第8話 元婚約者の来襲!「カツカレー」対決
その日、ヴォルグ辺境伯領の空は、不穏なほどに晴れ渡っていた。
城門をくぐってきたのは、王家の紋章が刻まれた豪奢な馬車。
護衛の近衛騎士団を引き連れ、威圧的に乗り込んできたのは、この国の王太子オズワルドと、その婚約者である聖女ミリアだった。
「ふん、なんて埃っぽい場所だ。こんな僻地に私のセシリアが幽閉されているとはな」
馬車から降りたオズワルド殿下は、ハンカチで鼻を覆いながら周囲を見回した。
金髪碧眼、見た目だけは童話の王子様そのものだが、その性格は尊大で、何より絶望的な味音痴だ。
「ええ、酷い臭いがしますわ。獣の脂のような、野蛮な臭いが……」
隣で眉をひそめる聖女ミリア。
ピンク色の髪を揺らし、いかにも可憐な風情を装っているが、私を冤罪で陥れた張本人だ。
彼女の言う「野蛮な臭い」とは、城の厨房から漂う美味しい出汁の香りのことだろう。
出迎えに出たギルバート様は、二人の無礼な態度に、氷点下の視線を送っていた。
「……何用だ、殿下。私の領地は観光地ではないのだが」
「挨拶もなしか、辺境伯。用件は分かっているだろう? セシリアを返してもらおうか。あのような下品な『揚げ物』料理で民を惑わしていると聞いた。王家として見過ごすわけにはいかん」
オズワルド殿下が私を指差した。
私はギルバート様の後ろから半歩踏み出し、優雅にカーテシー(礼)をした。
「お久しぶりです、殿下。下品とは心外ですね。民たちは笑顔で食べてくれていますよ」
「黙れ! 油で揚げた肉など、品位のない者が食べる餌だ! 聖女ミリアの作る、清らかな料理を見習うがいい!」
ミリアが勝ち誇ったように胸を張る。
「そうですわ、お姉様。料理とは、見た目の美しさと、素材そのものの味を楽しむもの。あなたの料理は、濃い味付けで素材を殺しているだけですわ」
カチン、ときた。
私の料理を馬鹿にするのはいい(よくないけど)。
でも、揚げ物が「素材を殺している」ですって?
とんでもない。揚げるという行為は、素材の水分と旨味を衣の中に閉じ込め、極限まで高める究極の調理法なのよ!
「……そこまで仰るなら、勝負しましょうか」
「勝負?」
「はい。私が作る料理と、ミリア様が作る料理。どちらが本当に人を幸せにできるか。……この場にいる全員が審判です」
私が提案すると、オズワルド殿下は鼻で笑った。
「よかろう。その身の程知らずな根性、叩き直してくれる!」
◇
場所は城の大食堂。
キッチンは二つに分けられ、料理対決が始まった。
聖女ミリアが作っているのは、『天使の雫』という名のゼリー寄せらしい。
高級な果物と野菜を、透明な寒天で固めただけの代物だ。
確かに見た目は宝石のようにキラキラしているが、それだけだ。
匂いもしないし、熱もない。
対して、私が用意したのは、辺境で採れたスパイスの数々と、熟成されたオーク肉。
今日のメニューは、人類が生み出した最強のワンプレート。
『カツカレー』だ。
まずはカレーソース作りから。
大鍋にたっぷりの油を敷き、みじん切りにした『甲羅玉ねぎ』を投入する。
弱火でじっくり、焦げる寸前まで炒め続ける。
玉ねぎが飴色を超え、黒褐色のペースト状になるまで。これがコクの正体だ。
そこに、すりおろしたニンニク、ショウユガ(生姜)、そして数十種類のスパイスを投入する。
黄金色の『ターメリック』、刺激的な『クミン』、香りの女王『カルダモン』。
異世界のスパイスたちを、私の感覚で調合していく。
――ジュワッ!
スパイスが油と出会い、爆発的な香りを放った。
換気口を通じて、食堂中にスパイシーな刺激臭が充満する。
「な、なんだこの鼻が痛くなるような匂いは!」
「くしゃみが出そうですわ!」
敵陣営が騒いでいるが、無視だ。
ここに、魔獣の骨と香味野菜を三日間煮込んだ『フォンドヴォー(出汁)』を注ぎ入れる。
ジューッ……コトコトコト。
鍋の中で、複雑怪奇な旨味の小宇宙が形成されていく。
カレーを煮込んでいる間に、相棒の準備だ。
主役級の存在感を放つ、『ロースカツ』。
今回はカレーとの相性を考え、少し薄めにカットした肉を使う。
衣は細かめのパン粉を使用。
ルーと絡みやすく、かつサクサク感を維持するためだ。
百八十度の油へ、肉を滑り込ませる。
――パチパチパチッ!
