--第44話《刻まれた傷 》
白。
ただ、それだけの世界だった。
風も、音も、存在もしない。
どこまでも無音の白の中に、ハルヒは立っていた。
何もない。
足元に影も、息の白さすらもない。
それでも、彼は確かにそこに“在る”と感じていた。
――カチ、カチ。
聞こえる。時計の音だ。
懐から取り出した古びた懐中時計が、ゆっくりと針を刻んでいた。
しかしその針は、十二の数字ではなく、幾重もの“傷”の上をなぞっていた。
まるで時間そのものが、裂かれているようだった。
「ここは……どこだ?」
声は響かない。ただ、空気が震えるだけ。
だが、その問いに応える声があった。
――《そこは“まだ過去にも未来にも属さぬ場所”だ。》
低く、重く、どこかで聞いたような声。
その響きは懐中時計の奥から漏れていた。
そして、光の残滓の中から“もう一人の自分”が歩み出た。
同じ顔、同じ声、同じ瞳。
だが、その瞳の奥には深い闇が宿っていた。
「……お前は?」
「お前の“残響”。時を戻した代償として、世界が刻んだ傷だ。」
残響――?
その言葉の意味を掴む前に、
白い世界にひびが走った。
ピシリ、と音を立てて空間が割れる。
次の瞬間、目の前に広がったのは――“戦場”だった。
血と炎。崩れた砦。
倒れた仲間たち。
そして――リィナが、ハルヒの腕の中で息をしていない。
「……やめろ、それは……違う!」
叫んでも、声は届かない。
それは“記憶の断片”ではなかった。
“存在しなかった未来”――時を戻す前の結果、世界が一度“通過した”過去の残像。
「見ろ。これが、お前が救った代わりに失われた現実だ」
もう一人のハルヒが、血に染まった雪を踏みしめる。
「お前は彼女を救うために時間を戻した。だが、その瞬間――
この世界は“別の流れ”を捨てた。
捨てられた時間には、捨てられた命が残る。」
ハルヒは拳を握りしめた。
血が滲むほど強く。
「……そんなもの、分かってる。でも、だからって見捨てられるわけがないだろ!」
「見捨てられない……か。
ならば問おう、“何度でも救う”と言えるか?」
残響の声が、冷たく響いた。
「お前が時を戻すたびに、世界はひとつ“別の軌道”を捨てる。
救われなかった命、消えた記録、存在しなかった現実。
そのすべてが“傷”となって、この世界を蝕んでいく。」
――カチリ。
懐中時計の針が逆回転を始める。
世界が再び歪み、炎が凍りつく。
倒れた兵士が立ち上がり、崩れた砦が元に戻っていく。
“時間の逆流”だ。
「やめろ……やめてくれ!」
ハルヒは叫んだ。
だが、時計の針は止まらない。
時間はもはや彼の意志を離れ、勝手に世界を巻き戻していた。
“残響”が微笑む。
「見ろ、お前が欲した奇跡の果てを――」
氷の砦、雪の戦場、聖女の祈り、英雄たちの剣。
すべてが光の粒となって崩れ落ちる。
まるで、過去が砂のように風へ溶けていく。
ハルヒの身体が光に包まれた。
腕に、胸に、首筋に、無数の文字が刻まれていく。
古代語のような、時間の線のような……
――**「刻印」**だった。
焼けるような痛みが全身を貫く。
ハルヒは膝をつき、息を呑んだ。
雪の上に落ちた血が、赤ではなく“銀”に輝く。
それは魔力ではない、“時間”そのものの流出だった。
「……これが、代償なのか」
「いや、始まりに過ぎない」
残響が言う。
「この印が完全に刻まれた時――お前は時間そのものと同化する。
“人”であることを失い、“時を刻む存在”になる。」
「そんな運命、受け入れる気はない」
「運命ではない。“結果”だ。お前が選んだ。」
言葉が途切れた瞬間、残響の姿が溶けた。
その代わりに、白の世界が再び黒く染まり、
現実の雪原が戻ってきた。
ハルヒは冷たい地に倒れ込み、荒く息を吐いた。
腕には刻印が残り、時計は静かに針を止めていた。
ミリアが駆け寄る。
「ハルヒ!? どうしたの、その腕……!」
レオンも眉を寄せる。
「まるで……焼き印みたいだな」
「違う……これは――」
ハルヒは微笑もうとしたが、声が震えていた。
「“時間”が、俺の中に入ってきたんだ……」
リィナが彼の手を握る。
「怖くても、進もう。ね、ハルヒ」
「……ああ。進まなきゃ。たとえ時間が壊れようとも。」
風が吹き抜け、雪が再び舞い上がる。
遠くで、針の音が一度だけ鳴った。
――チリ……ン。
それは、時の始まりか。
あるいは、世界の終わりの合図だった。




