第7話 王都からの使者と「南蛮漬け」
ヴォルグ辺境伯領の城に、招かれざる客がやってきたのは、昼下がりのことだった。
応接間に通されたその男は、いかにも神経質そうな銀縁眼鏡をかけ、仕立ての良い――しかし、旅の埃で少し薄汚れた――服を着ていた。
王都から派遣された使者、モルトン子爵だ。
「単刀直入に申し上げます、ヴォルグ辺境伯」
モルトン子爵は、ソファーにふんぞり返るギルバート様を前に、ハンカチで額の汗を拭いながら甲高い声を上げた。
「オズワルド王太子殿下が、セシリア嬢の返還を求めておられます。彼女は聖女毒殺未遂の罪人。本来なら処刑されるはずでしたが……何やら『妙な料理』で辺境の人々を惑わせているとか」
「……惑わせている、だと?」
ギルバート様の眉間がピクリと跳ねた。
室内の温度が三度は下がった気がする。背後に控える騎士たちが、剣の柄に手をかけているのが見えた。
「ええ。殿下は寛大にも、『その料理のレシピを全て置いていくなら、罪を減刑し、側室として迎えてやってもよい』と仰せです」
「……ほほう」
ギルバート様が低い、地を這うような声を出した。
あ、これキレる5秒前だ。
魔王モードに入る前に止めなきゃ。
「お待ちください、使者殿」
私はお盆を持って、二人の間に割って入った。
「セシリア嬢! 罪人の分際で、話に割り込むとは!」
「まあまあ。王都からの長旅、さぞお疲れでしょう? お話の前に、少しお腹を満たしてはいかがですか」
私はにっこりと微笑んだ。
モルトン子爵の顔色は優れない。旅の疲れと、辺境の慣れない気候で食欲が落ちているのだろう。
唇は乾き、肌はカサカサだ。
そんな時に、こってりしたステーキや、ただ甘いだけのお菓子を出しても逆効果だ。
今、彼に必要なのは『酸味』。
疲れた体をシャキッと目覚めさせる、爽やかな酢の力だ。
「ふん、辺境の野蛮な料理など、喉を通るとは思えんが……」
「毒見は私が済ませております。さあ、どうぞ」
◇
私がテーブルに置いたのは、涼しげなガラスの深皿だった。
中には、色とりどりの細切り野菜と、黄金色に揚げられた小魚が、透き通ったタレに浸っている。
今日のメニューは、『小アジの南蛮漬け』だ。
メイン食材は、近くの港町で水揚げされたばかりの『豆アジ』。
指先ほどの小さな魚だが、骨まで柔らかく、旨味が凝縮されている。
調理法は至ってシンプルだが、コツがいる。
まずは豆アジのエラと内臓を取り除き、片栗粉を薄くまぶす。
これを低温の油でじっくりと揚げる。
水分を飛ばし、骨までカリカリにするためだ。
そして仕上げに高温で二度揚げ!
ジュワアアッ!
この音が、魚の臭みを消し去り、香ばしさを纏わせる。
熱々の揚げたてを、即座に『南蛮酢』の海へとダイブさせる。
ここが一番のポイントだ。
『ジューッ……』
熱い魚が冷たいタレを吸い込む音。
タレは、穀物酢にショウユ、砂糖、そして隠し味にこの地方特産の柑橘『シトロン』の果汁を絞ったものだ。
具材は、千切りにした甘味人参、甲羅玉ねぎ、そしてピリリと辛い赤唐辛子。
野菜のシャキシャキ感と、タレを吸ってふっくらした魚のコントラスト。
「……なんだこれは。魚か? 頭がついたままではないか」
モルトン子爵が顔をしかめた。
王都の貴族は、魚の頭や骨を嫌う。フィレしか食べたことがないのだ。
「頭から丸ごと食べられますよ。カルシウム満点です」
「野蛮な……。まあいい、一口だけだぞ」
彼は嫌々といった手つきでフォークを取り、タレに浸った豆アジを一匹突き刺した。
ポタ、とタレが滴る。
鼻を近づけると、ツンとした酢の香りと、シトロンの爽やかな香りが混ざり合って漂った。
「む……? 意外と良い香りだ」
彼は意を決して、魚を口に運んだ。
ガリッ、サクッ、ジュワッ。
静かな応接間に、軽快な音が響く。
「……ッ!?」
モルトン子爵の目が、眼鏡の奥で丸くなった。
彼は口元を押さえ、信じられないという顔で私を見た。
「骨が……ない? いや、あるはずなのに、口の中で砕けていく! まるでスナック菓子のようにサクサクだ!」
「じっくり二度揚げしていますからね」
「それに、なんだこのタレは! 揚げ物なのに、まったく油っこくない! 強烈な酸味が、旅の疲れで重かった胃袋を刺激して……唾液が溢れて止まらん!」