軽快な破裂音。
スパイシーなカレーの香りと、香ばしいラードの香りが混ざり合い、食堂は「飯テロ」の毒ガス室と化した。
近衛騎士たちが、落ち着きなく体を揺すっている。
鼻をひくつかせ、視線は私の鍋に釘付けだ。
ギルバート様はといえば、腕を組んでドヤ顔をしている。
「どうだ、俺のセシリアは凄いだろう」と顔に書いてある。
「完成よ!」
深皿に、白く輝く炊きたてのご飯を盛る。
その横に、揚げたてサクサクのロースカツを、食べやすい幅に切って乗せる。
ザクッ、という音が食欲を煽る。
そして上から、漆黒に近い濃厚なカレーソースを、カツの半分にかかるようにドロリとかける。
湯気と共に立ち昇る、暴力的なまでの香り。
『最強のスタミナ・カツカレー』の降臨だ。
◇
「さあ、審査の時間です」
テーブルには二つの料理が並べられた。
一つは、涼しげで美しいが、無機質なゼリー。
もう一つは、茶色一色だが、圧倒的な熱量と香りを放つカツカレー。
「まずは私の料理から召し上がって」
ミリアが自信満々にゼリーを差し出した。
オズワルド殿下はそれを口にし、「うむ、上品な味だ。素材の味が生きている」と褒めた。
だが、ギルバート様は一口食べてスプーンを置いた。
「……味がしない。水か?」
「なっ! 繊細な風味ですわ!」
「戦場の兵士にこれを食わせてみろ。暴動が起きるぞ」
一刀両断だった。
続いて、私のカツカレーの番だ。
オズワルド殿下は、目の前に置かれた黒い皿を睨みつけた。
「なんだこの泥のような料理は。それに、この刺激臭……鼻が馬鹿になりそうだ」
「まあ、食べてみてください。文句はそれから聞きます」
殿下は渋々、スプーンを手に取った。
カツとご飯、そしてルーをバランスよく掬い上げる。
恐る恐る口へと運んだ。
パクッ。
一瞬の静寂。
殿下の動きが止まる。
カリッ、ザクッ。
咀嚼音が響く。
「……!?」
殿下の目がカッと見開かれた。
碧眼が泳ぎ、額から汗が噴き出す。
「な、なんだこれは……! 辛い! 舌が痺れるほど辛いのに……甘い!?」
「玉ねぎを限界まで炒めて甘みを出していますから」
「それに、この揚げた肉だ! ドロリとしたソースが絡んでいるのに、衣が死んでいない! サクサクとした食感を残しつつ、噛み締めれば肉の脂とソースのスパイスが口の中で混ざり合う!」
殿下の手が、自分の意思とは裏腹に、二口目を掬っていた。
「辛い、熱い、でも止まらん! この白い飯だ! この刺激的なソースが、淡白な米と合わさることで、とてつもない破壊力を生んでいる!」
「殿下!? そのような下品な料理、食べるのをやめてくださいまし!」
ミリアが悲鳴を上げるが、殿下には届いていない。
彼は上着を脱ぎ捨て、額の汗を拭うことも忘れ、一心不乱にスプーンを動かしている。
「うまい……なんだこの中毒性は。体が熱い、血が滾るようだ!」
一方、ギルバート様はといえば。
「……んぐっ、はふっ! これだ……俺が求めていたのはこれだ!」
すでに三口目で皿の半分を平らげていた。
「トンカツだけでも美味いのに、この『カレー』という黄金のソースと合体することで、神の食べ物に進化している! カツの脂っこさをスパイスが切り、スパイスの刺激を米が受け止める。永久機関だ!」
ギルバート様は恍惚の表情で、カツの端っこ――一番脂が乗っていて美味しい部分――を口に放り込んだ。
「セシリア! おかわりだ! 鍋ごと持ってこい!」
「はいはい、ありますよ」
その光景を見て、周囲の近衛騎士たちがついに我慢の限界を迎えた。
「で、殿下……俺たちにも……」
「あの匂い、拷問です……」
「一口……ルーだけでも……」
騎士たちがミリアのゼリーには目もくれず、カレー鍋に向かってジリジリと近づいてくる。
勝負ありだ。
「そ、そんな……私の料理が、こんな茶色い塊に負けるなんて……」
ミリアが崩れ落ちる。
オズワルド殿下は、完食した皿を名残惜しそうに舐めるように見つめ、ハッと我に返った。
自分の醜態に気づき、顔を真っ赤にする。
「くっ……! み、認めん! こんなものは料理ではない、麻薬だ!」
「あら、完食なさいましたけど?」
「うっ……! た、たまたま腹が減っていただけだ!」
殿下は震える指で私を指差した。
「覚えておけ! 今日は引くが、次は必ず貴様を断罪してやる! 行くぞ、ミリア!」
「ちょ、殿下!? 私のゼリーは!?」
逃げるように去っていく殿下と、慌てて追いかける聖女。
その後ろ姿を見送りながら、ギルバート様がおかわりを片手に満足げに笑った。
「……ふん。口ではあんなことを言っていたが、胃袋は正直なようだな」
「ええ。殿下、帰り際にお弁当用にとタッパーに入れたカレー、こっそり持って行かれましたよ」
「なにっ!? 貴様、なぜ敵に塩を送る!」
「塩じゃなくてカレーです。それに、一度あの味を知ってしまったら、もう王宮の薄味料理には戻れませんよ」
私はニヤリと笑った。
スパイスの沼は深い。
次に会う時、殿下はきっと『カレー禁断症状』で震えながら、レシピを乞うことになるだろう。
「……それよりセシリア。あいつが持って行った分、俺の分が減ったんじゃないだろうな?」
ギルバート様が鋭い目で鍋の中身を確認しに来る。
この国の最強騎士様は、カレーの残量が何よりの懸念事項らしい。
「大丈夫です。閣下の分は、カツ二枚乗せで取っておきましたから」
「……愛している」
「はいはい」
カレーの香りが染み付いた食堂で、私たちは笑い合った。
王太子の襲来すらも、カツカレーの前ではただのスパイスにしかならなかったようだ。
さて、次はどんな料理で、この平和(?)な日常を守り抜こうかしら。
私は空になった大鍋を洗いながら、次なるメニューに思いを馳せた。




