--第42話 代償の始まり ―
北の風は、未だに冬の牙を抜いていなかった。
夜が明けても、空は灰色のまま凍りついている。
瓦礫に覆われた街並み。
凍てついた噴水の縁に腰を下ろし、
ハルヒは手の中の“割れた懐中時計”を見つめていた。
――あの日、時間を戻した。
誰も死なせなかった。
けれど、その夜以来、体の奥で何かが軋む。
まるで、自分の鼓動のたびに“針”が進んでいくような感覚。
(……何を削ってる? 時間? 命? それとも――記憶か)
冷たい風が髪を撫でる。
掌に残る金色の紋章――“時の傷跡”が微かに光った。
その光は痛みと共に、彼の中で小さく燃えている。
「ハルヒ……また、眠ってないのね?」
背後から声がした。
ミリアが毛布を肩にかけたまま、
凍った地面を歩いてくる。
夜明け前の光に、彼女の白金の髪が淡く反射した。
「……眠れなかったんだ」
「無理もないわ。あんな戦いのあとだもの。でも、あなた……」
ミリアはそっとハルヒの手を取った。
その指先に触れた瞬間、息を呑む。
「……冷たい。血の気が、ないじゃない」
「平気だ。ちょっと疲れてるだけ」
「嘘。あなた、何か――“力”を使ったのね」
ハルヒは黙っていた。
答える代わりに、懐中時計を閉じる。
金属が擦れる小さな音が、
まるで心の奥を突くように響いた。
「……時間を、戻したんだ」
その言葉に、ミリアの瞳が大きく揺れた。
「まさか……そんなこと……」
「三日前の戦場へ。リィナを救うために」
「それで、あなたの腕までにその紋が?」
「たぶん、代償だ」
ミリアは震える指で、彼の掌の紋章をなぞる。
光が脈打つたびに、ハルヒの呼吸が乱れた。
まるで、誰かが体内の“時間”を削っているかのように。
「やめて! もう使わないで!」
ミリアの声は震えていた。
「そんな力……あなたを壊すわ」
「でも、誰かを救えるなら――」
「違う! 救うたびに、あなたが消えていくのよ!」
その叫びに、ハルヒの胸の奥が痛んだ。
彼は何も言い返せなかった。
リィナの笑顔が脳裏をよぎる。
そして、あの日救えなかった無数の命も。
ミリアは俯いたまま、小さく呟いた。
「……“時”は、神の領域。触れてはいけないの」
「わかってる。でも、止められない」
「ハルヒ……あなた、少しずつ消えてるのよ」
その瞬間、風が止んだ。
周囲の雪がふわりと宙に浮かび、音が消える。
ハルヒの体から、淡い金色の光が溢れ始めた。
「……っ、これは――!」
視界が揺らぐ。
手足が痺れ、意識が遠のく。
彼の中の“時間”が、逆流を始めたのだ。
瞳の奥に、無数の光景が流れ込む。
過去、未来、そして――“失われた瞬間”。
「ハルヒ! しっかりして!」
ミリアが抱きかかえる。
しかしその腕の中で、ハルヒの輪郭が揺らいでいく。
まるで、風に溶ける霧のように。
「……見えるんだ。過去が……未来が……」
「もういい! 見なくていいの!」
「でも、ミリア。俺、ようやくわかったんだ」
「何を――?」
「“時を動かす”ってことは、“命を動かす”ってことなんだ……」
彼の言葉と同時に、懐中時計の針が再び動いた。
カチリ、と音が鳴る。
世界の流れが戻り、雪が再び落ちる。
光も、音も、風も――元通り。
ただ、ハルヒの掌の紋章だけが、赤く焼け焦げていた。
「ハルヒ!?」
「……大丈夫。少し……時間を使いすぎただけだ」
その笑みはどこか、儚かった。
ミリアは何も言えず、ただ彼の手を握りしめる。
凍てつく空の下、
夜明けの光が二人を包み込み、
その中で――時計の針が、静かに止まった。




