--第40話 刻の残響 ― 残された力 ―
――氷雪の戦いが終わって、三日が経った。
北の空はまだ晴れない。
重く垂れ込めた灰雲が、太陽の光を拒むように広がり、
吹きすさぶ風は凍てつく息を吐きながら、
雪解けの気配さえも押し潰していた。
レヴナ・フォートから脱出したハルヒたちは、
北方補給拠点に身を寄せていた。
テントの隙間から覗くのは、戦いの痕を残した兵たちの背中。
彼らの手には包帯、目には疲労、
それでも、その瞳には微かな希望が宿っている。
「……リィナの容体は?」
焚き火の前に座るミリアに問うと、
彼女は静かに微笑んで頷いた。
「安定しているわ。あなたのおかげね、ハルヒ」
「俺は……ただ、間に合っただけだよ」
言いながら、ハルヒは手のひらを見つめた。
あの砦で戦った時の、焼けるような痛み。
リィナを抱えて駆け抜けた、時間の歪みのような感覚。
それが、いまだ皮膚の下に残っていた。
――あのとき、確かに「時」が止まった。
魔族の将バルデンの一撃が迫った瞬間。
世界の音が消え、炎が凍り、雪片が宙に留まった。
その中で、ハルヒだけが動けた。
まるで、誰かが“彼だけの時間”を動かしているかのように。
そして気づけば、敵の剣は砕け散り、リィナの鎖も消えていた。
あれは――偶然ではない。
確実に、“何か”が働いた。
その夜。
ハルヒは眠れなかった。
凍える風の音を聞きながら、彼は古びた時計を取り出す。
あの露店で買った、奇妙な懐中時計。
針は止まったまま――そう、千年前に飛ばされてから一度も動かなかったはずだ。
だが今、その針が――。
「……動いてる?」
カチリ、と。
微かな音が、静寂を切り裂いた。
秒針が、一瞬だけ進んだのだ。
ハルヒの指先が震える。
時計の外装に、淡い光が宿る。
その輝きは冷たくも温かく、
まるで“時そのもの”が鼓動しているようだった。
次の瞬間、視界が歪む。
焚き火の炎が逆流するように逆再生し、
風の音が戻り、雪が空へ昇っていく。
――時間が、巻き戻っている。
「やめろ……!」
思わず叫んで時計を握りしめる。
光は一瞬で消え、夜が戻った。
汗が額を伝う。
彼の胸の奥で、鼓動が早鐘のように鳴っていた。
ほんの一瞬。
だが確かに、時間は“動いた”。
あの力――砦で感じた異変。
それは、この時計が起点だったのか。
「……俺に、何が起きている?」
誰に問うでもなく、呟く。
しかし夜は答えない。
ただ遠くで、風が凍てついた地を滑るように唸った。
ふと、リィナの寝息が聞こえる。
穏やかな安らぎの音。
その音に、ハルヒの胸の奥で何かが落ち着きを取り戻した。
――守れた。
だが、これから先も同じように守れるだろうか。
この“時間を歪める力”が、また暴走したら?
掌の中の時計が、再びわずかに光る。
その中心で針がわずかに進む音が、彼の耳に届いた。
カチリ――。
それはまるで、
「まだ終わっていない」と告げる、時の声だった。




