから本当に感心したみたいに言った。
「すごいね」
「……」
「朝からちゃんと作るの、大変なのに」
「……」
「しかもお弁当も?」
「……」
「えらいなあ」
そこまで正面から褒められると、怒る方が難しい。
朱音は明らかにやりにくそうな顔をした。
「べ、別に」
と、ようやく出てきたのはそんな一言だった。
「その程度、当然だ」
「うん」
依子はまっすぐ頷く。
「でも、当然にできるのってすごいよ」
……強い。
やっぱりこの人、会話の返しが強い。
しかも今は、朱音がいちばん欲しい言葉を、いちばん刺さる形で投げている。
「どうしたの?」
俺が聞くと、依子は小さな紙袋を持ち上げた。
「昨日、近くのパン屋さんで買ったの余ってて」
「また差し入れ?」
「うん。朝、甘いのあるとちょっと元気出るかなって」
「お前ほんとタイミングいいな」
「そう?」
「そう」
「じゃあ、よかった」
紙袋の中から小さめの焼き菓子パンが見える。
しかもたぶん、個包装で分けやすいやつだ。
気が利きすぎている。
そして朱音が、今度は露骨に俺を見る。
“お前、受け取るのか?”と顔に書いてあった。
面倒くさいなあ、と思いつつも、断る理由はない。
「ありがとう」
と俺が受け取ると、
依子は柔らかく笑った。
「どういたしまして」
「……」
「鬼塚さんも、よかったら」
「我は」
朱音が口を開き、
少しだけ止まる。
「……あとで考える」
「うん」
その“あとで考える”が、ほぼ受け取るやつなんだよな。
依子はそこで、テーブルの上の弁当箱に気づいた。
「ちゃんと二つある」
「見るな」
「見えるよ」
と依子。
「いいな」
「何がだ」
「そうやって一緒に朝準備できるの」
「……」
「私はそういうの、ちょっと憧れる」
静かな声だった。
ほんの少しだけ羨ましそうで、だからこそ妙に本音っぽい。
朱音もそれにはすぐ返せなかった。
たぶん、同じことを思ったのだろう。
こっちはこっちで、隣から静かに近づいてくる相手がいて、でも相手は相手で“一緒に暮らす近さ”を持っていない。
つまり結局、どちらにもないものがある。
「……」
少しだけ沈黙が落ちる。
この空気、どうするんだと思った瞬間。
じりっ。
「え」
俺が振り向く。
「……あ」
朱音も振り向く。
フライパンの火が、まだ完全には止まっていなかったらしい。
さっき残していたソーセージの一本が、見事に追加で焦げていた。
数秒の静寂。
次の瞬間、俺は吹き出した。
「ははっ」
「笑うな!」
朱音が真っ赤になる。
「そこ、今笑うところじゃないだろう!」
「いや、ごめん、ごめんって」
「笑っている!」
「だって完璧っぽく決めた流れで最後にそれはずるいだろ」
「ずるくない! 不測の事態だ!」
「不測っていうか火消し忘れだよ」
「うるさい!」
依子も、最初は驚いていたが、そこでふっと笑った。
「鬼塚さん」
「何だ!」
「すごく頑張ってるの、分かるよ」
「……」
「ちょっと空回ってても、ちゃんと伝わるから大丈夫」
「……」
朱音はしばらく黙り込んだ。
怒るでもなく、反論するでもなく、ただ少しだけ唇を引き結んでいる。
その顔を見て、俺はようやく笑いを止めた。
「……まあ、うん」
俺はフライパンをコンロから下ろしながら言う。
「伝わってるよ」
「何がだ」
「いろいろ」
「雑だな」
「雑だけど」
俺は少し肩をすくめる。
「ちゃんと頑張ってるのも、張り合ってるのも、俺の分まで作ってくれたのも」
「……」
「ありがとな」
朱音は数秒止まっていた。
それから、ゆっくりと顔を逸らす。
「……当然だ」
いつもの返しだ。
でも声は少し小さかった。
「じゃあ、冷めないうちに食べよう」
依子が言う。
「私、邪魔しちゃったし」
「いや、別に」
「白沢」
と、朱音が急に言った。
「うん?」
「……パンは、置いていけ」
「え?」
「その……」
朱音が少しだけ言葉に詰まる。
「補給物資として、活用できる」
「……うん」
依子は少しだけ笑って、紙袋をテーブルへ置いた。
「じゃあ、よろしくね」
「うむ」
「あと、鬼塚さん」
「何だ」
「今度、お弁当の中身見せて」
「は?」
「参考にしたい」
「……」
「私、そこまでちゃんと作れないから」
「……そうか」
「だから、ちょっとすごいなって思った」
その言い方は、またしても怒りづらい。
朱音は結局、「ふん」とだけ返した。
依子が帰ったあと、101号室の朝は少しだけ静かになった。
俺は焼きすぎたソーセージを皿へ移しながら、横目で朱音を見る。
朱音は弁当箱を自分の方へ引き寄せ、少しだけ俯いていた。
「……何」
俺が聞くと、
「別に」
と返る。
「機嫌悪い?」
「悪くない」
「じゃあ照れてる?」
「死にたいのか」
「やめとく」
でも、その否定の仕方はだいぶ図星だ。
俺は笑いそうになるのをこらえて、味噌汁を温め直す。
パン屋の差し入れもテーブルに置いたままだ。
生活の近さと、隣人の近さ。
その二つが同じ朝の食卓に並んでいる。
やっぱり面倒だな、この環境。
でも、その面倒くささを少しだけ楽しいと思ってしまう自分もいる。
「恒一」
「何」
「弁当の件だが」
「うん」
「今後も継続する可能性はある」
「可能性なんだ」
「確定ではない」
「はいはい」
「その、だから」
「うん」
「……焦げた件は忘れろ」
「無理だろ」
「無理ではない」
「だって今も目の前にあるぞ」
「今すぐ食え」
「証拠隠滅の発想が雑なんだよ」
結局、俺は焦げ気味のソーセージを食べた。
少し苦かった。
でも、それもたぶん、今朝の空回り全部込みで悪くなかった。




