第1話 処刑台のジュワアアアッ!
王都の中央広場には、今日も今日とて血に飢えた観衆が集まっていた。
どんよりと曇った空の下、木組みの断頭台が冷たくそびえ立っている。
その粗末な木の階段を、私はコツコツと登っていた。
私の名前はセシリア・オルコット。
つい先日までは公爵令嬢として、煌びやかなドレスに身を包んでいたけれど、今の姿は見る影もない。
着古した麻の囚人服に、乱れたハニーブロンドの髪。
手には鉄の枷。
「悪女セシリア! 聖女様に毒を盛るとは恥を知れ!」
「死んで償え!」
罵声とともに、腐ったトマトや石ころが飛んでくる。
額に小石が当たってツツッと血が流れたけれど、私はそれを拭おうともしなかった。
痛いとか、悲しいとか、悔しいとか。
そんな感情は、とうの昔に通り過ぎてしまったから。
今の私の頭の中を占めているのは、たった一つのことだけ。
(……お腹、すいたなぁ)
ぐううう、と腹の虫が鳴くのを、必死に腹筋で抑え込む。
冤罪で地下牢に入れられてから三日間、まともな食事を与えられていない。
出されたのは、カビの生えた固いパンと、泥水のようなスープだけ。
前世、ニッポンの定食屋『満腹屋』の看板娘として育った私にとって、それは拷問以上の苦しみだった。
ああ、死ぬのはいい。
無実の罪で殺されるのも、まあ百歩譲って許そう。あの馬鹿王子も、性格の悪い聖女も、地獄の底で呪ってやるから待っていろ。
でも。
でもね。
人生最期の瞬間がお腹ペコペコだなんて、絶対に許せない!
断頭台の最上段にたどり着く。
そこには、一人の男が立っていた。
漆黒の軍服に身を包み、腰には身の丈ほどもある大剣を佩いた長身の男。
ギルバート・フォン・ヴォルグ辺境伯。
この国の汚れ仕事を一手に引き受ける『処刑人』であり、『首切りのギルバート』と恐れられる魔獣のような男だ。
彼は赤い瞳で冷ややかに私を見下ろすと、低い声で告げた。
「罪人セシリア。最後に言い残すことはあるか」
儀礼的な問いかけ。
普通なら、ここで無実を訴えて泣き叫ぶか、命乞いをする場面だろう。
観衆たちも、私の無様な最期を期待して固唾を飲んでいる。
私は大きく息を吸い込み、ギルバート辺境伯の赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、腹の底から声を張り上げた。
「――お肉と、お鍋と、油を所望します!!」
「……は?」
氷のようだった辺境伯の表情が、一瞬だけ間の抜けたものになった。
広場のざわめきがピタリと止まる。
「な、なんだと?」
「ですから、調理器具と食材です! どうせ首を刎ねるなら、その前に私に料理をさせてください! このまま空腹で死んだら、悪霊になって毎晩枕元に立ってやりますからね!」
私は早口でまくし立てた。
辺境伯は困惑したように眉間の皺を深くする。
「……正気か? 命乞いではなく、食事を望むと言うのか」
「ええ、正気も正気、大真面目です。我が国の法典第十三条には『死刑囚には最期に望む食事を与えるべし』とあるはずですわ」
私が法の条文を暗唱してみせると、傍らに控えていた書記官が慌てて手元の書物をめくり、「た、確かに記述がございます」と声を震わせた。
ギルバート辺境伯は、しばらく私を値踏みするように睨んでいたが、やがて短く息を吐いた。
「……いいだろう。狂人の戯言に付き合うのも、処刑人の務めか。おい、この女の望むものを用意しろ」
よし、言質は取った!
