--第41話 時を遡る者
雪原を渡る風は、夜明けの光を拒むように冷たかった。
その空気の中、ハルヒは一人、野営地を離れていた。
リィナもミリアもまだ眠っている。
ただ、彼だけが「確かめなければならない」と感じていた。
あの懐中時計――時を止めた、あの瞬間。
それが偶然ではないとしたら。
もし、自分が「時を動かせる」のなら――。
それは、救える命が増えるという希望でもあり、
同時に、世界の法を壊しかねない禁忌でもある。
雪の丘の上に立ち、ハルヒは懐中時計を手に取った。
氷のように冷たい金属が指先に触れる。
光はない。ただ、彼の心臓の鼓動と同じリズムで
内部の針が微かに震えていた。
「……一瞬でいい。過去に戻る」
静かに願うと、世界が反転する。
視界が砕け、音が消え、空の色が“逆流”していく。
雪が空へと舞い上がり、炎が冷気に変わり、
人の声が遠ざかって――。
次に、彼は“過去の戦場”に立っていた。
そこは三日前のレヴナ・フォート。
崩れかけた石壁、血のにおい、そして――
倒れた兵士たちの姿。
「……戻った、のか?」
心臓が跳ねる。
目の前に、リィナが鎖に囚われている。
それは、彼が助けに来る前の光景。
彼女の声が震え、バルデンの剣が振り下ろされようとしていた。
「待て……!」
駆け出す。
だが――足が、動かない。
まるで空気が氷の壁となって、彼の身体を縛っていた。
声も出ない。
時間を“見る”ことはできても、“変える”ことは許されていない。
そのとき、時計の中で何かが軋んだ。
――“代償を払う覚悟があるか”。
幻聴のような声。
その意味を理解する前に、
彼の手首に鋭い痛みが走った。
血が滲む。時計の針が赤く染まり、
世界の流れがふたたび歪む。
次の瞬間、彼は“時間の狭間”に落ちた。
光も音もない、ただ白い虚空。
そこには、数え切れないほどの“瞬間”が漂っている。
笑う顔、泣く声、壊れる街、燃える空。
すべてが「選ばれなかった未来」だ。
「これが……時を越えるということなのか」
無数の未来が、彼を見つめ返す。
その中に――リィナの姿があった。
血に染まる未来、笑顔で歌う未来、何もない未来。
どれが“正しい”のか、誰にも分からない。
――それでも。
「俺は……あの笑顔を、守る」
その瞬間、時計が砕けたような音を立て、
世界が弾け飛んだ。
気づけば、彼は再び雪原の丘に立っていた。
夜明けの光が、雲を裂いて差し込んでいる。
手の中の懐中時計は、割れていた。
針は動かない。
だが、彼の掌の中央には、金色の紋章のような刻印が残っていた。
それは「時の傷跡」。
ミリアが遠くから駆けてくる。
「ハルヒ! どこに行ってたの!?」
彼は少しだけ微笑んで答えた。
「……ちょっと、過去に会いに行ってきた」
ミリアは眉をひそめる。
「また無茶をしたのね」
「もうしないよ。……たぶんな」
ふと、壊れた時計の破片が光る。
その中心で、針が一度だけ――ほんのわずかに――進んだ。
カチリ。
時間は、まだ終わっていなかった。