酸っぱい、でも美味い。
酸味が脂を切り、その後に魚の旨味と野菜の甘みが追いかけてくる。
シトロンの香りが鼻に抜け、頭の中がクリアになっていく感覚。
これが『クエン酸回路』の魔法だ。
「この野菜もだ! タレが染みてしんなりしているのに、歯ごたえが残っている。玉ねぎの辛味が消え、甘みに変わっているぞ!」
モルトン子爵のフォークが加速した。
一匹、また一匹。
最初は「一口だけ」と言っていたのが嘘のように、彼は皿の中の魚を次々と口へ運んでいく。
額に玉のような汗が浮かぶ。
それは冷や汗ではなく、代謝が上がったことによる健康的な汗だった。
「うまい、うまいぞ! 王都の宮廷料理人が作るテリーヌなどより、この名もなき魚料理の方が、遥かに体に染み渡る!」
彼はついに皿を持ち上げ、残ったタレと野菜まで飲み干す勢いだ。
その顔には、入室してきた時の陰鬱さは微塵もなく、血色の良い笑顔が浮かんでいた。
「ふぅ……生き返った。まさか、これほど食事が楽しいものだとは」
満足げに息を吐く子爵。
そこで、ギルバート様が静かに口を開いた。
「……で? セシリアを連れて行く話はどうなった」
ギルバート様の冷ややかな声に、子爵はハッと我に返った。
彼は空になった皿と、私の顔、そして鬼の形相のギルバート様を見比べ……。
コホン、と一つ咳払いをした。
「……いえ。前言を撤回いたします」
「ほう?」
「正直、ここに来るまでは『たかが料理』と侮っておりました。しかし、この一皿で理解しました。彼女の料理には、人を内側から癒やす力がある」
子爵は眼鏡の位置を直しながら、真剣な眼差しで私を見た。
「殿下は……少々、甘やかされて育ちすぎました。味だけの美食を求め、食の本質を理解しておられない。もし彼女を連れ帰れば、殿下は彼女をただの『便利な道具』として扱い、やがて飽きるでしょう」
意外だ。
ただの嫌味な使者かと思っていたけれど、この人もまた、食を通じて何かを感じ取ってくれたらしい。
「私は報告書にこう書きましょう。『セシリア嬢は辺境の風土病に罹り、王都への移送は不可能。料理の腕も、噂ほどのものはなかった』と」
「……虚偽報告をする気か? 後で首が飛ぶぞ」
「構いませんよ。この『南蛮漬け』を食べられただけで、ここに来た甲斐がありましたから」
子爵はニヤリと笑った。
あら、意外とロックな人だった。
「それに、私が連れて行こうとしたら、辺境伯閣下が私をこの場で斬り捨てるおつもりだったのでしょう?」
「……フン。分かっているならいい」
ギルバート様は剣の柄から手を離し、少しだけ口角を上げた。
「礼を言う、モルトン子爵。……手土産に、この南蛮漬けの瓶詰めを持たせてやろう。道中の肴にするといい」
「おお! それはありがたい! 酒が進みそうですな!」
◇
上機嫌で帰っていくモルトン子爵を見送った後。
ギルバート様は、不機嫌そうに私の方を向いた。
「……セシリア」
「はい?」
「あの男に食わせたアレ、俺の分はあるんだろうな」
ああ、やっぱりそこですか。
使者が食べている間、ギルバート様はずっと喉を鳴らして我慢していたものね。
「もちろんです。厨房に山ほど漬け込んでありますよ。今夜はこれでお酒を飲みましょうか」
「……絶対だぞ。俺はまだ、お前の南蛮漬けを食べていない。一番最初に味わうのは俺であるべきだったのに」
彼は拗ねたように唇を尖らせた。
この国の最強戦力である男が、小魚の揚げ物一つでここまで嫉妬するなんて。
「はいはい。じゃあ、閣下には特別に、一番大きなアジを用意しますから」
「頭から尻尾まで、全部俺のものだ。……お前もな」
「え?」
最後の一言が、小さすぎて聞き取れなかった。
私が聞き返そうとすると、彼は「なんでもない!」と顔を背けて早足で歩き出してしまった。
その耳は、茹でたエビのように真っ赤だ。
やれやれ。
どうやら、胃袋だけでなく、心の方もしっかり掴んで離さないようにしなきゃいけないみたい。
私は南蛮漬けの甘酸っぱい香りを思い出しながら、幸せな気分で厨房へと戻った。
でも油断は禁物。
王太子殿下本人が乗り込んでくる日も、そう遠くないかもしれないのだから。