私は心の中でガッツポーズをした。
処刑台の上には、異様な光景が出来上がっていた。
首を置く台のすぐ横に、簡易的なカマドと調理台、そして食材の入った木箱が並べられている。
私は枷を外された手首をさすりながら、目を輝かせて食材を確認した。
用意されたのは、この国で最も一般的な食用獣、『コカトリス』の腿肉。
凶暴な鳥型魔獣だが、その肉質は弾力があり、噛めば噛むほど旨味が溢れ出す極上の食材だ。
それから、東方の国から輸入された貴重な調味料たち。
私は迷わずナイフを手に取った。
観衆たちは「何が始まるんだ?」と、気味悪そうに囁き合っている。
ふふん、今に見ていなさい。
あんたたちの常識を、私の料理でぶっ壊してやるわ。
まずは下準備だ。
コカトリスの腿肉を、一口大より少し大きめにカットする。
皮目をフォークで数回突き刺し、味が染み込みやすくするのも忘れない。
ボウルに肉を放り込むと、そこへ東方の黒い調味液『ショウユ』と、琥珀色の『サケ』を黄金比率で注ぎ込む。
そして、ここからが重要だ。
私は小瓶から『魔薬草』と『根生姜』のすりおろしをたっぷりと投入した。
「うわっ、なんだあの強烈な匂いは!」
「臭いぞ! 毒を作る気か!」
最前列にいた騎士たちが鼻をつまんで顔をしかめる。
失礼な。これが食欲をそそる聖なる香りだということも知らないなんて。
この国の人々は食文化が貧相だ。
味付けといえば塩茹でか、黒焦げになるまで焼くだけ。
スパイスや香草は「薬」としてしか使われない。
だからこそ、勝算がある。
私はボウルの中で肉とタレを丁寧に揉み込んだ。
私の手には、前世からの特殊なスキル『食材鑑定』と、もう一つ『美味付与』の力が宿っている。
美味しくなあれ、美味しくなあれ。
肉の繊維一つ一つに旨味を染み込ませるように、愛を込めてマッサージする。
「……そろそろか」
背後で腕を組んで見守っていたギルバート辺境伯が、退屈そうに言った。
私はニヤリと笑う。
「焦らないでくださいませ。ここからが魔法の時間ですわ」
しっかりと下味のついた肉に、白い粉――『片栗芋の粉』をまぶす。
薄すぎず、厚すぎず。
肉の表面に白い雪化粧を施すように。これがサクサク食感の命だ。
カマドの火はすでに最高潮。
鍋の中では、たっぷりの植物油が適温に達して静かに揺らいでいる。
私は一つ目の肉を摘み上げると、油の中へと滑り込ませた。
――ジュワアアアアアッ!!
処刑台の上に、爆発的な音が響き渡った。
水を弾くような激しい音ではない。
重厚で、リズミカルで、聞いているだけで脳髄が痺れるような『揚げ音』だ。
「な、なんだその音は!?」
観衆たちがざわめく。
私は手を休めず、次々と肉を油へ投入していく。
ジュワワワ、パチパチパチ。
鍋の中できつね色に変わりゆく肉塊たちが、楽しげに踊り始めた。
そして、風に乗って『それ』は広がった。
油で熱せられたショウユの焦げるような芳ばしさ。
食欲中枢を直接殴りつけるような、ガーリックとジンジャーの刺激的な香り。
肉の脂が溶け出し、衣の中で旨味が凝縮されていく濃厚な気配。
「……っ!?」
最前列で警備をしていた騎士の一人が、ガクリと膝をついた。
彼はうつろな目で宙を仰ぎ、鼻をひくつかせている。
「なんだ……この匂いは……腹が……腹が減る……」
「おい、しっかりしろ! ……うっ、だめだ、俺も……唾液が止まらん」
異変は波紋のように広がった。
さっきまで私に石を投げていた民衆たちが、一斉に静まり返り、広場の中心にある鍋を凝視している。
誰もが喉をゴクリと鳴らす音が、不気味なほど大きく響いた。
広場全体を支配するのは、圧倒的な『空腹感』。
これこそが、私の最強魔法。
名付けて、『飯テロ・唐揚げの陣』だ。
一度引き上げて空気に触れさせ、余熱で火を通す。
そして高温にした油でもう一度、短時間でカラリと揚げる『二度揚げ』の工程へ。
ジュワアアッ! と音が一層高くなる。
衣は黄金色に輝き、表面はカリカリ、中はジューシーに仕上がった証だ。
「完成!」
私は油切り網の上に、揚げたての『コカトリスの唐揚げ』を山盛りに積み上げた。
湯気とともに立ち昇る香りは、もはや暴力に近い。
「あー、いい匂い! それでは死ぬ前に、いただきまーす!」
私は熱々の唐揚げを一つ、指で摘み上げた。
口に運ぼうとした、その時だ。
「――待て」
低い、地を這うような声が私の動きを止めた。
振り返ると、ギルバート辺境伯が私のすぐ背後に立っていた。
その赤い瞳は、私ではなく、私の手にある唐揚げに釘付けになっている。
表情は相変わらず冷徹で能面のようだが、よく見ると喉仏が上下に動いていた。
「……処刑前の囚人に毒を盛られては、騎士団の名折れだ。まずは私が毒見をする」
「は?」
いやいや、材料を用意したのはあなたたちでしょう。
ツッコミを入れる間もなく、ギルバート辺境伯の大きな手が伸びてきた。
彼は私の手から唐揚げをひょいと奪い取ると、躊躇なく口に放り込んだ。
――カリッ。
広場の隅々まで聞こえるような、軽快で小気味よい音が響いた。
サクサクの衣が砕け、その中から熱々の肉汁が弾け飛ぶ。
辺境伯の動きが止まった。
彼は目を大きく見開き、時が止まったように固まっている。
(……お気に召さなかったかしら?)
この世界の人は薄味好みだから、ちょっと刺激が強すぎたかもしれない。
不安になった私が声をかけようとした瞬間、彼はガリリ、ジュワッと猛烈な勢いで咀嚼を始めた。
「……っ、なんだこれは!」
彼は叫んだ。いつも冷静な『処刑人』の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
「外側は岩のように硬いかと思えば、まるで枯れ葉のように脆く崩れ……中からは黄金のスープが溢れ出してくる! この黒い調味液の焦げた香り、そして鼻に抜ける香草の刺激……!」
彼はハフハフと白い息を吐きながら、あっという間に一つを飲み込んだ。
そして、血走った目で網の上の山盛り唐揚げを睨む。
「……美味い。美味すぎる。貴様、これはなんだ! 魔法か!? いや、幻術か!?」
「ただの唐揚げですけど」
「唐揚げ……? 聞いたことがない。だが、身体が……力が湧いてくるようだ」
彼は震える手で二つ目を掴み、口に放り込む。
今度は恍惚とした表情で、頬を緩ませて咀嚼している。
あの恐ろしい処刑人が、まるで初めておやつをもらった子供のような顔をしているのだ。
「閣下……? あの、ズルいですよ、私の最期の食事なのに」
「うるさい! ……んぐッ、熱っ、だが美味い!」
ギルバート辺境伯は止まらなかった。
三つ、四つと次々に唐揚げが彼の胃袋へ消えていく。
周囲の騎士たちも、観衆たちも、その光景をポカンと口を開けて見つめている。
ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が聞こえた。
「閣下! 毒見にしては量が多すぎます!」
副官らしき騎士がたまらず叫んだ。
ハッと我に返った辺境伯は、口元についた油を手の甲で乱暴に拭い、私に向き直った。
その瞳の輝きは、さっきまでの冷たい殺意とは明らかに違っていた。
獲物を見つけた獣のような、ギラギラとした執着。
「……おい、女」
「は、はい。もう処刑ですか? せめて一つくらい食べさせて……」
「処刑は中止だ」
彼は低い声で宣言し、大剣の柄に手をかけたまま、広場の群衆に向かって一喝した。
「この女の身柄は、これより私が預かる! 再調査が必要だ!」
「なっ!? 閣下、正気ですか!?」
慌てる書記官を無視して、ギルバート辺境伯は私を軽々とお姫様抱っこで抱き上げた。
え、ちょっと待って。
いきなり何?
「離してください! せめて唐揚げを食べてから……!」
「屋敷に来い。そこで作れ。材料ならいくらでも用意してやる」
彼は私の耳元で、甘く囁くように――いや、脅すように言った。
「その代わり、この『唐揚げ』とやらを、私が満足するまで作り続けてもらう。……一生な」
その言葉の意味を理解するより先に、私は辺境伯の腕の中で馬車へと運ばれていく。
遠ざかる処刑台の上には、まだ湯気を立てる数個の唐揚げが残されていた。
「ああっ、私の唐揚げぇぇぇぇ!」
私の悲痛な叫びが、青空に吸い込まれていった。
こうして、私の断頭台回避劇は、唐揚げの匂いとともに幕を開けたのだった。




